優しい雨のヒト

氷魚

優しい雨のヒト



あの人と初めて出会った日は、酷い雨の日だった。その日のことを俺は昨日のようによく覚えている。



                  ☂


「小野くん。残念だけど、これからも野球を続けるのは難しいかもしれないね」


ガツンと頭の中が響いた。刹那だった。頭の中が真っ白になったのは。


先生にリハビリをすれば、日常生活に支障はないと言われたが、野球のない生活なんか考えられなかった。


数日前、俺は道の真ん中で子供が車に轢かれそうになったところを助けた。その時に右手が車とぶつかったのだ。周りから見たら、大した事故じゃなかったのかもしれない。でも、俺にとっては人生の終わりだと告げているように思えた。


なかなか痛みが消えない右手に違和感し、病院に行ったらこのザマだ。


「――――――――ははっ」


明日から甲子園が始まるというのに。

俺は絶望した。俺はピッチャーでエースだった。

甲子園は子供の頃からの夢だった。

それなのに…。


「クソっ……!!」



                  ☂



甲子園は俺がいないまま迎えた。客席から、野球部のみんなを見守る。悔しい、申し訳ない、という気持ちで手を強く握った。


「初出場の白崎高校です!今年は期待のエースがいると思ったんですが、怪我で不参加のようですね」


そんなアナウンスが流れた。まるで俺を非難するみたいに。

そうして、試合は始まった。対戦相手は毎年出場している歴戦の王者である、秀征高校だ。


みんなが苦戦している。ごめんな、みんな。


俺は涙でにじむみんなの勇姿を見ながら、悔いた。


「試合終了!!0-5で秀征高校の勝ちです!」




夕暮れ。

日中の暑さが嘘のように涼しくなった空気に秋の訪れを感じる。

夏は終わったのだ。

俺の夏は。




俺はおぼつかない足取りで、帰り道を歩く。カンカンと踏切の音が聞こえてきた。

野球ができないなら…生きていても意味がない。

俺は目を閉じて踏切に足を踏み入れた。近づいてくる電車の走行音。電車のライト。



「おい!!」


誰かの声。


その瞬間、雷が鳴り、ザーザーと雨が降り出した。


気がつけば、俺は踏切の向こう側にいた。


「……?」


死んだと思っていたが、生きていた。


「ふざけるな!ったく…危ないことをすんなよ…」


上から呆れたような声が降りてくる。上を見上げると、眉間にシワを寄せて怒る男性がいた。鋭い目に、目立つ金髪、ピアスをつけていて、ヤクザのような男だった。


「お前は若いんだから、自殺しようとするなよ」


男性は軽く俺の頭を叩いた。


「いてっ」

「これに懲りて、もう二度と自殺なんかすんじゃねーぞ」


男は「お前は道を間違えるなよ」と言って、口の端だけで笑ってみせた。そして、去って行った。降り止まぬ雨の中、俺はただ唖然と男性の後ろ姿をいつまでも眺めていた。





                   ☂



あの日から一週間後。酷い雨だったのが嘘のように晴れている日が続いた。あれから毎日踏切で男を待ったが、一度も会うことなくまた、一週間後が過ぎた。


「小野-。この書類頼む」

「はい」


学校の先生に日直の仕事を頼まれ、書類の整理をすることになった。


「晶―。今日、部活どうする?」


同じ野球部の透に誘われるが、まだ行けそうにない俺は「ごめん。行けないわ」と言った。


「―――そうか」


透は何も言わずに、ただ笑った。


「じゃあ、行くわ」

「じゃあな」


野球部のユニフォームを着て、グラウンドへ走り出す透の背中。

透は小学校からの腐れ縁で、高2の現在まで6年連続同じクラスである。透はキャッチャーで俺とは息の合ったバッテリーだと言われていた。

怪我した時も透は「ゆっくり休め」と怒ることも責めることも決してしなかった。


ああ。投げてえな。


空を見ていると、急に雲行きが怪しくなった。そして、大きな雷の音が鳴り、雨が降り出した。


あの日みたいな酷い雨だ。


「小野、もういいぞ」


仕事を終え、俺は学校を出た。傘を差して、いつも通りの帰り道を歩く。

カンカンと踏切の音が続く。電車が通過し、踏切が上がる。向こう側まで歩いて行くと、目の前に目立つ金髪の頭をした男が近くにあるベンチで煙草を吸いながら座っていた。



――あの人だ。


俺を助けてくれた人がそこにいた。俺は小走り気味にベンチの元へ向かう。


「あの!この前はありがとうございました!」


頭を下げて、助けってもらった礼を言う。男はまた俺の頭を叩いた。


「もうすんなよ」


よく通る低い声だった。俺はなぜかここから離れたくなくて、彼の隣に座った。

沈黙が続く。そんな空気に耐えられなかった俺は口を開けた。


「……俺、野球部でピッチャーをやっているですけど、この前の事故で投げれなくなったんですよ。それで悲しくて…自殺しようとしました」


彼は何も言わず、ただ聞いていた。


「野球のない生活なんて…考えられなかったんです」


なぜだろう。この人の隣は心地がいい。


降り続ける雨音を聞きながら、俺はただ下を見つめた。


「…下ばっかり見ていると、見えてるもんが見えなくなるぞ」


初めて発された一言はとても重々しい言葉だと思った。

男は腰を上げ、「じゃあな」と手を振り、去ろうとした。


「待ってください!」


俺の手は彼の腕を掴んでいた。もっと彼のことが知りたいという気持ちが、彼を引き留めていた。


男は「ん?」と振り返り、俺の言葉を待つ。

分かりづらい優しさに、胸が熱くなった。



「俺、小野晶って言います!あの、あなたはーーー?」



                    ☂



雨上がり際に彼が笑ったような気がした。


『ふっ…。大我だ』


止んだ雨の中、俺は大我さんの笑顔がしばらく忘れられなかった。けど…その笑みがどこかで哀しそうに見えた。


次の日、雲一つない青空の日差しの中、秋独特の風が吹いている。


「晶」


後ろから呼ばれて振り返ると、透がいた。


「朝練は?」と俺がそう聞くと、

「休み」と答える。


前まではこうして、毎日一緒に学校まで歩いて行ったっけな。

そんなことがもう昔のことのようで。


「晶…もう大丈夫みたいだな」

「え、何が?」


透は俺の顔を覗き込み、安堵したような笑みで「前は死にそうな顔をしていたぞ」と言った。


…そうだ。確かに俺は死にたかった。けど、大我さんと出会ってから、死のうなんて一度も考えなかった。


それから、透は俺の肩にぽんっと手を置き、耳元で囁いた。


「俺は、待ってるからな」


「じゃ」と颯爽と走って行く透に俺は涙が出そうになった。


『…下ばっかり見ていると、見えてるもんが見えなくなるぞ』


大我さんの言葉が脳裏に浮かんだ。


そうだ。頑張ってみよう。


俺は透を追いかけ、「待ってよ!」と久しぶりに心から笑った。





                     ☂



雨が降った日に必ず現れる大我さん。

 

俺は大我さんの隣に座り、今日あった出来事や見つけた事を話す。大我さんはただ聞くだけ。


だけど、時々俺を見つめるその瞳は温かくて、優しかった。


「大我さん。今日久しぶりに友達とキャッチボールをしたんです」


自分の右手を見た。そして、ゆっくりと動かす。


「まだ痛いですけど、やっぱり投げるのは楽しいなって思いますね」


本当に大我さんの隣は心地がいい。


ああ、時間が止まればいいのに。


「お前、ここに来ていいのか」

「はい?」

「早く野球部に戻りたいんだろ」


大我さんに言われるまで、気がつかなかった。


…俺、全く野球のこと考えていなかった。


雨が降ったら、何の話をしようかばっかり考えていた。

野球部のことよりも大我さんのことを考えている自分がいて、俺はショックを受けた。顔に熱が集まっているのが分かった。


恥ずかしくなった俺は逃げるようにこの場から去った。


「おいっ!」


大我さんの声が遠くで聞こえた。



                   ☂



「小野くん。毎日、ちゃんとリハビリしているから右手良くなってきているね」

「………」


リハビリしていても、大我さんの言葉が頭から離れなかった。


『野球部に戻りたいんだろ』


ふるふると首を振り、リハビリに集中する。前よりも手は動かせるようになったし、重い物も持てるようになった。


そうだよ、俺。早く復活して、来年の夏、甲子園に出てやる。


そう意気込みをして、リハビリを懸命に続けた。


「ちわーす」


透がリハビリの様子を見に来てくれたようだ。


「お、晶。ちゃんとやってんなー」


偉い偉いと俺の頭を撫でてくる。同級生なのに、子供扱いされるとは・・・。

でも、正直、心配されるよりもこうやって軽いノリでやってくれる方が楽だった。


休憩時間に、透がソーダ味のガリガリ君を食べながら言った。


「最近さ、雨の日になると嬉しそうな顔をするよな」

「え、まじで?」

「まじで」


そこまで顔に出ていたのか。恥ずかしい。

うーと頭を抱える俺に透は、


「前までは雨が降るとさ、野球できねえ!って怒っていたのにな」


・・・確かにその通りだ。でも、俺は大我さんと会える雨の日が楽しみで、仕方がなかったんだ。


「ま、何も言わねーけど、一人で全部抱え込むのはやめろよ」


食べ終えた透はバッグを肩に掛けて、「リハビリ頑張れよ」と病院から出た。


「・・・・・・」


俺は再び、自分の右手を見つめた。そして、強く握る。


ズキッ・・・・


「はは・・・痛えよ」


痛いのは手じゃない。心だ。




                 ☂




雨が降っても、俺はあの場所に行けなかった。

次に降った日も。その次の日も。

なかなかあの場所に行けずにいた俺は、気分がブルーだった。


「あのさ・・・、何落ち込んでんの」


昼休み、呆れ顔をした透が俺の前の椅子に座った。


「なんかさ・・・胸がさ、ズキズキ痛むんだ。会えないのが辛いんだ」


自分の胸に手を置く。ドクドクと脈打つ心音。


「それさ、恋じゃね?」


―――恋。


「考えてもみろよ。いつの間にか、頭の中に思い浮かんでくる人」


―――大我さん。


「今日あった出来事を話したくなる人」


―――大我さん。


「一緒に居たい人」


―――大我さん。


「行ってこいよ、晶」

「うん、ありがとう」


俺は走った。あの人がいる場所へ。




走れ。走れ。走れ。






「――あ?晶?」


ベンチで煙草を吸う大我さんがいた。


「どうしたんだ?傘も差さずに」


大我さんは煙草を消し、タオルで俺を拭いた。


「最近来ないから、心配してたんだよ」


大我さん。大我さん。


大我さんの優しさに“好き”という気持ちが溢れ出す。


「大我さん!俺、頑張りますから!また、野球部のエースになれるよう!」


今の俺はきっと情けない顔をしているのだろう。


大我さんは目を大きく見開いた後、ふっと「そうか」と微笑んだ。


今、分かった。俺は大我さんが好きなんだ。


季節はもう冬。もうすぐそこまでに冬がやってきていた。




                  ☂

 

高2の冬。

まだ痛む手に、病院に行くことにした。


「あの・・・先生?」


レントゲン写真を見て、困ったような表情をする先生に不安になる。


「確実によくなってはきているんだけど、来年の夏までに間に合うか、分からないね・・・


それは俺にとって絶望の一言だった。


「リハビリすれば、よくなるって・・・・・・」

「それはそうなんだけど・・・」


自分の中に何かが黒い物が渦巻くのを感じた。

悲しみ。苦しみ。絶望。


「俺はまた投げたいんです!」

「残念だけど、来年の夏までに治すのはちょっと・・・」


心の中で雨が降り続けている。まるで、俺の涙のように。




                  ☂

「こんなに頑張っているのに・・・」


声を上げて泣いた。

気がつけば、ベンチに座っていた。大我さんが来るのを待った。

けれど、いつまで待っても待っても、大我さんは現れなかった。


――――寒い。息を吐くと白かった。


本格的な冬が始まっていた。


「あ・・・雪・・・」


しんしんと雪が降り始める。灰色の空が広がっていた。


「道理で寒いわけだ」


俺は膝を抱え、大我さんを待つ。


「寒いよ・・・」


寂しいよ、大我さん。


「晶?」


声がしたので上を見ると、傘を差した透が怪訝そうな顔で俺を見ていた。


「・・・・・・透」

「何してんだ、こんなところで。っていうか、目赤いぞ。泣いていたのか?」


部活帰りだったらしく、左手には肉まんがあった。透は傘をたたみ、俺の隣に座った。そして、袋から肉まんを取り出し、それを俺にくれた。


「・・・いいの?」

「ん、鼻赤くなってんぞ。いつからここにいたんだよ」


肉まんを頬張る。口の中に広がる味に「おいしい」と呟いた。


「雨の日に、ここに来るとある人に会えるんだ」


ぽつりぽつりと話し始める。透は真剣な眼差しで聞いてくれた。


「実は、秋の始まりにそこにある踏切で自殺しようとしてたんだ」


踏切に指を指す。


「怪我して、生きる希望をなくした俺を助けてくれたんだ。目つきは悪いし、冷たいけど、優しくて」


俺の名前を呼ぶ大我さんの声が好きで。

 

「その人の隣はとても心地がよくて」


雨の日にしか現れない大我さん。


「今日もあの人を待っていたんだけど・・・。なぁ、透。俺の手、来年の夏までに治せるか分からないって・・・」


歯を食いしばって耐える俺の背中を透が叩く。


「諦めんじゃねえ」


透の手はかすかに震えていた。俺はやっと止まった涙がまた溢れ出てしまい、透に縋るように泣いた。黙って透は抱きしめてくれた。


しんしんと雪は降り続ける。その中で俺と透は確かにお互いの体温を感じていたんだ。



                  ☂



厳しい寒さが和らぎ、新しい生命が活動し始める。そのような季節となった。

春。俺はもう高3になっていた。透とは初めて別のクラスになった。寂しかったが、休み時間ごとに来ると透は言ってくれた。


新しい教室。新しいクラス。新しい先生。

窓際の一番後ろの席で、空を眺める。

あれから一度も大我さんには、会っていない。何度もあの場所に行ったが、大我さんはいなかった。何があったのかと心配になるが、連絡先を交換していないことに俺は後悔していた。


そして、俺の手は少しずつだが良くなりつつある。医者が一生懸命リハビリメニューを考案してくれたのだ。


「僕はね、小野君が投げる姿を見るのが好きなんだ。一緒に頑張ろう」


嬉しかった。身近にこんなに思ってくれる人がいたということが。

それでも、まだ何かが足りなかった。

たまに部活に行っても、おいしい物を食べても足りない。

その“何か”が何なのかは分かっている。


――――大我さんだ。


「晶。今日は、部活来るのか?」

「ごめん。リハビリの日なんだ」


俺は学校を終えて、リハビリのために病院に向かった。その帰り道で、いつもと違っていたのは、踏切の近くに女の人がいたことだ。


女の人は花束を置き、手を合わせていた。

その女の人の横顔が切なく見えた。

手を合わせ終えた女の人と目が合ってしまい、俺は軽く頭を下げる。


「あの・・・ここ誰か、亡くなられたんですか?」

「ええ。私の兄が亡くなりました。今日が命日なんです」

「そうですか・・・」

「うっ・・・」


女の人が泣きそうになったので、俺はベンチに座らせた。そして、ハンカチを渡す。


「ありがとう・・・」

「いいえ」

「10年前、兄はここで自殺したんです。酷い雨の日でした」

「そうでしたか・・・」


酷い雨の日。俺が大我さんと初めて会った日もそうだったな。


「兄は病気だったんです。右半身に痙攣や麻痺で、人生に絶望した兄はそのまま・・・」


俺と同じだ。人生に絶望して・・・。


「・・・俺の名前は小野晶です。もし、よければお兄さんの話、聞かせてくれませんか?」

「・・・私は坪内茜と言います。ええ、もちろん」


それからしばらくの間、茜さんのお兄さんについての話を聞いていた。

鳶職をやっていたということ。職場の先輩に髪を染められて落ち込んでいたということ。甘い食べ物が好きだということ。口は悪いけど実は優しいということ。


「お兄さんはコーヒーが嫌いだったんですよ。こんな黒い水、飲めるか!って」

「ははは!面白い人だったんですね」


お兄さんの話をする茜さんは本当に楽しそうで、仲のいい兄妹だったということがよく伝わってきた。


もう、夕日が暮れ始めていた。時刻は夜となった。


「ごめんなさい。話過ぎちゃって」

「いえ。もし良かったらまた話を聞かせてください」



                   ☂


毎週水曜日、リハビリ終了後に茜さんと会って、兄の話を聞くのが日課となっていた。話を聞いていると、俺まで楽しくなるんだ。


「兄が建てた家は力強くて、気持ちを込めて建てたのだと分かるのよ」


茜さんからたくさんの写真を見せてもらう。どの写真を見ても分かるくらいとてもいい家だった。


「俺、会ってみたかったです。そのお兄さんに」

「やめたほうがいいわよ。見た完全にヤクザだから」


はははっと互いに笑い合った。俺はいつもリハビリの後は気持ちが憂鬱になるけれど、茜さんの話を聞いていると、いつの間にか憂鬱な気持ちはなくなっているんだ。


「小野君は、何かをやっているの?」


一瞬答えるのを躊躇ったが、作り笑いをして答えた。


「野球です」

「へえ。ポジションは?」

「ピッチャーです」

「すごいじゃない」

「でも去年の夏、事故で右手が駄目になったんです。今はリハビリをして、なんとか快方に向かってはいるのですが」


右手を動かしてみた。


「医者からはもう投げても大丈夫だと言われてはいるのですが、ボールを投げるのが怖くて・・・」


また、手が動かなくなるんじゃないか。


そんな不安がいつまでも俺の中から消えてくれない。


「今年の夏、甲子園に出場するんです。チームメイトが勝ちとった出場権を・・・もう二度と無駄にしたくない」

「今のあなた、病気を発覚した兄みたい」


茜さんは踏切の方を見つめた。茜さんの目には、兄が映っているのだろうか。


「完全に治らない病気ではなかったんです。でも、兄は鳶職をやっていたから、手は命と同じくらいにかけがえのないものだったのでしょう」


分かる。俺もそうだ。


「だんだん、右半身が自分の意思に逆らい、動かなっていく・・・」


茜さんの兄はどれくらい苦しんだのだろうか。


「最後には、自分の体が自分の体でなくなる前に、死んでやるってそのまま・・・」


嗚咽を漏らす茜さん。その姿はとても痛ましくて。


もしかしたら、俺もあの日、そのまま自殺していたら、両親、友達、透にもこのような顔をさせていたのかもしれない。


「茜さん。俺、去年の秋頃ここで自殺しようとしてたんです」

「え・・・」


赤く潤んだ目で俺を見た。


「でも助けられたんです。ある人に」

「ある人?」

「目立つ金髪に、鋭い目つきをした若い男に。その人に頭を叩かれました。『ふざけるな』って」

「その人のおかげで今の小野くんがいるのね」

「はい。その人は雨にしか会えなくて。そう、今俺たちが座っているベンチに座って煙草を吸っていました」

「そう・・・」

「あ、もうこんな時間になりましたね。ではまた来週」

「ええ」


俺たちはまた次の約束をして、ベンチを後にした。





                   ☂



そろそろ春の終わりが近づき、夏の始まりを告げる梅雨の季節がやってきた。


「あ、透。もう俺、右手大丈夫なんだわ」

「―――そうか」


あれから俺の右手はほぼ完治していた。医者はよく頑張ったね、と涙ぐんでいた。


「でも、まだリハビリは必要なんだ」


今日は部活に参加する日。久しぶりにユニフォームを身に纏い、帽子を被る。そして、相棒であるグローブを手にはめた。


「晶、おかえり」


目を細めて優しく微笑む透に俺は、


「―――ただいま!」


と元気よく答えた。



グラウンドの土に触れた。土の匂い。眩しい太陽の日差し。久しぶりの感覚をかみしめる。


「白崎高校野球部ファイト!!」


主将の透が掛け声をした。それに従い、


「オー!!!」


大きな声で叫ぶ部員。



俺、帰ってきたんだ。





                    ☂


「小野くん!怪我よくなったってね」

「はい」


水曜日。今日は酷い雨の日で、梅雨が始まった。雨が降っても、大我さんはいなかった。


「頑張ってたもんね」

「はい。本当はあの人にもお礼を言いたかったんですけど」

「まだ会えていないの?」

「そうですね」


今日もいつものように話を聞く。


「兄はね、写真が嫌いだったの」

「へえ、それはどうして?」

「うーん、理由は知らないけどとにかく嫌いなんだって」



ザーザー・・・。雨音が聞こえる中、俺は無意識のうちに大我さんの姿を探してしまう。いないって分かっているのに。


「ねえ、あの人を探してるの?」

「あ、ええ」


照れくさくて、苦笑いをしてしまう。


「ふふ。今のあなた、恋する乙女みたいな顔をしている。本当に好きなのね、その人のこと」

「はい」

「青春しているわねー」

「茜さん、まだまだ若いじゃないですか。それ言うとオバサンっぽいですよ」

「誰がオバサンだって?」

「いえいえ」

「私ね、結婚してるの」


ほらっと薬指にある指輪を見せてくれた。


そうか。男同士は日本では結婚できないんだっけな。


「あの、茜さんは偏見とかないんですか?その・・・男同士とか」

「ううん、ないわよ。愛の形は人それぞれじゃない?小野くんは男が好きなの?」


それは違うと首を振ると、茜さんは笑った。


「好きになった人がたまたま男だっただけでしょ。いいんじゃないの?」


茜さんは穏やかな雰囲気を持っているけど、芯がしっかり通っていて、ちゃんと自分を貫いている。強い人だと思った。 


「さっきから何を探しているんですか?」


スマホと見つめ合っている茜さん。


「兄の写真を探しているの。でも見つからないのよ」


ぶつぶつと呟く茜さんに俺は、どんな顔をしているのか気になった。けど、もう時間なので・・・


「そろそろ俺、帰りますよ?」

「あ、分かったわ。もし、見つけられたらLINEするわね」


傘を差して、雨の中一人で歩く。雨の匂い。雨とコンクリートの混じった匂い。


『晶』


俺を呼ぶ大我さんの声。


会いたい。


俺はそんな気持ちをかき消すように、イヤホンをつけて音楽を聴き始めた。




                  ☂


そろそろ梅雨が終わる日が近づいてきた。俺は透と一緒にキャッチボールをしていた。グラウンドの整備で部活は休みだった。それでも体を動かしたくて。


「晶。手は大丈夫か」

「うん。むしろ調子いいよ」

「そういえばあの人には会えたのか?」

「ううん」


透は俺の気持ちを知っている。引かないでくれた透に俺は感謝していた。


「ねえ、透」

「うん?」

「俺、もし甲子園でミスしたらどうしようっていつも考えているんだ。そう思うと、手が震えだして止まらなくなるんだ」

「・・・・・・」


ボールをグローブにおさめたまま、無表情で俺の方に歩いてくる透にびびる。そして、透は大きな手で俺の右手を包み込んだ。


「・・・え?」


突然のことに俺は呆気にとられる。透の手はじんわりと熱がこもっていた。俺よりも大きいその手は確かに俺に安心感を与えたのだ。


「俺たちを信じろ。俺たちもお前を信じている。それがチームだろうが」


真剣な顔で透は言った。そうだ。俺はいつだって透に救われていたんだ。


「本当にいい男だよね。彼女がいないのが不思議」


力が抜けた俺は空を見上げた。夕日のグランデ-ションが綺麗だった。


「うるせーよ。俺はお前たちとやる野球が一番好きなんだよ」

「はははっ。ありがとう」


ヴーヴー。スマホが鳴った。LINEが来たようだ。画面を見ると茜さんからだった。


『小野くん、見つけたわよ、写真!!』


透も俺のスマホを覗き込むように、俺の頭に顎をつく。


「なんだ、それ」

「ああ、茜さんのお兄さんの写真」

「ふーん」


LINE画面を開くと、俺は息が止まった。冷や汗をかいているのが分かった。


「晶?どうした?」



写真――― そこには大我さんがいた。



間違いない。大我さんだ。


ピロン。


『私の兄、坪内大我だよ』


スマホを持つ手が震えだした。そして透に言った。


「この人・・・俺を助けてくれた人だよ」

「は・・・?」




                  ☂


信じられなかった。俺を助けてくれた大我さんが茜さんの兄で、10年前に自殺して亡くなっていたことに。


俺は図書館に向かった。


「晶、落ち着け!」


透の声が耳に入らなかった。ただ、嘘でしょ?という気持ちでいっぱいだった。

図書館で過去の記事を探す。10年前の記事だ。よく考えてみたら、分かることだ。なぜ、あの時、あの場所にいたのか。なぜ、雨の日にしか現れないのか。


「―――見つけた」


そこには・・・【2008年4月28日:踏切に飛び込み自殺か?亡くなった男性、坪内大我。当時25歳。】と小さな記事だった。


「本当に亡くなっていたんだ」


体の力が抜けてしまった俺はそのまま倒れそうになり、透に支えられる。


「しっかりしろ!晶!」


俺が今まで会っていた大我さんはもうこの世にはいなかった。10年前に死んでいた。


「晶、会いに行ってみないか?」


ほらと窓に親指で指したので、俺は窓を見た。すると、ザーザーとあの日のような酷い雨が降っていた。


「俺も一緒に行くから」


俺は透に支えられながら、あの場所へ向かう。


大我さん。大我さん。あなた、自殺していたんですね・・・。


早く会いたい。早く会いたい。


涙が出そうになるのを必死にこらえ、重い足を進めた。




                    ☂



ベンチに大我さんはいた。いつもと変わらない様子で、煙草を吸いながら。


「―――大我さん!」


俺の声に気づいた大我さんはこっちを見た。そして、切なく笑った。


「はは。その様子じゃ、真実を知ったみたいだな」


煙草を消し、ベンチから立ち上がり、歩いてくる大我さん。


「晶、そこに大我さんがいるのか?」


透には見えていないみたいだ。俺は静かにうなずいた。すると、透は「そうか」と言い、少し離れた所で見守ってくれた。


「あっちにいる奴はお前の友人か?」


久しぶりに聞く大我さんの声。低くよく通る声。鼻をかすめる煙草の匂い。


―――大我さんだ。


「大我さん・・・ここで自殺していたんですね」

「ああ。10年前、病気で体が動かなくなって、人生に絶望した俺はここで自殺をした」


そう話す大我さんの横顔は泣いているように見えた。


「死んでしまった俺は、後悔してずっとここから離れずにいたんだ。毎週、花を置きに来る茜を見て、心が痛んだよ」


強い雨に打たれながら、俺たちは立っていた。


「去年、光のない目で踏切を見つめるお前がいた」

「あの時、あなたは俺を助けてくれました」


あなたのおかげで救われたこの命。


「どうしてだろうな。気がついたら、お前の腕を引っ張っていた。そして怒っていた。偉そうだよな。自殺したくせに」


少しずつ大我さんの体が透け始めていた。


「もし、あの時諦めないで病気に立ち向かっていたら・・・生きていたのかもしれねえ」


大我さんの声が震えている。泣いていると声が叫んでいる。


「自殺するんじゃなかったな。お前と共に生きたかった」


大我さんは自分を嘲るように笑った。


「俺はな、逃げたんだよ。生きることから」


俺はそっと大我さんの頬に触れた。


「あなたが10年前、自殺したとしても、俺はあなたに救われました。これは事実です。ありがとうございました」


泣くな。笑え。


「―――だから、そんな悲しそうな顔をしないで」


大我さんは俺を優しく抱きしめた。


「お礼を言うのはこっちの方だ。雨の日、お前が来て楽しそうに話をするお前の笑顔を見るのが好きだった。嫌いだった雨が好きになれた。・・・あーあ。生きたいなんて思ったの何年ぶりだろう」


気の抜けた声で大我さんが言った。


「ふふ。そうですか。大我さん、変なの。幽霊なのに温かいなんて」


俺と大我さんは見つめ合った。そして、目を閉じた。俺たちの距離がゼロになった瞬間だった。


初めてのキスは涙の味がした。


やがて離れていく唇。



「俺は忘れません。あなたと出会った日のことを。今のことを。大我さん、好きです」


雲の間から光がこぼれ、そのうちの一筋の光が大我さんを照らす。やがて、弱くなっていく雨。それと同時に消えていく大我さん。


「――――――大我さん!!」

「愛してる」


そう、大我さんが言ったような気がした。





                   ☂


さっきまでの大雨が嘘のように、雲一つない清々しい青空が広がっていた。


大我さんが晴らしてくれたのかな。もう大我さんはいない。


俺は振り返り、踏切を見た。向こう側にいるのはあの日の俺だ。野球ができなくなり、絶望していたあの日の俺。


俺はそんな自分自身を見つめる。


「晶、帰るぞ」


透の優しい声が聞こえ、「うん」と返事をした。そして、前を向いて、透のもとへ走る。










――――あの日、終わった。と思っていた俺の夏にはまだ続きがあった。

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優しい雨のヒト 氷魚 @Koorisakana

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