ディバイン・インキュベーター1946 ~東京天魔揺籃記~

月見里清流

プロローグ in the dark(ヤミの中で)――新橋

「――てめぇのんだよッ!!」


 聞くに堪えない蛮声と共に、無慈悲で情け容赦ない殴打げんこつが、左頬を襲った。

 刺すような激痛に驚く間もなく、腹にも肩にも顎にも、無骨で雑な拳が飛んでくる。痛みで身体が竦む度に、悔しく、情けなく、泣きたくなる。だが、抵抗する気は微塵も起きない。反抗する気力などない。


「二度とそのツラ見せるんじゃねぇぞッ!」

 闇市を取り仕切るヤクザ者達は、無抵抗の人間に飽きてしまったのだろう。私の足元に唾を吐き捨てて去って行った。

 殴られた理由はよく分からなかった――。奴らの言い分はとのことだ。久々にありつけた飯を有り難がる暇も無く、突然難癖を付けられ、胸座を引っ張られ、食べかけのオカラ寿司が空を舞い――、地に墜ちた。


 良いように路地裏に連れ出され、良いように殴られ、無様に倒れ、冷たく固いコンクリートにもたれ掛かり、だらしなく足を伸ばしているのだ。色褪せてボロボロになった国民服に身を包んでいても、冷たい地面と壁は容赦なく体温を奪う。


 ――暗い。

 ――冷たい。

 ――凍えるように寒い。

 ――深い闇。

 いや、これは人の心に落とされた、だ。

 僅か数尺先には、煌々と裸電球ランプが照らされ、あまりに多くの人々が生を賭け、欲望に塗れ、希望に満ち、絶望に塗りつぶされ、酒臭く、淫靡いんびな風情の中に生きている。闇に塗れた私の足元には暖かな灯りが一本の線となり、真っ直ぐに差し込んでいる。


 しかし、――届かない。

 どうしても、届かない。

 私この世界と隔絶してしまったのだ。


 昭和二十一年の暮れ。

 東京、新橋――。

 駅の目と鼻の先に最近出来たの近く。

 雑多な日用品とガラクタが並び、粗雑なカストリ焼酎とメチルアルコール入りの毒酒『バクダン』が提供され、――そして淫の売買が行われる。当局の規制や外国人特権、ヤクザの縄張り争いに揉まれて人の生を繋ぐ闇市。寂然とした夜の闇は、人々のダミ声と雑踏のせ返るような臭気の前にけがされている。


 あの敗戦から、何かが壊れてしまった。

 東京は、いや、は崩壊した。

 都会に住む我々に残されたのは、焼け野原、廃墟、恥、空腹――である。

 或いは、国への猜疑心と、飢えと苦しみもであろう。あれから1年以上経っているのに心も体も満たされたことはない。肺に満たされる空気は薄汚れ、十数年前の溌剌とした清涼さは微塵もない。


 いや――、そもそも満たされている日本人などいるのだろうか。

 確かに「戦時体制」からの解放は多くの国民が享受した。いつ空から爆弾が降ってくるか分からない「戦時」に比べれば絶対今の方が良い。「灯火管制」もない。暗闇に怯えなくて済む。戦争は終わり、帝国陸海軍は消滅し、新生日本は民主主義国家として生まれ変わった。


 ――はずである。

 つい最近、その権化にして道しるべ「日本国憲法」が発布されたばかりだ。軍備に頼らず世界の信頼と理想にその身を委ねる――。だが、この急激な時代のうねりに乗りあぐねる者は大勢いる。


 ――ぐう。

 唐突に、腹が情けない声を上げた。

 まだ食いかけだったのに――。

 憎々しげに闇市の灯りを眺める。粗雑な食い物でも命を繋げる。ただ、それすらもありつけない事も多い。政府による配給は心細く、空腹が常に命を脅かす。僅かな食料を求め、身包み剥いで田舎に売りに行く『タケノコ生活』が常態化し、買い出しを理由とした仕事の欠勤率も高いままだ。


 未だ戦前のは戻っていない。

 明日どころか今日食うモノを探して彷徨う日々。実家が地主や蓄えがある家ならばなんとかなるだろうが、都市部に住む大方の人間にそんなものは無い。


 ――私にも、ない。


 遠い親戚なら遠い地方にいる。だが、近しい者達は皆昭和二十年三月の大空襲東京大空襲で死に絶えた。父も母も兄妹も、皆、焼け死んだ。葬式も出来なかった。その頃は大陸にいたのだから。


 大陸で――、あぁ、駄目だ、は――。

 視界が歪み、うねり、伸びる。

 思い出すな、思い出すな、思い出すな、思い出すな、思い出すな。


 刺すような痛み、締め付けるような苦しみが身体を駆け巡る。ざわざわと背中を這い寄る、余りにも不快な何者かの蠢き。必死にを手繰り寄せる。

 この路地裏のゴミのような生活が、臭いが、私のいるべきだ、なのだ――。

 言い聞かせなければ、現実に常にしがみ付かねばが来る。蒼い暗闇が、黄色い閃光が、有象無象の邪気を纏い、せせら笑いながら襲ってくる。いや、きっとに引き入れようとしているのだ。

 大陸での、――あの

 胸を押さえてうずくまる。

 さっさと夜が明けてくれないか。夜が私を苦しめる。闇夜に心も肉体もすり切れるほどに削られる。これがずっと続くのならばいっそのこと――。


 ふと。

 ダミ声や人々のざわめきに紛れて、近くではっきりとした足音が聞こえてきた。カツカツと音を立てて、――近づいてくる。

 雑踏のそれではない。

 ブーツと、――女物のくつ

 慎重に何かを探すような足音が、雑音を切り裂いて聞こえる。そして足元の光が――人の影に遮られる。


「この人、ですカ?」

「――そうです」

 男の声と女の声。

 歪む視界に、――二人。

「随分と、草臥くたびれたご様子ですネ」

 やや癖のある発音だが、ちゃんとした日本語である。明らかに男である。やや高音の落ち着いた、優しい声色が耳に馴染んだ。

「無理もないでしょう。でも、生きてゐる」

 一方、女の声は身を切るように冷たい。その癖に、どこか幼さの残る声で凜――と響き渡る。


 視線を二人に向ける。

 暗がりでも分かる、男はだ。暗がりでも僅かに白熱灯の光を浴びる金髪、米兵が良く着るジャケットに冬用の分厚いコートを着込んでいる。女の方は大仰な和服姿のようだが――、フードを被っており顔も眼も良く見えない。

「大丈夫ですカ?」

 米兵がしゃがみ込み手を差し伸べる。怪訝な表情で睨むと、隣の女も並ぶようにしゃがみ込む。僅かに漂う女の香が――鼻腔をくすぐった。

「警戒してますね。当たり前ですけど」

 女の口元が僅かに上がる。米兵は僅かに肩を竦め、首に掛けていた十字架をシャツから取り出した。


 それは――、ロザリオ。

 年月を経たことが見た目にも分かる薄汚れたロザリオ。

 だが、不快さはない。丁重に扱われながら代々伝えられてきた、そんな風格を感じさせる。

「何を――」

 意に介さぬように、米兵がロザリオを掲げてぶつぶつと囁き始めた。よく聞き取れないが、きっと祈り言葉なのだろう。そう思っていると、ロザリオが俄に輝きを発し始めた――!


 暖かな白色、僅かに見える赤銅の輝き。

 眩しくは――、ない。

 この夜寒よさむを払いのけ、温かく包み込むようなその輝きに放念した。


「ご苦労されたようですネ」

 外国語で祈りを捧げていた米兵が、再び日本語で私に語りかける。

「怪異がアナタを襲う――。今も気を抜けば襲いかかってくる」

 ――あぁ、そうだ。

「でも安心してください。私達が、アナタを保護しまス」

「このの、に、貴方の力が必要なんです」

 女が――口汚く協力を求める。

「力……、ちから……?」

 私に何の力があるというのだ。

 国を、家族を、誰一人守れずに――。

 今自分一人すら救えない自分に、何の力があるというのだ。

「今は分からなくても大丈夫ですヨ。ただ、少しの間だけ眠っていてください。目が覚めた時に色々ご案内致しまス」

 米兵の一言の後、全く間を置かずに睡魔が襲ってきた。強烈に殴りつけるような眠気がロザリオの残光に織り交ぜられ、嘗て在りし温もりと紛う安らかな気持ちで、――私は眠りに落ちていく。


 この世の全てが、この温もりの中に沈めば良いと願いながら――。

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