ヴィタリは自分で言っていた通り、ほとんど毎日、図書室に顔を出した。特に用事がなければ、司書は週に二日の休みがあるので、それ以外では、トリーシャはヴィタリと会っている。


「あの……ヴィタリ様はいつお休みになられているんですか?」


 トリーシャが休む曜日は決まっていないのに、ここまで会うと心配になってきた。

 トリーシャの問いに、ヴィタリは首を傾げる。


「どうして?」

「僕が出勤している日は、毎回会っている気がしますので」

「ああ、私が休みの日も図書室に来ているだけだよ」

「では、毎日いらしてるんですか?」

「うん。すぐに読み終えてしまうからね」


 ヴィタリは格好つけているわけでもなく、自然体で言った。


(なんの業務をされているのか分からないけど、この方が賢いということは分かる……!)


 トリーシャも読書は好きだが、ヴィタリが借りていくような分厚い本を、一日で読み終えるほどの能力はない。


(政務官なら、守秘義務も多いだろう。僕が聞いていいことじゃないよな)


 トリーシャは湧き上がる好奇心を、笑みの下に隠した。城で穏便に過ごしたいならば、好奇心ほど厄介なものはない。


「読むのが速いんですね」

「速読は得意なんだ」


 ヴィタリはにこっと微笑んだ。

 ヴィタリは出会った当初から穏やかで優しいが、一月も経つ頃になると、トリーシャにもヴィタリがどこか変わった人であることは察せられている。知識にはとにかく貪欲だ。


 ときどき浮世離れした雰囲気を感じるが、ヴィタリが誰に対しても優しいことも分かり始めていた。

 部下のアガートにも会ったことがあるのだが、彼に対しても、ヴィタリは穏やかさを崩さない。年配の司書は、重い本を脚立を使って上の棚に戻そうとしたところ、ヴィタリが親切に代わりを申し出てくれたと話していた。

 図書室に勤める司書の間で、ヴィタリの評判は良い。


「そろそろ昼食の時間だね。トリーシャさん、よかったら一緒にカフェテリアに行かないかい?」

「え……? しかし、あなたのような上の立場の方は、執務室に用意させるのでは?」


 部下の恭しい態度を見ていると、ヴィタリはそうされて当然に思えていた。例えば高位貴族ならば、所属先の厨房に用意してもらえるのだ。多忙さのせいで、分刻みのスケジュールをこなすような彼らへの、特別処置だった。


「私は食堂に行くこともあるよ。忙しい時は用意してもらうこともあるけど、場所を変えたほうが気分転換になるからね」


 やはりヴィタリはかなり上の立場のようである。


「僕が一緒でよろしいんですか?」

「何を言ってるの。君は、ここでの友人第一号じゃないか」


 どうやら本気で言っているらしい。

 トリーシャはヴィタリに慣れ始め、少しずつ気を許している。友人ならば食事くらいいだろうと思った。


「ふふ。分かりました。では、上司に離席を伝えてきますね」

「入口で待っているよ」


 ヴィタリが小さくガッツポーズをしていることには気づかず、トリーシャはカウンターの奥にある事務所へと向かった。

 すっかり警戒心を解いている上司達には快く送り出され、トリーシャはヴィタリといつものカフェテリアに行く。テラス席の隅にあるいつもの席を選ぶと、ヴィタリは微笑んだ。


「静かで良い席だね。気に入ったよ」

「それは良かった」

「君はいつも何を食べているの?」

「紅茶とサンドイッチです」


 ヴィタリはトリーシャをじっと見つめる。


「うーん、もしかして眠くなると業務に支障をきたすから、少ししか食べない人?」

「ただの好物ですよ。会議前なら、むしろ食べません。おっしゃる通り、眠くなるので」

「私と同じだ!」


 思わぬ共通点を見つけたのか、ヴィタリは本当にうれしそうに笑う。


(年上の人なのに、なんだかかわいいな)


 金色の髪のせいか、トリーシャは人懐こいゴールデンレトリーバーを思い出した。


「ローストビーフのサンドイッチは好きかな? いろいろと頼んでみたんだけど、ここのメニューで一番のおすすめだよ」

「好きですけど、その……あまりランチにお金をかけたくなくて」

「え? 貯金でもしているのかい?」


 いかにも富裕そうな男の口から、庶民的な単語が飛び出したので、トリーシャは笑ってしまった。


「そうですね。いつまでも実家にいるのも悪いので、独立したくて貯めているんですよ」


 トリーシャが元婚約者に危害を加えられたことで、家族は過保護になっている。それがトリーシャには気まずくてしかたがないのだ。


「もう引っ越し先を決めているのかい?」

「いえ。それがこれまで家を出たことがないので、どうやって部屋を借りるのかもよく分かっていないんです。そのうち……ですかね」


 恐らく引っ越し代くらいには充分な貯金はあるはずだ。


「婚約者……あ、元婚約者がいたんですけど、その結婚資金にしようと思って、少しずつ貯めていたので、問題ないとは思うんですが」


 無意識にぽろりとこぼしてしまい、トリーシャは慌てて手を振った。


「あ、すみません。私情なんか話してしまって」

「いや、構わないよ。友人なんだ、悩みがあれば話してほしい。私は口が固いよ」

「ええ、そうでしょうね」


 でなければ政務官など務まらない。


「そこまで信頼してくれているとはうれしいな。今日は私のおすすめをごちそうさせてくれ。すまない、注文をいいかな」

「えっ、ヴィタリ様……」


 トリーシャが止める暇など与えず、ヴィタリは飲み物やサンドイッチ、食後のデザートまで注文した。しばらくすると、店員がテーブルいっぱいの料理を運んできた。


「こんなに食べるんですか?」

「頭を使うとお腹が空くんだ。大丈夫だよ、残ったらテイクアウトするから」

「あの、自分の分くらい払います」

「そんなに気を遣うなら、今度、何か……サンドイッチでも作ってきてくれない?」

「へ?」

「独立するんなら、簡単な料理くらい作れるようにならないと」

「ヴィタリ様も料理をするんですか?」

「身の回りのことくらいできるよ。うちに遊びに来てくれたら、パスタくらいごちそうしてあげる」


 ヴィタリはとても様になるウィンクをした。

 世慣れしない少女ならば、顔を真っ赤にしていそうなくらいきざだった。しかし、どう見ても高位貴族のヴィタリと自炊がマッチせず、トリーシャは面食らっていたので、あ然としただけだ。


「ええと……それなら、サンドイッチを作ってみます」

「明日?」

「気が早いですよ。休み明けにしましょう。五日後で!」

「約束だよ。私が好きなのは卵サンドなので、一つは入れておいてね」


 気軽な口調で、要望を押しつけるヴィタリ。それが嫌味がないので、トリーシャはかわいいわがままだと笑みが浮かんだ。


「いいですよ。下手でも笑わないでください」

「その言い方だと、家事をしたことがないのかな?」

「身支度や簡単な掃除くらいですね。紅茶を淹れるくらいはできますよ」

「君みたいな秘書がいればいいのに」


 それしかできないのかなどと言わず、ヴィタリは愛想よく微笑む。トリーシャは気を良くした。


「リップサービスでもうれしいです。ありがとうございます」

「うん。では、友人なのだし、その敬語もやめようか」

「でも、恐らくあなたのほうが身分は上ですし、年齢も上でしょう? 後輩の僕が気遣うのは当然のことです」

「二人の時は対等ということで」

「対等なのに、ごちそうしてくれるんですか?」

「独立したいと頑張っている友人を応援したいのは、普通じゃないかな。お礼はため口でいいよ」


 ヴィタリはにこにこと微笑みながら、頑固な面を見せた。どうやら折れる気はなさそうだ。


「……分かったよ、ヴィタリ」

「よろしく、トリーシャ」

「トリーでいいですよ。友人なんでしょ?」

「それって君の元婚約者も呼んでいたのかな」

「え? そうですね。家族も呼びますし」


 ヴィタリの眉がぎゅっと寄り、不服そうな顔をした。珍しく機嫌を損ねたようだ。


「それなら、私はリィって呼ぶ」

「はあ。構わないけど」


 トリーシャが許可すると、ヴィタリは一転して笑みを浮かべた。


「そう、よかった! それじゃあ、リィ。温かいうちに食べよう」

「そうだね」


 それぞれ食前の祈りを口にしてから、昼食に手を伸ばす。

 ヴィタリがおすすめするだけあって、ローストビーフとレタスと玉ねぎが入ったサンドイッチは絶品だ。甘辛いソースがちょうどいい。紅茶さえも、トリーシャが頼むものより高級な銘柄のようで、香しくておいしい。

 そして楽しい食事を終えてから、図書室に戻ってきたトリーシャは遅れて気づいた。


(……ん? もしかして、やきもち?)


 いつも温和なヴィタリが、元婚約者のことを口にした時だけ不機嫌そうだったのを思い出す。


(なんてね。友人として気遣ってくれたんだろうな)


 ヴィタリがトリーシャを愛称のトリーで呼ぶたびに、元婚約者を思い出さないかと気にしてくれたのだと、トリーシャは解釈した。


(ヴィタリって、優しい人だな)

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