「古い扇子の舞」【光の守り人シリーズ】
ソコニ
第1話 「古い扇子の舞」【光の守り人シリーズ】
蒸し暑い七月の朝、カフェ『澪』の縁側で陽子は不思議な音を聞いた。かすかな風に乗って、三味線の音色が流れてくる。
庭先の桔梗の花が、音もなく揺れる。花の上を、一枚の扇子が舞うように通り過ぎた。古びた浜松塗りの扇子。陽子が拾い上げると、その表面に「昭和三十二年 初舞台」という文字が見える。
「ああ、あの子が来る日ね」
振り向くと、白藤琴子が立っていた。今朝は華やかな色無地の着物姿。
「この扇子には、踊りの心が宿っているの」
開店から間もなく、小走りで一人の女性が駆け込んでくる。
「すみません、避難させてください!」
派手なピンクの髪、原宿系のファッション。二十代前半くらいだろうか。慌てた様子で振り返りながら、ドアの外を気にしている。
「あの、どなたか追いかけてきてますか?」
陽子が窓の外を確認すると、女性は少し落ち着いた様子で首を振る。
「いえ、その...YouTubeのライブ配信から逃げてきたんです」
自己紹介するその声は、意外にも落ち着いている。
「佐々木ユイと申します。ダンサーをしています」
その時、庭の桔梗の上を、さっきの扇子がもう一度舞った。
陽子の目に、映像が浮かび始める。
ユイの配信画面。視聴者数が一万人を超えている。
画面の中のユイは、ストリートダンスを踊っていた。しなやかな動きに、コメントが次々と流れる。
「さすがユイちゃん!」
「このキレはマジ半端ない」
「新作いつ?」
しかし、ユイの表情が曇る瞬間があった。
「次は...日本舞踊とコラボした新作を」
その言葉に、コメント欄が荒れ始める。
「えー、古くさい」
「わざわざ伝統なんて」
「ユイちゃんらしくない」
映像が消える。陽子は玉露の茶葉を取り出した。
「最高級の玉露は、一番繊細で、そして一番強いお茶なんです」
丁寧にお茶を淹れながら、陽子は続ける。
「熱湯を注ぐと、苦くて渋くなってしまう。でも、適温のお湯でゆっくりと...」
差し出された湯呑みから、甘い香りが立ち上る。
ユイが一口飲んだ瞬間、三味線の音が響き、新たな映像が広がった。
昭和三十二年の夏。この部屋で、一人の少女が日本舞踊の稽古をしている。汗を流しながら、何度も同じ所作を繰り返す。
「おばあちゃん...」
ユイの目に涙が浮かぶ。
映像の中の少女は、彼女の祖母だった。
三日前、入院中の祖母から電話があった。
「ユイ、あなたの踊り、動画で見たよ」
驚くユイに、祖母は穏やかな声で続けた。
「とても、美しかった」
「私、ストリートダンスと日本舞踊を融合させた作品を作ろうと思って」
ユイは震える声で話し始めた。
「でも、フォロワーの反応が怖くて。古いって言われるのが...」
陽子はそっと、浜松塗りの扇子を差し出した。
「これ...」
「さっき、庭で見つけたの」
ユイが扇子を手に取ると、最後の映像が浮かび上がった。
昭和三十二年の夏の終わり。若き日の祖母の初舞台。
緊張で震える手に、母からもらった浜松塗りの扇子。
「これを持てば、きっと大丈夫」
ユイの手の中で、扇子がかすかに温かみを帯びる。
「そうか...おばあちゃんも、きっと怖かったんだ」
スマートフォンを取り出したユイは、決意に満ちた表情でライブ配信を再開する。
「皆さん、私の新作、完成しました」
扇子を手に、ユイが踊り始める。
ストリートダンスの動きに、日本舞踊の所作が自然に溶け込んでいく。
コメント欄が、再び動き始める。
「なにこれ、すごい」
「伝統的なのに新しい」
「ユイちゃんにしか踊れない」
夕暮れ時、ユイが帰った後、陽子は琴子と庭を見つめていた。
「新しい風が、古い風と出会うのね」
琴子が微笑む。
「ええ。きっと素敵な風になるはずです」
桔梗の花が、優しく揺れていた。
三味線の音が、遠ざかっていく。
その夜、ユイの動画は十万回再生を超えた。
「おばあちゃんの想いと、私の想いと。新しい舞の形」
動画のタイトルの下に、そっとコメントが残されていた。
※
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