第6話 黎妃

「春明?」

「ああ、すみませんね。眠っておられましたか」


「春明!」

 彼女はふわりと起き上がると、寝台に腰掛け、嬉しくて堪らないと言ったふうに、春明の首に抱きついた。


「あ、こらっ」

 嗜められると、ぺろりと舌を出して笑う。


 その様を。小蘭は我を忘れて見入っていた。なんて綺麗な女性ひとなのだろう。


 ここに来るまでの、禍々しい瘴気をあっさりとうち払ってしまうような、清浄な光。

 窓ひとつない部屋で、彼女だけがキラキラと輝いている。

 その所作は全く重力を感じさせず、さながら天女のよう。膳の準備を始めている女給達も、いつしか緊張を忘れ、顔を和ませている。


 これが、男女を問わず虜にする、本物の傾城か。親子間で争奪戦が起こるのも無理はない。


 正直に言って、自分にはまるで似ていない。


 毒味の少女、美雨に扮した小蘭がぼんやりと見惚れていたところに、春明の声が入ってきた。


「さあ、食事の準備が整ったようですね」


女給達が揃って一礼をすると、黎妃様はニコッと微笑んで、

「いつもありがとう」

折り目正しく礼を言う。


 女給たちは、うっとりと夢見心地の表情で扉の外に去ってゆき、いかめしい鉄扉が閉じられる。


へやには小蘭と春明、黎妃だけが残された。


「さて黎妃様、先に食事を頂きますか?」

「いらない、食べたくないわ。食欲がないの」


「でしたら、先に診察を済ませてしまいましょうね。

 さ、もういちど横になっていただけますか。

美雨メイユイ、毛布を持って、あちらを向いていなさい」

「…ぅあい…」


 黎妃様が、素直に寝台に横になるのを横目に、小蘭は、言われたとおり黎妃の毛布を持って後ろへ下がる。

 黎妃の弾んだ声が聞こえてきた。


「春明、春明、ねえ聞いて。こないだ貸していただいた御本のお話、あれはとても良かったわ。

 特に、いじめられていたさぎ達を……」


「そうですね、私も、あのくだりは貴女好みだと思っていましたよ。さ、診ますから力を抜いて」


「あとね、最後に鵜の皇子様が、鷺のお妃様を迎えたところ、すごくよかったわ。

 ただ、少し納得納得がいかないのは、あの時どうして……」

「黎妃様、あまり興奮して喋らないで。心の臓の音を聞いているからね」

「はぁい、ごめんなさい」


 二人の会話に耳を傾けながら、小蘭はふと考えた。


 うーん、可愛い。

 先生に無邪気に甘える黎妃を見ていると、皇帝が他の男を警戒する気持ちも、少し解る気がするなぁ。


 と、背中から、春明の沈んだ声が聞こえてきた。


「はい、もう隠していいですよ。傷になっている部分は、綺麗に洗って薬を塗っておきましたからね。

 それから、黎妃様、きちんと食べなくてはいけません。前よりまたお痩せになって」


「だって、欲しくないんだもの。

 そうだ!ねえ、そこのあなた、お腹がすいているのでしょう?それ全部食べていいわよ」


 突然飛んできた声に、小蘭はびくっと肩を揺らした。

 さっきから盛大にお腹を鳴らしていたのを聞かれていたようで、少し恥ずかしい。


「え?…はい…では…遠慮なく…」


 つい誘惑に駆られ、こら!という先生の声をききながらも、目の前のご馳走に箸をつけかけた。


 すると、


「あ、待って」

 黎妃は再び、ひらりと寝台から飛び降り、テーブルについた。

 と思うと、小蘭の目のまえの膳から、ひょいと焼売を摘んで口に入れる。


「うん、よし。これで食べても大丈夫よ」


 そう言って毒味係の「美雨」に微笑みかけ、またひらりと寝台に舞い戻ってゆく。

 あっという間の出来事に、小蘭は目をぱちぱちさせるだけ。


 春明が呆れ顔で嗜めた。


「全く、黎妃あなた様はいつもこれだ。すぐに使用人を甘やかすのだから」


「だって理不尽だわ、こんなに小さい娘にお毒味をさせるだなんて。私より、ずっと先が長いのよ」


「黎妃様、そんなことを言ってはいけませんよ。

 ……もう、おひとりの身体ではないのですから」


「え……!」

「春明、それは!」

 小蘭が声を上げたのと、黎妃が叫んだのはほぼ同時だった。


 春明は、構わず小蘭の頭の鬘を取ってしまう。

 黒髪の下から、ふわりと金の癖毛が表れたのを見て、黎妃が目を丸くした。


「まあ、あなた……」

「以前、貴女にお話しした姑娘むすめですよ。貴女の秘密を、今から彼女にお話します。いいですね?」

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