【SS集】分解と再構築、または文字列の列挙

朝桐

神様にはなれない


「あなたは私の神様なんです」


 何度受けた告白だろう。ああ、その熱っぽい瞳。

 一体その目は「僕」を見ているのか?

 西名の心は冷え冷えとしていたが、その整った顔立ちには柔和な笑みを浮かべていた。


「ありがとうございます。これからも頑張ります」


 そう言って握手を交わせば、少女は恋する乙女のように頬を紅潮させた。

 テンプレートみたいな言葉、

 テンプレートみたいな対応、

 テンプレートみたいな笑顔。

 

 西名京は「天才ピアニスト」だ。

 

 その卓越した技術と音楽センスは若くして注目され、ピアニストだけでなく作曲家としても今や精力的に活動している。容貌も類い希なる美しさで、世間の「西名京」は偶像のようなものだ。

 ズレている、と感じたのは世間から注目され始めてからだろうか。

 それとも、ピアノ教室にいるころから熱心に見詰められていたころだろうか。


 西名にとって、この「顔」はピアノをする上で諸刃の剣のようなものだった。

 この美貌があるから注目される。けれどこの顔があるから、西名の音楽の本質は永遠に、誰にも捉えられないような気がした。その恐怖と孤独感といったらなかった。


「次の方、どうぞ」


 握手会を運営するスタッフの声で意識が引き戻される。

 西名は慌てて余所行きの笑顔を浮かべた。こういった仕事をしていると、本当の自分が迷子になるような気がした。

 次に来た西名のファンは、猫背の太った女だった。とても美しいとは言い難い。だが、西名が注目したのはそこではなかった。

 目が違う。

 これまで熱っぽく、敬虔な信者のように西名を見詰めていた者たちと、その女性は明らかに違っていた。

 女性は開口一番、


「もっと楽しそうに演奏してください」


 と、西名に告げた。西名の笑顔の仮面に、ヒビが入る。

 致命的な弱みを握られた気分になった。冷や汗が背筋をつたって流れていく。

 女は憎々しげに、吐き捨てるように言った。


「貴方には才能がある。なのにどうしてそんなに楽しくなさそうなんですか」


 女の言葉には芯があった。強く、しなやかな強さがあった。踏みつけられてもまた花開くような、道端の雑草のような逞しさがあった。醜女からは考えられない、精神的な美しさがそこにはあった。

 は、と小さく呼吸が漏れたのは、初対面の女が西名の奏でる音色を、よく理解していたからだった。

 呆然としたまま女と握手する。女の手は、容姿に反して白魚のように綺麗だった。よく手入れがされた、たぶん、ピアニストの手だった。女は苛烈な言葉とは裏腹に、優しく労るように西名と握手を交わした。

 途端に西名はこの場にいることが、猛烈に恥ずかしくなった。

 真に、音楽に真摯な女を前にして、お道化のような自分が滑稽で、恥ずかしくなったのだ。


「……神様なんてばからしい。そんなもの、やめたって良いじゃないですか」


 ポツリ、と。

 そう女は言い捨てると、その場を去った。呆気にとられていたスタッフに、大丈夫ですか、と聞かれた。西名は少しの間の後、笑いだした。

 そうか、なるほど。神様だともてはやされて、その気になっていたのは自分なのか。西名京という偶像は、西名自身の手によって創られた。本当に音楽に対して命を賭けているなら、この顔も才能も、些末なことなのだ。理解されたいなら、理解してもらうまで弾き続けるしかない。万感の思いを込めて。

 何故なら、西名という人間の本質は、生粋のピアニストなのだから。


 次のファンが通される。若い女性で、その目は矢張り熱狂に輝いている。


「あなたは、私にとって神様みたいな存在なんです」


 何度も聞かされた言葉だった。

 だが西名は笑って応えた。


「生憎、神様は廃業しね。僕はただの、ピアニストだから」


 だから沢山聞いてほしい、これからの僕の音楽を。

 西名の言葉に、女性ファンは少し呆気にとられていたが、勢いよく頷いていた。


「聞きます。聞きます。西名さんのピアノが、1番に好きですから」

「ありがとうございます。頑張りますね」


 握手を交わす。ようやく、ちゃんとこの手で掴めた気がした。

 握手を交わして女性ファンが去ってから、西名は先程の、猫背の太った女を思い出す。


 多分、あの女性は西名みたいなピアニストになりたかったのだろう。

 だが同時に、西名にはなれないと思っていた。才能という輝きの差を知ってしまった。その上で、あふれる才能を持つ西名が、音楽を心から楽しんでいないと察したのだろう。

 同じ、ピアノを愛する者しか発露しない陰影に気付いたのだ。


「……名前くらい聞いておくべきだったな」


 西名は椅子の背もたれに体重を預ける。本当に聞いてみればよかった。

 もしかしたら、あの白魚の手とまた出会えるかもしれないから。

 今度はこんな会場じゃなく、音楽を奏でるステージで。


 あの女が、どんなふうに鍵盤と戯れるのか、知りたかった。

 西名は少しの間、瞼の裏に眩く輝くステージを想像する。

 そしてあの女が、西名には見せなかった笑顔でステージに上がり、ピアノに向き合うことを想像する。


 きっと女の指先からは、星が散るような豊かな旋律が流れるのだろう。


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