繋ぐ命とミスティオレ
莫[ない]
いますぐ読んでほしい。貴方に重要なことだから
ページを開いてくれてありがとう。
貴方の家族から1年分の寿命を譲り受けました。
ごめんね。
もう返すことはできないらしいんだ。
呪っといてなんだけど、次に続く文章をせめて読んでみてよ!
◆
その洞穴は
入り口の外は真っ青で
二人は登山服を身にまとっていました。オレンジ色のふかふかしたウェア。白いヘルメット。今は外しているゴーグル。棘を生やしたアイゼン。
男が洞穴の入口へゆっくりと向かいます。彼は入口から顔を出しました。空を見上げています。やがて、女の方へゆっくりとまた戻ってきました。
「
男が喋りました。カサついた唇は紫がかっています。
女が口角を上げました。歯茎が心なしかすみれ色に近いです。
「元気出せよ。抱きしめてやろうか? メスゲ?」
男はメスゲと呼ばれました。女は両腕をわざとらしく開きます。男は女へ歩み寄りました。彼女の腕が男の背中へ回ります。
「ずいぶん太ったんだね。アケモーヌ」
「非常食は高カロリーだからな。……なわけあるか! お前の右耳と左耳を入れ替えるぞ」
「それはちょっと嫌だな……」
メスゲはその女をアケモーヌと呼びました。メスゲたちはケラケラと笑います。乾いた笑い声が洞窟にこだましました。しばし笑い合ってから二人は体を離します。
アケモーヌは自身のジャケットを指で示しました。
「ジャケットの下に羽毛がぎっしり入ってんだよぉ。皮下脂肪みたいによぉ〜!」
「そうか。脂肪ならナイフで切り取れるかもしれない」
メスゲが自身のジャケットの懐へ手を伸ばします。彼の視線はうつろでした。アケモーヌはメスゲの右手を咄嗟に掴みます。
「やめとけ。正気かよ。メスゲ」
それから、アケモーヌはメスゲの肩をポンポンと叩きました。
「大丈夫だよ〜。一週間くらいの飲まず食わずは訓練でもやったろ」
「でも、僕の計算が合ってれば、もう二週間は立つ」
「……メスゲの勘違いだよ。優等生のお前も空腹には弱いな」
アケモーヌは自身のバックパックに手を入れました。彼女は掌大のスティックを取り出します。それは銀色の袋に包まれていました。つまり、携帯食料です。みんなに人気のチョコレート味でした。
「食えよ。とっといたんだ」
アケモーヌが携帯食料をメスゲへ差し出します。メスゲはそれを見つめました。しかし、手を伸ばしません。彼はアケモーヌへ視線を向け直します。
「それはアケモーヌの分だ」
「じゃあ二つにでも割れよ。んで、片っぽ残しとけ」
「アケモーヌ……」
アケモーヌは視線を蝋燭へそらしました。彼女の口元だけが微笑んでいます。メスゲはアケモーヌの膝へ手を置きました。
「きみ。どっか悪いのか」
メスゲたちは見つめ合います。洞窟の中はとても静かでした。時折、外からの風がくぐもった声でかすかに囁くばかりです。
アケモーヌが唇から小さい犬歯を覗かせます。
「頭は確かに悪いよ。メスゲよりはな。――喧嘩か? 暖まりそうだ。買ってやる」
「アケモーヌ。冗談言ってる場合じゃないぞ」
メスゲの手がアケモーヌの左足を揺らします。彼女はため息を付きました。白くぬるい空気がメスゲの顔へかかります。
「はぁ。分かったよ」
アケモーヌが両指を組みました。それを自身の足へ置きます。
「戻しちまうんだ。体が食いもんをもう受け付けてくれない」
「薬は?」
「……なもん」
アケモーヌの瞼が広がりました。彼女の
「そんなもん。あるわけねえだろ!」
アケモーヌの怒号が洞穴の静謐を壊します。
「俺たちがどこいるか分かってんのか?! それとも、分かった上でバカにしてんのか。お前もやっぱりみんなみたいに俺のことをバカにすんのか? どうなんだよ。おい。黙ってないでなんとか言えよ。その目やめろよ。なんとか言え――」
アケモーヌの口が塞がりました。メスゲの胸が彼女の顔を優しく覆ったからです。
「ごめん。アケモーヌ。ごめん」
冷え切った洞穴にアケモーヌの啜り泣きが響きます。それは虚しくも氷へ溶けていきました。
メスゲがアケモーヌから体を離します。彼は両手で彼女の手を包みました。
「僕のせいだ。本当にごめん」
「……メスゲのせいじゃねぇよ。誰のせいでもない。ただ」
アケモーヌの泣き腫らした目元が三日月状に歪みます。彼女の頬は青白く蝋のようでした。しかし、涙袋は赤く染まっています。
「ただ、俺たちは運が悪かったんだ」
◆
ここはクレバスの中でした。
アケモーヌとメスゲは雪山へ演習に来ていたのです。授業の一環でした。
二人は運悪く吹雪に巻き込まれます。そして、雪原の割れ目が冷酷にも彼らを飲み込みました。
アケモーヌは落下中に横穴を運良く見つけました。彼女は穴へなんとか這い上がります。
「メスゲ! 俺の手を
アケモーヌはメスゲの手も取ることができました。しかし、彼を洞穴へ引っ張り上げる際に荷物をいくつか失いました。
メスゲを軽くするために、彼のバックパックを手放させました。また、彼女は彼を引っ張り上げる際に体勢を崩しました。彼女のバックパックから荷物がこぼれます。それらの全てが青い闇の底へ落ちていきました。
それでも、二人は助かったのです。
◆
「運が悪かったんだよ」
アケモーヌはまぶたをそっと閉じました。そして、伏し目がちに開き直します。
「運、か」
アケモーヌが自身のバックパックへ視線を向けました。メスゲもそれをなぞります。
「どうしたんだ?」
「たぶん、まだ入ってるはずだ」
アケモーヌは上体をよじらせようとします。彼女の
「悪い。メスゲ。俺のバッグパックから取って欲しいものがあるんだ」
「分かった。アケモーヌはそのまま安静にしてて」
「……助かる」
メスゲは彼女のバックパックを漁ります。そして、何かを探り当てたようでした。
「これか? アケモーヌ」
メスゲの手には一冊の本が握られていました。緑色の分厚い
メスゲはアケモーヌへ本を手渡しました。
「爺ちゃんに持たされたんだ」
「きみの、ご家族か」
メスゲは口を一瞬つぐみました。アケモーヌはそれに気づいています。彼女は薄ら笑いを顔に浮かべました。
「メスゲも知ってるんだろ? ミスティオレ
「もちろん知ってるよ。信じてはないけど」
◆
ミスティオレ
かつてその先祖は神秘に
その命。
◆
アケモーヌは本を開きます。蝋燭が金色の文様に反射しました。妖しくも美しいオレンジ色の光がメスゲの網膜へ焼き付きました。
アケモーヌが本をペラペラとめくっていきます。
「あの噂。嘘じゃないんだ」
そして、アケモーヌはメスゲへ本を差し出します。
「その本を読むだけでいい。声に出して読めば、あとはそれが何とかしてくれる」
「何とかって?」
「分からん。実家に行けばアイツに聞けるんだけど」
「邪神に?」
「うん」
メスゲは口を閉じるのを忘れました。アケモーヌは握った右手で自身の唇を隠します。彼女は囁くように含み笑いました。
「引いた?」
メスゲも口角を上げました。
「うん。引いた。でも、これしかもうないんだろ? 僕たちが生き残る道はさ」
「……お前と組んだことに初めて感謝してるよ。メスゲ」
「うん。えっ、初めて?」
メスゲがアケモーヌへ身を乗り出します。彼女は両足をパタパタと揺らしました。
「些細なことだよ。メスゲ」
「傷ついたなぁ」
「うるさ!」
青い洞窟に彼らの笑い声が響きます。いつしかそれは止みました。
二人は見つめ合います。メスゲの視線の先でアケモーヌの舌があらわになりました。
「……その、だからさ」
アケモーヌはなにか言い淀みます。そして、再びメスゲヘ向き直りました。
「メスゲ。もしもだけど、もし私たちが助かったら、さ。そのあとも一緒にいてほしいんだ、けど……。どう?」
メスゲはアケモーヌの手を握りました。
「もちろん。もちろんだよ。アケモーヌ」
「そうか。……ありがとう」
それから二人は呪いの準備を始めます。
メスゲにとってはとても幸運なことがありました。アケモーヌが持っていた呪術書『彼方へ
呪術には段取りがありました。メスゲはナイフで掌を切ります。傷口から血が滲み始めました。
今度は、メスゲはアケモーヌの手のひらへナイフをかざします。
「ちょっと痛むよ」
「この寒さだ。分かりゃしないさ」
ここに血を流す二つの手のひらが揃いました。メスゲとアケモーヌはその傷口をくっつけあいます。二人の手は氷のように冷たいです。しかし、彼らにとってはむしろ心地よく有りました。
体温が二人の平均に到達します。メスゲがアケモーヌを見つめました。
「じゃあ、始めるよ」
「よろしく。メスゲ、いや――メスゲ・ミスティオレくん」
メスゲは呪術を
「……君には負担ばっかりかけてしまったな」
アケモーヌは呟きました。メスゲの口からは呪言が
どこか遠くのクレバスの底。氷の洞穴では二人の男女が、いまも生命を繋ぎ続けています。
いつの日か、彼らに救いが訪れるまで。
◆
つまり、そういうことなんだ。
自分勝手なのは重々承知だよ。でも僕もほら、男だからさ……。
もしも、貴方が僕たちを哀れんでくれたのなら、この話を貴方の周りへもっと広めてほしいんだ。
ミスティオレのこだまをもっと響かせてほしい。それはいつか僕らの
助けが来る前にアケモーヌが死んじゃったら、全部台無しだしね。
お願いだ。
貴方がホントはとっても優しい人だってこと。僕たちは分かってるからさ。
了
繋ぐ命とミスティオレ 莫[ない] @outdsuicghost
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