悪いのはこちらですから

見鳥望/greed green

 乗る車両を間違えた。乗り込んでまもなく俺は後悔した。


「ギャーギャーうるせえんだよいい加減にしろよ!」


 土曜の夜、飲みや遊びやら休日を謳歌してきたであろう人々で溢れた電車の中で聞こえた声に、ただでさえ土曜出勤で疲れている身体と心に追い打ちをかけられ気分が沈み込んだ。てめぇが一番うるせえんだよ。誰もがきっとそう思っている事だろう。


「せっかくの休みで気分よく飲んだ帰りだってのによ、台無しだぜ」 


 つり革を掴み目の前に座るおそらく赤ん坊を抱いた女性に向かって悪態をついているのは四、五十代と思われる男だった。細身でだらしなくよれた服装に不健康そうな浅黒い肌、薄くなった頭髪に鷲鼻で鷹のような目をぎょろぎょろとさせている。一目で関わってはいけないタイプの人間だと分かる見た目だった。それを証拠に二人の周りだけは少しばかり人が離れており、二人だけが孤立したような空間が出来上がっていた。


「すみません、すみません」


 黒い長髪で顔は見えないが、何度も何度も座ったまま目の前の男に対して頭を下げ続けている姿はあまりにも気の毒だった。

 彼女が謝る必要などどこにもないはずだ。だが世界とは時に、いや割と不条理だ。悪くなくても責められる時がある。悪くないのに助けてもらえない時がある。彼女の置かれた状態こそまさにそれだ。


 ーーくそだりぃな。


 ただでさえ仕事の疲れとストレスで苛ついた気持ちが降り積もっている。発散も出来ずに忙殺される中、休みに飲みに行くだけのゆとりと余裕があるにも関わらず理不尽に子持ちの女性に怒鳴りつけるなんて底辺の極みだ。

 胸糞悪い。不平等過ぎる。

 沸騰するように一気に怒りが込み上げた。気付けば俺の足は渦中の二人に歩み寄っていた。


「おい」


 怒りのまま男に呼びかける。正義感なんて別にない。ただ自分自身がそこはかとなく不快だった。この感情を、理不尽を、不条理を、ぶつけて壊してぐしゃぐしゃにして無にしたくなった。やけくそで破滅的な感覚だった。

 しかし男にギロリと睨まれた瞬間に早くも後悔が襲った。目の前で見ると改めてやばい。こっちを見ているのに焦点が合っていない。まともではないと思っていたが遠目で見るのと間近で見るのとでは訳が違う。


 ーーだめだ。負けるな。

 

 ここで怯んだら終わりだ。少し前までの怒りを思い出せ。

 がむしゃらに身を粉にして働いている俺と、子持ちの女性に平然と怒鳴り散らすクソ野郎。怯むな。こんな奴に遠慮する必要なんてどこにもない。もうどうせ今更引き返せない。 

 ーーやってやる。やってやるよ。


「あ? なんだよ兄ちゃん? お前もこいつに文句言いに来たのか?」


 鋭い眼差しのまま、口元をにやつかせ目の前に座る女性を指差す。


「うるさいもんなぁ。迷惑だもんなぁ。無関係の人ら巻き込んで迷惑かけたらダメだよなぁ」


 言いながら男は女性のつま先を足で小突いた。


「ちょっと!」

「あん? 何だよ?」

「蹴っちゃダメでしょ」

「蹴るぅ? 蹴ってなんかねえだろ。当ててるだけだろ。ほら」


 言いながら男は何度も女性のつま先を蹴る。


「すみません、すみません」

「もうやめてくださいって!」

「お前に関係ねぇだろ」

「すみません、すみません」


 謝る女性。蹴る男。止める俺。なんだこの構図は。カオス過ぎる。


「すみません、すみません」


 女性はひたすらに謝り続ける。長く暖簾のように垂れ下がった髪のせいでいまだに俺は彼女の顔を見ていない。せっかく止めに入ったのに俺に一瞥もくれずにただ謝り続ける彼女にも少し腹が立ってきた。


「あなたもそんなに謝らなくていいですよ」

「すみません、すみません」

「は? 謝るのが普通だろうが」

「何を謝る事があるんですか。 彼女何もしてないじゃないですか」

「うるせえなごちゃごちゃと。迷惑だから俺が代表して文句言ってやってんだろうが。皆の為だ」

「すみません、すみません」


 訳が分からない。何が皆の為だ。善意も品位も欠片も感じさせない粗暴な男が何を言ってるんだ。


「良く分からないですけど。とにかくもう許してあげたらいいじゃないですか。これだけ謝ってるんだから」

「すみません、すみません」

「本当に謝る気あんのかこれ?」

「すみません、すみません」

「ほら、あるでしょ。どう考えても」


 いやもう正直良く分からない。勢いで二人の中に突っ込んだ俺自身も普段に比べればまともではない。まともだったらこんな状況にそもそも飛び込まない。それでもこの粗暴な男よりただただ謝り続ける彼女の方こそ異常なのではないかと思い始めていた。


「すみません、すみません」


 俺も男も黙って彼女を見た。


「すみません、すみません」


 無限赤べこのように女は頭を揺らしながら謝る。謝る。謝る。


「……はあ」


 しばらくして男がふいにため息をついた。


「なんか冷めたわ」


 言いながらわざと俺に肩を思いっきりぶつけて男はその場を後にした。


「いい加減黙らせろよその泣き声。耳がイカれちまう」


 去り際男はそう言って電車を降りて行った。


 ーー……助かったー……。


 どっと疲れが急に押し寄せた。ずっと緊張状態が続き全身の筋肉ががちがちに強張っていた。


「あの、もう大丈夫ですよ」


 女性に声を掛けた時に気付いたが、彼女は頭を下げたまま止まっていた。ループ再生のように続いた謝罪も止まっていた。


「だ、大丈夫ですか?」


 呼びかけるとゆっくりと女性が頭を上げた。そこでようやく彼女のご尊顔を拝む事が出来た。

 白く薄い顔立ちだが美人だった。歳は二十代後半ぐらいだろうか。正直謝罪マシーンと化していた姿を見て相当ヤバイ女かもと思い始めていたので、失礼ながらまともな見た目でほっとした。

 彼女は俺を見て少しだけ頷いた。大丈夫そうだったが、彼女は俺をじっと真顔で見つめ続けたままだった。


「あ、えーっと……」


 どう声を掛けていいか分からず戸惑っている俺を見ても彼女の視線はぶれなかった。


「災難、でしたね」


 気まずさを感じて出た言葉にも彼女は反応しなかった。


「あ、いや、あー……。お子さんも、怖かったでしょうね。そりゃ泣いちゃいますよね。でも赤ちゃんって泣くのが仕事っていうか、泣く事でしか気持ちを伝えられない的な、そういう生き物だから、そこにいちゃもんつけられてもマジで困りますよね。ほんとあんな人間はろくでもないですよ」


 慌てて間を言葉で埋めてみても反応なしだった。


「全く色んな人間がいるもんですよね。こんな世の中じゃ外出るのも怖いっていうか……」


 と言いながら彼女を見ていた時。


 ーーあれ?


 違和感で言葉が止まった。

 彼女の両腕。そこに収まる赤ちゃん。彼女の顔同様、ずっと子供の顔も見えていなかった。ようやく彼女が顔を上げた事で露わになっていたが、目の前の事態に必死になっていてちゃんとまともに認識出来ていなかった。

 じっと彼女が抱えている子供を見て俺はようやく気付いた。気付いた瞬間に本気で後悔した。さっきまでいたあの粗暴な男と対峙した瞬間よりもずっと。


 人形だった。リアルではあったが、明らかに命の宿っていないただの物体だった。

 目を開けているが瞬き一つしない。薄っすら空いた口はもちろん動きもせず声など発するわけもなかった。


「ありがとうございます」


 途端に目の前から妙に高い音が聞こえた。視線を少し戻すと、彼女が俺を見ていた。


「ありがとうございます。優しいんですね」


 彼女の表情はふやけたようにふにゅりと緩んでいた。


「でも悪いのはこちらですから」

「え?」

「この子が大きな声で泣くから、ああ言われても仕方がありません。でももちろんこの子が悪いわけではないです。私がこの子をこういった場所で大きな声で泣かないように育てられなかった、私が悪いんです。だからこの子の為に、周りの皆様に今この場で私が出来る事は、この子の代わりにただ謝る事だけなんです」


 言いながら無表情で腕の中に収まる我が子を見つめた。


「それなのにあなたは私達の為にわざわざ間に入ってくれました。優しいんですね」


 ふっと彼女は右手を俺に向け俺の手を握った。


「いいお父さんになってくれそうですね。だってこんなに優しいんだもの」


 動けなかった。今自分の身に起きている事がまるで理解できなかった。

 頭の中で先程までの一連の騒動を思い返す。いちゃもんをつける男。謝り続ける彼女。そしてそのたびに思考はますます混乱していった。

 

“ギャーギャーうるせえんだよいい加減にしろよ!”

“うるさいもんなぁ。迷惑だもんなぁ。無関係の人ら巻き込んで迷惑かけたらダメだよなぁ”


 男は何にキレてたんだ?

 何がそんなにうるさかったんだ?

 

 彼女の謝罪? いや違う。

 俺が気付く前に彼女が実は大声を出して暴れていた? いや違う。

 何故なら決定的な言葉がある。


“いい加減黙らせろよその泣き声。耳がイカれちまう”


 去り際の男の言葉。

 泣き声、と男ははっきり言った。まるでその場から立ち去る最後の瞬間までずっと何かの泣き声が鬱陶しくて仕方なかったと言わんばかりの言い方だった。

 

 必死だったが、思い返しても一度も子供の泣き声なんて俺は聞いていない。

 今ももちろん。そりゃそうだ。この子は人形なんだから。

 でも、じゃあ何であの男には泣き声が聞こえていた?


“この子が大きな声で泣くから、ああ言われても仕方がありません”


 俺が、俺だけが間違ってるのか?

 彼女に手を握られたまま呆然と立ち尽くした。


「お父さん、お家に帰りましょう」


 立ち上がった女が俺に笑いかける。

 その場限りの無駄な正義感のせいで、全てが今無茶苦茶になろうとしていた。


 ーー俺が悪かったのかよ。


 俺は女の手を振り払って必死で逃げた。

 ヤバイ男から女を助けようとしたら、その女の方がヤバかった。

 

“うるせえなごちゃごちゃと。迷惑だから俺が代表して文句言ってやってんだろうが。皆の為だ”


 ふざけるなと思ったが、今となってはある意味であの男が一番正しかったのかもしれない。

 皆の為。あの女に関わらせない為。泣き声が聞こえていたからこそ働くセンサーがあの男にはあったのかもしれない。

 でもそんな事はどうでもいい。

 振り返った先に、しっかりとあの女が幸せそうな笑顔で追いかけてくる姿を見て、なんとなく多分もう逃げられないんだろうなと思った。

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