「風見鳥の向く先」【光の守り人シリーズ】

ソコニ

第1話「風見鳥の向く先」【光の守り人シリーズ】

六月の空が、少しずつ色を変えていく朝。カフェ『澪』の軒先に取り付けられた真鍮の風見鳥が、不思議な動きを見せていた。風もないのに、まるで誰かに導かれるように、ゆっくりと向きを変える。


「おや?」

掃除の手を止めて見上げる陽子の耳に、白藤琴子の声が届いた。


「風見鳥が教えてくれるのは、必ずしも風の向きだけじゃないのよ」

振り返ると、縁側に琴子の姿があった。今朝は珍しく、手に一枚の古い写真を持っている。


「その風見鳥はね、私の父が大切にしていたもの。方向に迷った時、誰かの心の声を聞くことができるんです」


言い終わらないうちに、琴子の姿は消えていた。残されたのは、古びた一枚の写真。カフェ『澪』がまだ旅館だった頃の建物を背景に、若き日の琴子が、誰かと笑顔で写っている。


その時、風見鳥が再び動いた。そして、玄関のベルが鳴る。


「あの、まだ開店前でしょうか...」


声の主は、二十代後半の女性。スーツ姿で、カメラバッグを肩に掛けている。名刺を差し出す手が、わずかに震えていた。


「週刊カメラートの岸本美月と申します。昭和の建築物を特集した記事の取材で...」


「どうぞ、お入りください」

陽子が招き入れると、美月は安堵の表情を浮かべた。


「実は、今日で締切なんです。でも、どうしても最後にこの建物を...」

話しながら、美月はカメラバッグから古い一枚の写真を取り出した。


「これは?」

「祖父の形見です。祖父は写真家で、この温泉街の建物をよく撮影していたんです」


陽子は息を呑む。その写真は、先ほど琴子が持っていたものと同じ構図。ただし、こちらは建物だけが写っている。人物は写っていない。


風見鳥が、またゆっくりと向きを変えた。

陽子は棚から、ある茶筒を取り出す。


「上煎茶、いかがですか?」


湯気の向こうで、再び映像が浮かび上がる。


十年前。高校生だった美月は、祖父の家で一枚の写真を見つけた。モノクロの写真に収められた古い建物の佇まい。光の陰影が、見る者の心を惹きつける。


「綺麗...これ、どこで撮ったの?」

「ああ、この温泉街の旧白藤屋だよ。私の最高傑作さ」

祖父は誇らしげに語った。

「建物の魂を写真に収められた、そう思えた一枚なんだ」


それから間もなく、祖父は他界した。遺品整理の際、美月は写真の束を見つけた。しかし、あの一枚だけが見つからない。


「写真で、人の心を動かしたい」

美月はカメラマンの道を志した。しかし、雑誌の締切に追われる日々の中で、初心を見失いそうになっていた。


そんな時、偶然見つけたのが『澪』。昔の白藤屋だと知り、どうしても最後の取材地にしたいと思った。


映像が消える。陽子が差し出した湯呑みから、爽やかな香りが立ち上る。


「上煎茶は、物事の本質が見えてくるお茶なんです」


美月が一口飲むと、不思議な感覚が広がった。まるで、祖父が写真に込めた想いが、胸の中に染み渡るような。


「そうか...」

美月は自分のカメラを取り出した。

「私、間違ってた。締切に追われて、ただ建物を記録するだけになってた」


陽子は、さりげなく美月の肩越しに視線を向ける。風見鳥が、今朝とは違う方向を指している。


「建物の魂を写真に収める。それが祖父の教えだった」

シャッターを切る美月の目が、輝きを取り戻していく。


夕暮れ時、美月が帰った後、陽子は古い写真を眺めていた。

琴子の声が聞こえる。


「私の父と、あの子の祖父は親友だったの」

振り向くと、琴子が優しく微笑んでいた。

「二人で撮った写真なのよ。だから、人物が写っているのと、いないのと、二枚あるの」


「きっと、お二人とも見守っていたんですね」

陽子が言うと、琴子は静かに頷いた。


風見鳥は、夕陽に輝きながら、西の空を指している。

それは、どこか懐かしい未来の方角のように見えた。


翌週、雑誌が届いた。

表紙を飾る『澪』の写真には、不思議な温もりが宿っていた。

まるで、建物が誰かの思い出を、優しく抱きしめているように。


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