リプレイ〜黎明のオリガルヒ〜

夏音

第1話 民営化小切手(バウチャー)取引

 ライオンのたてがみのようだ、といわれたのは数知れない。現に目の前にいる若者も、彼と会うなり「あんた、ライオンみたいッスね?」と真っ先に髪型を褒めそやした。ひょっとすると小馬鹿にされたのかもしれないが、細かいことは気にとめない。目的の遂行に無関係な事柄は、セルゲイ・ステパノヴィチ・ミハルコフにとって存在しないも同然なのだから。


「一枚五十ドルは譲れないッスね。それ以下ならべつの人に売るんで」


 若者は見た目の軽薄さとは裏腹の態度を示し、厚い束になったブツを叩いた。畏まった顔つきだが、取引をリードする気があるのだろう。


 ふたりが喫茶店で取引しているのはバウチャー、すなわち国有企業の民営化小切手だ。ソビエト連邦が解体された後、政府は株式に転換できるバウチャーをロシア国民に隈なく配布した。法律上、企業は国家でなく人民の所有物だったからである。


 これで国民は巨大国営企業の株主となって、新たな富を手に入れるはずだった。しかし実際はそうならず、政府の導入した市場経済の嵐が国民を襲う。


 突如として発生した激しいインフレによって国民は生活を維持することが難しくなり、彼らは日銭欲しさにバウチャーを我先に売ってしまった。人々の手放した富はセルゲイや若者のような連中が豊富な資金で買い集め、いつか大株主になる権利を確保した。二人に違いがあるとすれば、若者はまとまった大金が欲しく、セルゲイは国営企業を手に入れる願望を秘めていたことくらいだろう。


 スラブ人らしい落ち窪んだ眼で見つめると、若者の口許はヘラヘラしているが妙な落ち着きを感じさせる。若くしてバウチャーを大量に買い集めたからには、共産党幹部の子弟か犯罪組織の構成員なのかもしれない。それらの見立ては前回感じとった印象と同じだ。


 コーヒーカップを手にし、セルゲイはイラン産のピスタチオを摘んでいた。やがて咀嚼を終えた彼はカップに口をつけ、暗く物静かな声を放つ。


「おれは三十ドル以上払う気はない。これに五十ドルも払うのはロシアで一儲けしようとする西側の間抜けくらいだ」


 セルゲイの年齢は三十くらいで、実際は三十二になったばかり。顔立ちは陰気でとても端正とは言いがたく、そのうえかなり太っていた。


 軍隊にいた頃は鋼のごとく引き締まっていた腹もワインの樽のようだ。それでも暴食をあらためる気にならないのは、肥満は金持ちの象徴にほかならないと心底思ってるから。


「強情だな、おっさん。大人しく言い値で買えって」


 若者はイラついた様子を露骨に出し、輪ゴムでとめたバウチャーをしまいかけた。その動作がはったりであることをセルゲイは知っている。若者を懐柔する魔法の言葉が何であるかも。


 カウンターの奥に座っている筋肉質な男が席を立ち、セルゲイの斜め前にあるトイレにむかった。尿意を覚えたにしては落ち着きを感じる。


 見上げると店の柱時計が三時を指していた。前ぶれもなく機械仕掛けの鳩が飛び出し、時刻の到来を声高らかに告げる。


 そのとき店のドアが開き、若い女が姿を現した。長い髪をポニーテールにまとめ、スタジアムジャンバーを着るなどロシア人らしくない格好だ。


 セルゲイは「こっちへ来い」と手招きする。彼女はセルゲイの設立した会社で働く唯一の社員だった。部下というより仕事を習う弟子に近い。


「難航しましたよ、ボス。でも最終的にバウチャーは売ってくれました」

「ドルで回収したか?」

「問題なく」


 交渉席に座った部下はエミリアという。ちなみにいうとふたりは男女の関係にはない。


「で、いくらで買った?」


 話を急かすように聞くと、エミリアは店主にココアを注文したあと、朗らかに笑った。


「それが一枚三十ドルで売ってくれました」

「なるほど。一般的な相場感は三十ドルぐらいってわけだ」


 そういって睨みあげると若者の態度が変わる。いまのやり取りを聞き、自分の相場感がデタラメであること、言い値を取り下げなければ売り時を逃すと焦りを覚えたようだ。


「三十ドルで売った相手もいるのに、五十ドルは無茶だよな?」


 若者は黙ってしまい、何もいい返せない。とはいえ部下とのやり取りは、事前に綿密に打ち合わせた茶番にすぎない。最初の交渉でセルゲイは若者の本音を把握した。これ以下では売れないというボトムラインがあることを。


「なあ、特別に四十ドルで買ってやるよ。お前のバウチャーは大口だから、イロをつけてやる」


 四十ドル。それこそが若者の考える落としどころだった。

 売値を下げたものの、セルゲイの買うバウチャーは三千枚。若者は総額十万ドル以上の金をキャッシュで手に入れるだろう。まさに濡れ手に粟。その証拠に若者は、思いつめた表情でこういい返した。


「仕方ないッスね。四十ドルで手を打つよ」

「話が早くて助かる」


 セルゲイは持参したアタッシュケースからドル紙幣の束を取り出し、若者に手渡す。それと引き換えにバウチャーをふん掴み、空のアタッシュケースに放り込む。


 商談は成功だ。彼は席を立ち、喫茶店の店主に代金を支払った。振り返るとエミリアがココアをがぶ飲みしている。


 セルゲイが店を出ようとしたときだった。先ほどトイレに消えた筋肉質な男が行く手を阻み、迷いなき動作で右手を構えた。握られていたのは拳銃。


「バウチャーをよこせ」と男は恫喝を放った


 そのひと言を聞き、セルゲイはすべてを一瞬で理解した。若者とこの男はグルで、最初からバウチャーを売るつもりなどなかったことを。


「ボス!」とエミリアが大声で叫ぶ。


 店は騒然となるが、この展開は前回にはなかった出来事だ。セルゲイがリプレイを発動させたのは若者が脅しに負け、「四十ドルなら売る」と折れたときである。暴力を振るいすぎたせいでやり直しを決めたが、逆にいうとそれ以降の展開に行き着いたことはない。


 筋肉質な男は無言のまま銃を突きつけ、セルゲイのアタッシュケースに手を伸ばした。銃の所持は違法であるものの、金さえあれば入手は容易い。そんなことを思いながらセルゲイは、ここでとんでもない行動に出る。


 彼は回れ右をし、トイレのある方向に猛然と駆け出した。その動きは野生動物のごとく俊敏で、まさに動けるデブという言葉がぴったりだ。


「おい待て!」と怒鳴りあげ、筋肉質な男は銃を連射した。的の大きなセルゲイは銃弾をかいくぐり、トイレに飛び込んでから瞬時に施錠する。


 彼は腕時計に目を落とし、いまが三時十五分であることを確認した。そしてアタッシュケースを開き、中から愛用の銃を取り出した。三八口径のグロック。


 その銃口をこめかみに押しあて、少しもちゅうちょせずセルゲイは引き金をひいた。普通なら死の恐怖に怯え、手が震えだすような動作である。わずかに念じたのは「三十分前に戻れ」という文句だった。


 自分がたどってきた時間を遡り、違う行動でやり直す力をセルゲイはリプレイと呼んでいる。わざわざ英語にした理由は、彼はこうした時間遡行という概念を米国のSF小説に学んでいたからだ。


 銃弾は彼の頭蓋骨を破壊し、脳髄を辺りにぶちまけ、一瞬で死をもたらす。だが直後、トイレに突っ立った状態で、カッと目を見開くセルゲイがいた。


 本当に命を落としたのか、と思うほど苦痛はない。あるのはビルから身を投げるようなスリルだ。手にしていた拳銃は消えており、腕時計を見ると時刻は二時四十五分だった。


 セルゲイはすぐさまトイレを出て、若者との商談に戻る。そして十五分経った頃、筋肉質な男が手洗いに立った隙をとらえ、アタッシュケースから点眼薬のような小さいプラスティックボトルを取り出し、男のいた席に歩み寄った。


 店に飾られた水彩画を眺めるふりを装い、セルゲイは男のティーカップに下剤を入れ、何事もなかったように席へと戻る。


「どこ行ってんだ、おっさん。大人しく言い値で買えって。気に入らなきゃほかのやつに売るだけッスよ」


 若者がさっきと同じ台詞を吐き、わざとイライラした態度をとる。下剤を入れたことは露見していないようだ。


 ほどなくして鳩時計が鳴き、部下のエミリアが入店してきた。彼女の報告を聞き流し、セルゲイは筋肉質な男が戻ってきたこと、彼がティーカップのお茶を口にしていることを見届けた。


 前回かわした会話をくり返し、相手を見透かしたように睨むと、若者は思いつめた表情で降参する。


「仕方ないッスね。四十ドルで手を打つよ」

「話が早くて助かる」


 取引がわずかなミスもなく成立した頃、筋肉質な男がまたしてもトイレに立った。腹を押さえてひどく慌てた様子。下剤が効果を発揮したのは明白だ。


 一般的な下剤は効くまでにかなりタイムラグがある。しかしセルゲイが処方されたのはたった数分で効果を発揮し、食中毒のような激痛が襲う代物だ。殺傷性のないブツも含め、相手を無力化すべく、彼はいろんな道具を揃えていた。


 筋肉質な男が消えたことに、若者は不安を浮かべはじめた。前回、彼らは共謀してバウチャーを取り返そうとしたが、拳銃で脅す者がいなければセルゲイを取り逃がすほかない。


 落ち着かない様子の若者を置き去りにして、セルゲイは店の主人に代金を支払い、エミリアを引き連れて喫茶店を出た。


 その去り際、セルゲイは若者を一瞥した。コイツがもし武器を持っていれば、単独でもセルゲイを追いつめることができたかもしれない。だがたとえそうであっても、セルゲイは同じシチュエーションを何度でもやり直すことができた。どんな手を使ってもつねに対策を打ち、失敗に終わるのは目に見えている。

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