第2話

「まあ、あなたがジョゼ? エドワールに聞いていた通りのかわいらしい方ね」

「……お目にかかれて光栄です、オリアンヌ様」


 王宮の正殿で、お兄様と、お兄様の腕に手を絡めて歩くオリアンヌ様とすれちがった。

 わたしは十八歳になっていた。

 お兄様は二十三歳。オリアンヌ様は二十一歳らしい。容姿端麗な二人が並ぶと、とてもお似合いだった。


 わたしは丁寧に淑女の礼をした。オリアンヌ様は礼をしない。聖女という、この国では王太子と並ぶほど高貴な方なのだから当然だ。ただ艶然とほほえんでわたしを眺める。


 彼女は美しい人だった。

 ゆるくウェーブのかかった漆黒の髪に、吸いこまれそうな青の瞳。肌はミルクのように白く、儚げな顔立ちだけれど、長身でとてもスタイルがいい。

 辺境伯の娘で、去年、聖女の証である「聖痕」が背中に現れたそうだ。


 開国の際に初代国王を助けたという伝説の聖女は、背中にまるで天使の羽の名残りのような聖痕を持ち、人々の傷病を癒したと言われている。

 そんな聖女を騙るニセモノは数多い。

 聖女として正式に認定されれば自動的に、王子の婚約者になれるからだ。

 この国の王家は神の子孫だから、神の血を濃くする者は結婚相手として歓迎される。


 現王家が開かれて二百年。

 これまでに数十人のニセ聖女たちが現れ、欺瞞を暴かれて処刑された。

 聖女を騙ることは大罪だ。教会から罪人として破門され、未来永劫許されることはない。

 ニセ聖女たちはあの手この手で教会の聖女審査をくぐり抜けようとしたけれど、誰一人として合格した者はいなかった。

 そんな慎重な教会が、とうとう聖女として正式に認めたのがオリアンヌ・ド・リールだった。

 歳の近いエドワール王太子との婚約は、秒読みの段階と言われている。


「ねえ、三人で庭園を散歩しましょうよ。わたくし、もっとジョゼと仲良くなりたいわ。だってジョゼはエドワールにとって、妹も同然の子なのでしょう?」


 ふんわりとした微笑をたたえてオリアンヌ様がそう提案した。

 わたしの背中が、ぞわりと粟立った。

 いやだ、と思った。

 この人にお兄様の「妹」と呼ばれたことも、この人がお兄様を「エドワール」と呼び捨てするのも、どちらも耐えられないほどいやだ。


「……ジョゼ? 大丈夫か? 顔色が……」

「大丈夫です、殿。すみませんが今は急いでいるので、失礼いたします」


「殿下」と呼ばれて、お兄様が変な顔をした。でも、彼女の前では「お兄様」と呼びたくない。

 わたしは無理してほほえむと、もう一度さっと礼をして、逃げるようにその場を離れた。




 古い聖堂には、わたし以外、誰もいなかった。

 最近はお兄様も忙しいのか、ぱったりとここへ来なくなった。

 お兄様はオリアンヌ様に夢中なのだろう。あんなにきれいな人だし、開国二百年目にして初めての聖女なのだから、無理もない。

 国民も聖女登場のニュースに沸いていた。

 王太子ご成婚への期待も、日に日に高まっている。


 自分が醜い感情を抱いているのはわかっていた。

「あんな人いなければいいのに」なんて、聖女様に対して抱いてはいけない感情だ。

 平凡なわたしがどうあがいても、お兄様にとっては妹のような存在でしかないし、ましてや聖女になんてなれるわけがない。

 オリアンヌ様は何も悪くない。

 大好きなお兄様に迷惑をかけてはいけない。祝福しなくてはいけない――


 そのとき、ガタッと物音がした。

 お兄様かしら? と、期待をこめて振りかえる。

 でも、目に入ったのは一匹のネズミだった。

 最近よくこの聖堂で見かける、灰色のぽっちゃりとしたネズミだ。右耳にかじられたような跡がある。人なつっこい子で、わたしを怖がらずに見上げ、「何かちょうだい」とでも言うように後ろ脚で立つ姿がかわいい。


「……パンを食べる?」


 この子のために、この頃はドレスのポケットに紙に包んだ小さなパンを忍ばせていた。パンを持ち歩いてネズミにあげるなんて、とても貴族令嬢とは思えない行動だ。わたしの根っこの部分は、いつまでたっても下町娘なのかもしれない。


 だけど、うれしそうにパンを食べるネズミを見ていると心がなごんで、きちんとお兄様の婚約をお祝いしようと思えた。



 ✻✻✻



「まだ……の部屋に入ったこともないと?」

「ごめんなさい、お父様。……は……みたいで」


 お兄様とオリアンヌ様とお茶会をする約束の日になり、わたしは王太子の住まう宮殿へと向かっていた。

 時間よりもだいぶ早く来たのは、宮殿の正面にある庭園を見て、心を落ち着かせるためだった。

 お兄様があの人と結婚するのだと思うと、理性では納得していても、どうしても胸が苦しくなってしまう。

 だから、一人きりで心静かに花を眺めてからお茶会に臨もうと、庭園の中へ入ったのだけれど。

 先客がいた。

 迷路風に造園された垣根の向こうに、誰かがいる。

 話し声がしたから、見つかりたくなくて、反射的に花木の陰に身を隠した。


 お父様、と言っていた声は、オリアンヌ様の声だった。

 それでは男性の方は彼女の父、辺境伯ド・リールだろう。

 でもなぜこんな場所に?


「どういうことだ? 王太子には他に好いた女でもいるというのか?」


 どきん、と心臓が跳ねた。

 王太子とは、もちろんエドワールお兄様のことだ。

 オリアンヌ様の声が答える。


「さあ……そんな女はいないようですが。あの男が妹のようにかわいがっているというジョゼット・フォーレにも会いましたが、まだ乳臭い小娘でしたわ」


 え?

 ちょっと待って、今なんて言ったの?

 この人……聖女のはず……よね?


「それなら、お前の美貌でさっさと王太子をモノにしてしまえ。少しでも魔塔との繋がりを疑われたら、私たちは終わりなんだぞ」

「わかっております。お父様の率いる魔塔によって、影からこの国を支配する。その悲願のために、わたくしは必ず王太子と結婚し、国母となってみせます」


 聞きながら、サーッと血の気が引いていく。

 魔塔――それは、魔法を操る秘密結社の名だ。実際に、天を穿つように高くそびえる魔法研究のための塔が、辺境の地のどこかに存在するらしい。


 この国では、魔法は神に背くものとして厳しく禁じられている。魔塔など教会の敵の筆頭だ。もしも魔塔との関りが露見すれば、教会から破門された上に処刑される。

 神の子孫と呼ばれる王家とは、まるで対極の存在だ。

 そんな人が聖女を騙り、王太子であるお兄様と婚約しようとしているの?


 この国を、魔塔の支配下に置こうと目論んで。


 どうしよう。話を聞いていたことがバレたら、きっとただでは済まない。

 できるだけ物音を立てずにこの場を離れようとしたが、動転していたのか、足元の小石を蹴ってしまった。


「誰?」


 オリアンヌの鋭い声が飛ぶ。

 同時に、わたしは思い切り走った。


「მადჩუ」


 背後からオリアンヌが何かを唱えた。わたしは構わず走った。

 こういうとき、躊躇なく全力疾走できるのは下町育ちのいいところだと思う。もしも自分が走ったことなど一度もない王室育ちのお嬢様だったら、すぐにあの二人に捕まり、王都のドブ川に沈められていたかもしれない。




「通して! お兄様に会わせて!」


 わたしは王太子の宮殿に駆け込んだ。

 貴族令嬢にあるまじき鬼気迫る勢いに、衛兵や侍女たちが何事かと驚いた顔を向ける。

 だけど、お兄様がわたしと親しくしていることは周知の事実なので、止める人は誰もいない。


「ジョゼット様、どうされましたか?」


 お兄様の近衛騎士のリシャールが足早に近づいてきた。お兄様が聖堂に来るときにはいつも従えている騎士だから、わたしとも顔馴染みになっていた。

 いつも寡黙で無表情な彼が、珍しく心配そうにしている。

 わたしはそれほどひどい顔をしているのだろうか。


「リシャール、お兄様はどこ?」

「……こちらへ」


 彼は何も聞かずに案内してくれた。


 お兄様は執務室の机で仕事をしていた。

 リシャールに連れられて入ってきたわたしを見ると、一瞬、笑みを浮かべかけて、それから眉を曇らせた。


「ジョゼット……何かあったのか?」

「お兄様……」


 リシャールは黙って退室し、分厚い扉を閉めた。これで話が外へ聞こえる心配はない。

 わたしは机の方へ歩いた。お兄様に会えた安心感で、今になって足が震えそうになる。お兄様は立ち上がり、わたしのそばへ来た。


「お兄様、さっき……」


 はく、と、口から息が漏れた。

「庭園で」と、続きを言おうとしたのに、声にならない。

 ふたたび口を開いても、はくはく、と唇が動くだけで、喋れない。


「……ジョゼット?」

「あ……わたし…………」


 喋れた。でも、さっきの出来事を伝えようとすると、また声が出なくなる。

 無理に試すと、気分が悪くなってきた。

 お兄様の心配そうな顔が、わたしの顔に近づく。


「ジョゼット、大丈夫か? 何があった?」

「お兄様……」


 オリアンヌは最後に何かを唱えていた。

 あれは呪文?

 わたしが誰かにさっきのことを話せないように、魔法をかけたの?


 ハッと気がついた。

 喋れないなら、文字で伝えればいいんだ。


「お兄様、紙とペンをお借りしても?」

「ああ」


 わたしは急いで机に向かい、まっさらな便箋を出してペンを握った。

 ――でも、あのことを書こうとすると、手が動かない。手だけが麻痺してしまったかのように。

 気持ちが悪い。吐き気がしてきた。

 お兄様が気遣わしげにわたしの背に触れた。


「……ジョゼット。一体どうしたんだ?」

「……お兄様……」


 口が、はくはくと空気を吐き出す。

 言えない、ということすら言えない。まるで自分の口ではなくなってしまったかのようだ。

 ままならなさに涙が滲んだ。


 突然ノックの音がして、わたしは飛び上がりそうになった。

 扉の向こうからリシャールの声がする。


「殿下、オリアンヌ様がお越しです」


 そちらを見たお兄様の袖を必死につかみ、ブンブンと激しく首を横に振る。

 お兄様は驚いて紫色の目を見開いた。

 変な子だと思われたかもしれない。でも、今にも悪魔が扉から入ってこようとしているときに、気にしている余裕はなかった。


 お兄様はわたしをじっと見つめ、それから扉越しにリシャールに声をかけた。


「悪いが、急な案件が入って手が離せない。このあとのお茶会も延期してくれ。


 パッとお兄様を見上げた。

 いつもの美しい笑みを、安心させるように、わたしに向けてくれる。

 強烈な安堵を感じ、へたりこみそうになった。

 あの言葉によって、わたしは今この部屋にいないことになり、しばらくはオリアンヌの目を他の場所へ向けさせられる。


 扉の向こうでは、しばらくリシャールとオリアンヌが押し問答をしていたようだったが、やがて静かになった。

 お兄様が悪戯っぽく尋ねる。


「……それで、どうしてジョゼはオリアンヌとかくれんぼをしているんだ?」

「遊んでいるわけでは……」


 こんなときにもわたしの心をとろかす笑みと、切迫感のないセリフに脱力する。

 でも、そのおかげで強張っていた体の力も抜けて、どうすればいいのか考える余裕ができた。


「お兄様、お願いがあります」

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