第2話 髷の波動


「待って待って待って、えっ!?」

「そこもとよ」


 男が、結衣に優しく語り掛ける。深く響く、セロの様な声。結衣は、自分の体がぶるりと震えるのが解った。

「余の名は大髷之守征東使政宗おおまげのもりせいとうしまさむねである!」

 高らかに名乗りを上げられて、心が跳ねる。本物の侍だ。いや、お武家様。

 結衣は、目の前の光景に完全に見惚れて、固まっていた。

 スケッチブックの画用紙から飛び出してきたその男は、まるで時代劇のセットから抜け出してきたかのような完璧な和装の姿。そして、その髷――結衣が描いたものよりもさらに艶やかで立派だった。


「……ちょ、ちょっと待って、どういうこと!?なんで絵から人が出てくるの!?」


 結衣は慌てて後ずさりながら叫んだ。


「そこもとが余を呼び寄せたのだろう?」


 男――政宗は、悠然と微笑みながら言った。


「呼び寄せたって……俺はただ絵を描いただけで!」


 結衣の声は震えていた。だが、政宗は少しも動じる様子はなく、凛とした佇まいのまま続ける。


「そこもとの描いたこの姿」


 政宗が長い指先でイラストを手に取る。


「これは、髷への深い愛と敬意なくして成し得ぬ業。余の使命を支えるに相応しい者よ」

「え、いやいや、そんな大層な話じゃないし……!」


 結衣は否定したかったが、政宗の堂々たる態度とその完璧な髷に圧倒されてしまい、うまく言葉が出てこない。


「まずは余の話を聞け。余は髷の世界から参った」


 政宗が、グッと拳を握る。そしてまるで演説でもしているかのように声を張り上げた。


「現代日本に失われし髷の文化を復興し!髷の世界を救うのだ!」

「髷の世界って……?そんなの聞いたことないんだけど!?」


 結衣は、信じられないという顔で政宗を見上げた。


「知らぬのも無理はない。髷の世界は、かつてこの地に髷文化を根付かせた者たちの故郷だ。しかし、現代の日本は髷を忘れ、我が世界は力を失いつつある」


 政宗の声には、一瞬だけ哀しみの色が滲んだ。


「だからって、どうして俺な訳!? 髷が好きってだけで……」


 結衣は困惑しながらも、少しだけ心が揺れた。

 髷文化が衰退している――それは確かに結衣自身も感じていたことだ。

 しかし、それが異世界の存亡に関わっているとは思いもしなかった。


「そこもとの髷愛は、ただの趣味に留まらぬ。余が見抜いたのだ。そこもとの想いが、余をこの地に引き寄せ、この絵を扉にできたのだと」


 政宗はそう言うと、結衣の肩に手を置いた。

 その手は大きく、力強いが、どこか優しさも感じられて、暖かだった。


(ふわああ……)


 バニラの様ないい香りがして、ついほだされそうになる。そうかあ、髷文化の復活かあ。うんうん。

 いやいやいや。


「ちょ、ちょっと待って!」


 結衣は慌ててその手を振り払った。


「俺はただ、髷が好きなだけ! でも、現代には現代の髪型があるし、それはそれでいいと思ってるし!」


 政宗は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに真剣な目で結衣を見つめた。


「そこもとの言うことも一理ある。しかし、余は髷の世界を救わねばならぬ。そこもとの力を借りて、髷の波動を復活させるのだ」

「髷の波動ってなに!?」


 結衣の頭は混乱の極みに達していた。


「髷の波動とは、髷文化の象徴たる力。その波動が広がることで、人々は髷の美しさを知り、再び髷を結うようになる。髷の世界も、その波動で再び活力を取り戻すのだ」

「いやいや、そんなの無理だよ! 現代日本で髷なんて流行るわけない!」


 政宗は目を細め、少しだけ口元を緩めた。そして両腕を広げ、結衣を優しく抱きしめた。


「それを可能にするのが、そこもとの役目だ」

「えええええ!?」


 結衣の声が早朝の街に響き渡った。

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