第45話  山添パニック

 八畳ほどの和室にて。

 どこからともなく鳴る風鈴の音に、その向こう側からは蝉の声が聞こえてくる。

 目の前に置かれた茶碗に触れると、ひんやりとした感触が掌から伝わった。

 これは……。


「今日は暑いから冷抹茶にしてみた。お茶碗を冷やして冷たいお水で点てる飲み方」


 渡良瀬が俺の疑問をすぐに察知し教えてくれる。


「なるほど」


 だからこんなに冷たいのか。よく見ればお茶の中に一つ氷が浮かんでいる。熱い抹茶なら渡良瀬以外のものも飲んだことがあり馴染みはあるが、こんな風に点てられた冷たい抹茶というのは生まれて初めてかもしれない。


 茶碗を持ち上げ口の前で傾けると、爽やかな清流が喉の奥へと通り過ぎていく。あるいは透過したような気さえした。


 冷たいと何となく刺激になって苦みが増すのかと思ったがそんな事も無く、予想外にまろやかな風味。

 喉越しもいいためあっという間に飲み干してしまった。まだまだ飲めるぞこれは。


「すげえな。冷たいのもこんなに美味いのか」

「でしょ? 暑い夏にぴったり」


 そう言う渡良瀬はどこか誇らしげ。


「間違いないな」


 同意すると、渡良瀬は上機嫌に顔を綻ばせ自らも手元に置いていたお菓子を、丁寧に楊枝で切り分け口に入れる。

 まったく、俺の部屋が整えられていたり、今みたいに季節にあった物を提供してくれたり、つくづく気配りが行き届いてる奴だよな。


 うん。でだ。

 俺は思う。


 なんでこんなに気配りできるのにメスガキしてたのか? 


 いや、理由はともかく原理は分かるんだ。気配りができるという事はつまり、その逆をすればそれは不躾な態度ができるという事だからな。


 問題は何故、気配りとは真反対なその対応を俺に十年くらい続けてきたくせに、たったあれだけの事でここまで態度が軟化したのかだ。


 で、俺はまた思ったんだ。


 不幸が起きたタイミングで俺があんな悪意ある態度をぶつけてしまった。


 その結果、もしかして渡良瀬は精神疾患を患ったのではないか……? と!


 もしそうならメンタルケアはしっかりとしてやらないといけない。先ほどから色々と想像の範疇を逸脱したことが起こりすぎて深く考える暇がなかったが、一息ついてようやく脳のリソースに余裕ができた。もはやゴムがどうとか言ってる場合ではないのである!


「おかわりもあるけどいる?」

「……お願いしようか」


 茶碗を差し出せば、渡良瀬はそれを受け取り部屋を後にするが、すぐに戻ってくると、チャカチャカとお茶を点て始めた。


 おかわりを気遣うどころかわざわざお茶碗まで変えてくるとは……。なんという気配りレベル。恐れ入るね。


 本来ならばほっこりしたはずのこの瞬間も、俺にとっては冷や汗もの。なんでも気づきすぎるのは時に毒となりうる。


「どうぞ」


 再び俺の元へとゆっくり置かれる茶碗だったが、焦燥に後押しされて早く手を伸ばしすぎた。

 渡良瀬の手の甲に右手が触れてしまい反射的に視線を上げると、恥ずかしげに頬を染める渡良瀬と至近距離で目が合う。


「ご、ごめ」

「静まれ俺の右手ぇッ!」


 謝られる前に左手で右手首を掴み、思い切り畳に叩きつける。


「山添⁉」


 目を丸くし素っ頓狂な声を上げる渡良瀬。


「い、いやぁ、すまん。ちょっと最近俺の右手が反抗期でな」

「そ、そうなんだ?」


 適当な事を言うが一応は納得してくれたらしい。という事にしておく。


「あ、手大丈夫……?」


 渡良瀬が気づかわし気に畳の上にへたる右手に触れようとするので、すぐさま引っ込める。


「大丈夫大丈夫、これくらいやんないと言う事聞かないんだよ」

「そっか、そうだよね……」


 手首をスナップさせまくりアピールするが、心なしか渡良瀬が悲しそうに視線を落とす。

 その姿にここまでの自らの行動を省みる。


 一、渡良瀬の手に触れた右手を思い切り床にたたきつけた。

 二、その手が渡良瀬に触れられそうになったので全力で避けた。


 ……ん? 待てよこれ、まるで俺が渡良瀬に触られるのを嫌がってるみたいじゃないか?


「渡良瀬……」

「あ、えとごめんね。自分の席に……」

「ああ、あ、ありがとうな⁉ 気遣ってくれて!」


 申し訳なさそうに身を引こうとするので、その手を両手で握り引き留める。


「や、山添?」


 困惑気味に渡良瀬が尋ねてくる。


「いや~渡良瀬の手はあったかくて落ち着くなあ!」

「急にどうしたの?」

「いやいや、そう思ったからそう言ったまでだぞ、うんうん」

「そ、そっか。えへへ」


 とにかく頷いていると、渡良瀬も気を取り直したのか笑顔を見せてくれたのでひとまず安堵する。


 とりあえず傷つけずに済んだようだ。これ以上心労をかけて精神状態を悪化させてはいけないからな。とは言っても本人から聞いたわけでも無いので精神疾患と決まったわけではないのだが、可能性はある以上慎重になるべきだろう……。


 気を張り詰めつつゆっくり渡良瀬の手を離し、二杯目の抹茶へと手をかけ一息に飲み干す。

 当然美味しくはあったのだが、緊張のせいか一杯目の時より味わって飲むことができなかった。


 渡良瀬はと言えばまた元の位置へと戻っていったものの、心なしかさっきより俺から近い位置で留まりお菓子を自分の所に引き寄せている。

 しばらくゆったりとしながらも決して落ち着く事の無い時間を過ごしていると、ふと渡良瀬が思い出したように声を発した。


「そうだ、おばあちゃん」

「おばちゃん⁉」


 突然出てきた地雷かもしれないワードについ背筋を伸ばしてしまう。


「どしたの?」

「いや、なんでもない。続けてくれ」


 なんとか取り繕うと、渡良瀬もそこまで気にしてなかったのか特に何を言うでもなく口を開く。


「今日はお線香あげてなったからあげようかなって」

「あ……」


 そう言えば俺も家に泊めてもらうというのにまだ挨拶をしていない。元々の家主はおばちゃんのはずだし、このまま何もしないのはあまりに失礼と言うものだろう。渡良瀬の事は依然として気がかりだが、きちんとやるべき事はやらないと。


「俺も挨拶していいか?」


 尋ねると、渡良瀬が穏やかに微笑む。


「うん、おばあちゃんも喜ぶと思う」


 その笑みはとても優しげで落ち着き払い、俺の憂慮しているような不安定さは見受けられない。


 少し深刻に考えすぎていただろうか。


 そう思わせてくれる気配を感じ取りつつ、渡良瀬が立ち上がるので俺もその後に続く。


 少し歩き外からも見えていた縁側のあるリビングダイニングへと通され、大昔にここへ遊びに来た時の事が微かに蘇る。


 確か仏壇もその時からあって……と記憶と照らし合わせながら部屋の一画へと目を向けると、今も変わらず立派な仏壇があった。ご先祖様か、あるいは渡良瀬と関わり出した時には既にいなかったおじいさんと同じ所にいるのだろう。


 渡良瀬はその前に正座するとろうそくに火を灯す。

 その火を線香に移し手で扇ぐと、香炉へと立て手を合わせた。


 少しして、渡良瀬が横へと避けスペースを開けてくれるので、俺も同じように倣い線香をあげる。


「ありがとう、山添」


 ゆらゆらと立ち昇る二本の煙を眺めていると、ふと渡良瀬がそんな事を言ってきた。


「別に感謝されるような事はしてなくないか」

「山添がこんな風に一緒にいてくれて嬉しい、だからありがとう」


 ニコっと渡良瀬がこちらへと屈託のない笑みを向けてくる。


「……」


 出し抜けに放たれた言葉に思わず閉口してしまった。

 いやほんとさぁ……そういう事されるとちょっとドキッとしちゃうからやめてもらえません? なんだ? 良い子か? それでも元メスガキ性悪女かあ⁉


「山添?」


 つい凝視してしまっていると、渡良瀬が訝しんだ様子もなく小首を傾げる。

 ……でもまぁ。そうだな。純粋さとでもいうべきか、こういった雰囲気みたいなものは元来持ち合わせてなければ出せないだろう。


 俺の印象からはあまりに乖離しており今となっても受け入れがたかったものの、そろそろこれこそが本当に渡良瀬なのだと認めてもいいのかもしれない。


「いや、ちょっと色々と思い出して……」


 口にする事で頭が昔の記憶を追いかけていたのか、自然とかつて来たことがあるこの場へと視線が向くが、その中の食卓の上に気になるものを発見する。


 力なく横たわっているのはビニール袋だが、その開いた口からは白い紙袋が顔を覗かせていた。


 あ、あるぇ……? これってー……。


「ちょっとだけ聞いてもいいか、渡良瀬」

「うん、どうしたの?」


 もはや見て見ぬふりをする事ができなかった。どんどんと自らの呼吸が浅くなっていくのを感じる。


「い、いやー、あの袋、何入ってるのかなって」

「――!」


 俺の指し示した食卓の上の袋へ視線を向けると、渡良瀬が勢いよく立ち上がった。

 そのまま慌てた様子で食卓の方へと行くと、こぼれ出ていた紙袋をいそいそと袋へと入れ直す。


「い、いっけなーい! お、おばあちゃんのお薬出しっぱなしにしちゃってたー! すぐに片づけるね⁉」


 どこか誤魔化すような口ぶりで言うと、台所の奥へと引っ込んでいってしまった。


「……っすう」


 っはぁ……。台所でがさごそと収納の開く音を聞きながら、息が詰まりそうになるのをなんとか抑える。


 お、落ち着け俺。確かにあれはどう見てもお医者さんに処方されるような薬の袋だったが、おばちゃんもそれなりにお年を召していたはずで、何かしらの持病の一つや二つあって薬を処方されていた事はあるだろう。


 あるに違いない。違いない、のだが……。

 

 おばちゃん、亡くなってからけっこうもう経ってるよね?

 

 それなのにずっとあの場所に薬が放置してあるなんて事、あるのか?


「っふう……ふう……ふしゅるるう……」


 嫌な汗が背中にべったりと滲み出し、いつぞやの耽美なスメイルなおじさんみたいな唸り声をあげてしまう。


「うっかりしてた~。え、えへへ~」


 そんな事を言いながらにこにこと戻ってくる渡良瀬だったが、明らかに先ほどまでとは様子が違い何か取り繕っているのは明白だ。


「そ、そうだ! ご飯はうちで食べるよね? 今日何か食べたいのある?」


 渡良瀬が空気を払拭するかのように手を叩くと、そんな事を尋ねてくる。

 しばらく寝泊まりするにあたって生活の軸はこちらに置く事になっており、ごはんも当然そのうちの一つだ。

 

 いわば同居と言っても差し支えなく、そんな状況下に置かれている今は非常に幸運と言っても差し支えない。


 差し支えないのだが、今の俺にそれを楽しむ精神的余裕などあろうはずもなかった。


「あ、いやぁ……どうしよっかなぁ……」


 渡良瀬の問いかけに、なんとか声を絞り出し応じるが、ほんと俺どうすればいい?

 混乱した挙句ふと頭の中に釜戸の事が思い浮かぶ。


 渡良瀬と親友のあいつがこの事を知らないはずないよな? いや、知らない可能性は十分あるが、それでも何かしら有用な情報は聞けるんじゃないだろうか。


 ただ生憎今は実質夏休みの三者面談期間。プライべートで休日に釜戸を誘うとかハードル高すぎるしかと言って俺一人でこの局面をどうにかするのは少々荷が思い。かと言ってゴムを仕込む様な母親コンビを頼るにはあまりにも心もとないし……。


「っすう……」


 はぁ……。

 とにかく酸素を取り込み、お仏壇の方へと身体を向ける。

 そのまま両手を床につき、頭を思い切り打ち付けた。


「ほんっとすみませんでしたぁ!」

「え、なに山添⁉」


 渡良瀬再び悲鳴に似た声を上げるのが聞こえるが、まず思いついたやるべき事がこれだった。


 俺がお孫さんに深い傷与えて変えちゃったかもしれないですう! 本当にごめんなさいおばちゃん並びにおじいさん、そしてご先祖の皆様ァ!


 それから十数分間、俺はひたすら頭を擦り続けた。

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