結局みんな、キャラクターが好きなだけなんじゃない?

@turugiayako

第1話

 先日、「同志少女よ、敵を撃て」のついて書いた文章を読み返してみて、いろいろとまた言いたいことが出てきたので、改めて書いてみる。 

まずは反省から。 

 先日Upした文章をはじめ、過去に発表してきたものを読み返してみて痛感したのだが、私はあまりにも、その、読みにくいものばかり書いてきた。 難しい主題を取り上げて書く文章が、難しくなってしまうのは避けられないし、昨今の「とにかくわかりやすくすることこそがジャスティス!」という風潮には、それはそれで害悪だと私は批判的なのだけど、それとは別に、私の書いてきたものは「無駄に」読みにくい。 中二病チックだ。 

 簡単に書けるものを、気取ってかっこつけて難しそうに「見える」文章で書いてしまうことが、中二病チックでなくてなんなのか。 昨今の、ちょっと入り組んだことに触れてしまえばすぐに中二病認定する風潮も、あれはあれで嫌いなのだけど。

  でも、私は、いろんな人に私の書いた文章を読んでもらいたい。それを最優先するあまり、わかりやすさのために大切なものを犠牲にした文章を書いてしまうなどと言う、本末転倒なことは絶対に避けなくちゃいけないけれど、無駄に、不必要に装飾をこらし、読みにくくしてしまって、読んでくれる人が少なくなってしまうのは、私にとってノーサンキュー。 

 今まで読んでくれた人ならわかると思うけど、私は今回から、あえて「軽い」文章を心掛けるつもりだ。 

 今、実践中。 

 私がこういう考えに至った理由は、千葉県市川市在住の引きこもりでルーマニア語純文学小説家である斉東鉄腸先生の著作「千葉ルー」「糞ったれな俺の生活革命」を読んだから。 Noteにも、鉄腸先生は「セクシービースト斉東鉄腸」という名前でいろいろ書いているけど、面白いから必読だよ。 鉄腸先生の文章には、気取った部分が一つもない。それでいて、品位を感じられる文章だ。私の理想だ。 

 で今、書いている。 

 前置きをやっと済ませた上で「同志少女よ、敵を撃て」の話をまたするね。

「同志少女よ、敵を撃て」(以下、「同志」と書くね)について考えるうちに、どうしても頭に浮かんでくる言葉が、「キャラクター」。「同志」を褒める大人たちは、口をそろえて「キャラが立っている」っていうけどさ、それってどういうことなんだろうってこと。 多分それって、「キャラクターが、まるで生きた人間であるかのように、実際に自分の知り合いであるかのように感じられる」ってことだと思う。 で、実はこういう「感じ」って、小説とか文学と呼ばれるものよりも、圧倒的に「漫画(アニメ、ゲームを含む)」で感じられることが多い、ていう印象。 漫画を筆頭とする二次元文化における「萌え」とか「推し」ってさ、考えてみると、ちょっと不思議なんだよね。 基本的に、二次元キャラってのは、絵なわけじゃん。でもその絵に過ぎないものに、私たちはまるで生きた人間であるかのように恋をして、推し活と称してグッズを買ったり、ファンアートや同人を自分で作っちゃったり、そのキャラの真似をしてコスプレしたりする。 不思議だよね。 でも一番不思議なのは、これが、「二次元」でのみ発生して、より現実に近いリアルであるはずの「三次元」では、発生しないこと。まあアイドルを推すのは珍しくないし、俳優さんやモデルのファンってのもいるけど、なんか「違う」のだよね。 一番「違う」のは、アニメのキャラクターを「推し」にする人は珍しくないけど、実写映像作品のキャラクターを「推し」にする人は、聞いたことがない、ていうこと。 俳優さんのファン、てのはそりゃあいるよ。でもその人は、例えば「橋本環奈」のファンではあっても「橋本環奈が演じる朝ドラ『おむすび』のヒロイン」のファンじゃない。 一方で、アニメキャラクターを『推す』人が、じゃあそのキャラクターの声優さんのファンでもあるのかというと、そうとは限らない。もちろん、声優さんのファンってのもちゃんと存在するけど、それは「キャラを推す」のとはまた違う次元の話として(文字通り)認識されている。「名探偵コナン」のキャラクター、安室のファンでいることと、安室を演じた声優・古谷徹のファンでいることは、必ずしもイコールではない。 三次元では、アイドルだけが、二次元キャラと同じように、「推し」の対象にされて、消費されているね。そしてアイドルを「推す」行為と、例えば西島秀俊のような俳優のファンでいることは、全く違うこととして、世間では認識されている。ぶっちゃけるなら、アイドルは生身の人間ではなく、二次元キャラのように(全く同じではないにしろ)認識されているわけだ。アイドルファンもアニメファンも、雑にまとめて「オタク」と呼ばれるよね。一方で、西島秀俊のような俳優を好きな人は、「オタク」と呼ばれることは、ない。 結局のところ、二次元のキャラってのは、「絵なのに」生身の人間であるかのように愛されている、というわけではなく「絵だからこそ」生身の人間以上に愛されている、というリアルがある。 この摩訶不思議なパラドックスは、これまでも多くの人が論じてきた。「戦闘美少女の精神分析」という、斎藤環という心理学の先生が書いた本が、一番このパラドックスを考えるうえで役に立つと思う。 とても複雑で、長いうえに、正直私も完全に理解しているとはいいがたい論考なんだけど、これだけは言える。 斎藤環が予測したように、こういう「キャラに熱狂する」オタク的なメンタリティーは、21世紀の現在、日本のみならず世界において、普遍的にみられるものとなっている、ということ。 ここ数年の「推し活」って言葉の一般化を見るだけでも明らかでしょ。 さらに視野を広げるなら、最近はさすがに飽きられたのか下火になりつつあるようだけど、2010年代の世界の映画界で、最もインパクトを放っていたジャンルは何だった? MCUだ。アメコミのキャラクターを、三次元の俳優たちが大真面目に演じた演じた映画が、一番売れたのが、21世紀最初の20年という時代。 そして日本では、2016年に「君の名は。」が年間興行収入ランキングの一位を獲得し、2020年には「鬼滅の刃 無限列車編」が、歴代邦画興行収入ランキングの一位を獲得。 もしかしたら、今の10代の子とかには、想像もつかないかもしれないけれど、かつてはアニメ映画なんて、ジブリの宮崎駿が撮った映画しか、受けなかったのよ。押井守の映画は、ちょいと通好みのポジションにいたからな。それが、2006年に細田守の「時をかける少女」がヒットしてから、ちょっとずつ変わっていった感じ。今や、いい歳したオトナで、特にオタクでもない人がアニメを見るってことに対する心理的なハードルは、大分下がっていると思う。 そしてまた、特撮のことも、忘れてはいけない。 もしかしたら、これも今の10代の子とかには、想像もつかないかもしれないけれど、かつてはゴジラって、オワコン扱いされていたのよ。それが「シン・ゴジラ」の大ヒットで、嘘みたいに景色が一変した。アニメが作られ、ハリウッド版モンスターバースが世界中でヒットし、「ゴジラ マイナスワン」が、アカデミー賞視覚効果部門を受賞さえした。ゴジラだけじゃない。シンゴジを撮った庵野秀明が手掛けた「シン・ウルトラマン」や「シン・仮面ライダー」、白石和彌が監督した「仮面ライダーBlack Sun」など、オタクではない一般層の大人をもターゲットにした特撮作品が制作されるようになったのは、シン・ゴジラの確実に良い影響だ。個別の作品に対する評価は、さておくとしても。 2016年の「君の名は。」「シン・ゴジラ」の大ヒットから始まっている日本の流れ、MCUやモンスターバースと言った世界の潮流に共通するものって、ようはキャラクターってことじゃん。あのキャラが可愛い、あの怪獣がカッコいいって感情が、コンテンツを盛り上げている。 そしてまた、スマホゲームの一般化ってのも忘れてはいけない。FGO、ウマ娘、崩壊のスターレイル、原神……。街を歩けばいたるところに広告が目について、いいとした大人までもが普通にやっているよね。 でこの、スマホゲーってのも、ようはキャラクターで売っている。人気絵師が描いたイラストに、声優さんが魂を吹き込んだキャラクターをガチャで当てるために、いい歳したオトナが課金と称して金を使っている。 ほんとはさ、漫画もアニメも映画も、本質はキャラクターではないっていう建前だったはずなんだよ。本質は物語だって、みんな言っていたし、信じていたふりをしていたはずだよね。もう誰も、そんなことは信じていないけど。 っていうか「物語」って何? それっておいしいの? っていうのが、イマを生きている僕たち俺たち私たちの「本音」だよね。 Q「物語」と「キャラクター」って何がどう違うの? Aなにも違わない。同じ意味を別の言葉で表現しているだけ。 って、多分みんな、思っている。 そんな時代だから、「同志」は生まれたし、みんなに読まれた。サブカルチャーがどんどんキャラクターで売る方向に走っていく中、「いやそんなのは表現じゃねえじゃん。文学ってのはそういうのじゃないよ」って意地を張っていたメインカルチャーが、遂に観念して白旗上げて世に出したのが「同志」。  やっぱりさ。ソシャゲや百合アニメなのよ。「同志少女よ、敵を撃て」は。 私は、ソシャゲってFGOしかやったことないけど、セラフィマ達がサーバントとしてイラスト化されても、違和感って全く生まれない(全員アサシンかアーチャークラスかな)。 もしくはあれだ。「ぼっちざろっく」とか「ゆるキャン」みたいな、かわいらしい女の子キャラが多数出てきて、基本男がいないか極めて少数の空間で、バンド活動やったり、キャンプをしたり、南極を目指したりするようなアニメを視聴した後に感じるものってあるだろ。それに似たものを、「同志」からは感じる。 そういう「感じ」を与えるものを、小説にしてしまってよい、それも、独ソ戦っていう、リアルな戦争の歴史を舞台にしてつくってしまってよいのだってことが、もしかしたら私にとって、一番の衝撃だったのかもしれないな。「ありなのか。これは」 っていう驚きな。 多分Amazonの作品ページで、この小説をぶっ叩いた人たちの多くも、私と同じように驚いた人たちで、小説とか文学と呼ばれるものに対して、ちゃんと愛情を持っていたからこそ、許せないと感じたのだと思う。「私たちの大事な文学を、汚しやがって! 許せねえ」 って感じじゃない?  多分。 でも今、「文学」と呼ばれるものを、ものすごく大事に感じている人たちってのは、文学を読んでいる人たちの中でさえ、決してマジョリティーってわけじゃないよ。 多分。 だってぶっちゃけ、「文学」以外にも、感動できちゃうものがたくさんあるなんて、みんな知っているでしょ? 漫画、映画、お芝居にゲーム。私はゲームにはほとんど興味はないけれど、ゲームも好きで文学も好きって人は今時、珍しくもない。 そういう人たちの中には、当然、プロの小説家だってたくさんいて、だから「同志少女よ、敵を撃て」にはたくさんの作家たちが、絶賛の言葉をプレゼントしたのだと思う。 もしかしたらその中には、「別にこの小説、そんなに好きでもないけど、でも、これはたぶん今の時代に合った小説だから、褒めておけば自分の評価も上がるな」っていう、下心(?)込みで褒めた人もいたかもしれない。 やっぱり、人気作家と呼ばれる人たちって「時代」を把握する感覚、鋭いと思うからさ。 でこの「時代」ってやつはさ、私の見るところ、昔に戻っていると思うのだよね。 昔っつうのは、近代文学と呼ばれるものが生まれる前の時代の文学の形って感じかな。 人類の歴史ってのはさ、昔はさ、一直線に進歩するだけって信じられていたのよ。主に、マルクス主義的進歩史観ってやつでさ。それこそリアルだって信じた人たちが、セラフィマ達が守ったソビエト連邦を建国したり、それから世界中で革命だ革命だって騒いで、結果的に大勢人を殺してしまったり、まあ大変な時代もあったけど、ベルリンの壁がぶっ壊されてソビエト連邦が解体されて、共産主義っていう人類が最後に抱いたファンタジーがオワコン化して冷戦っていう長期連載作品が最終回を迎えた後、人類の歴史は、マルクスなんて高尚なものが生まれる前の、宗教やら民族やらで殺し合いをしていた時代に戻っちまったわけよ。ちょうど私が生まれた頃の話。 アメリカのでっかい双子のビルに、イスラム原理主義の人たちが飛行機をどーんとぶつけるなんてド派手なテロをやらかして幕を開けた21世紀も4分の一が過ぎようとしている今は、さらに昔に戻っているね。トランプ支持者の人たちが主張する、悪の組織DS(ディープステート)との終わりなきバトルって世界観なんて、昭和の特撮番組みたいな陳腐さだよ。アメリカをはじめ、ロシアでも中国でもインドでも欧州でもイスラエルでも、私の生きている極東の島国ニッポンでも、排外的・攻撃的なナショナリズムとマイノリティーへの差別意識と陰謀論とデマが、政治のメインプレイヤー。こないだの兵庫県知事選とか見てみなよ。「マスコミは信じられない!メディアは信じられない!」って叫びながら、TikTokやYutube動画は信じる人たちが、選挙結果に影響を与える時代になっている。「近代」っていうものを支えていた前提ってのが、今、崩れている。 最新のテクノロジーであるインターネットは、その主犯と言っていい。人類史上、かつてないほどに広範囲に、大規模に広がる情報の中に含まれる悪意と被害者意識をあおる嘘ってものが、大衆の行動を狂わせている。テクノロジーの発展が、人類を賢く、強く、進歩させるってのが、所詮ファンタジーに過ぎないってことは、例えばレイ・ブラッドベリが20世紀の頃に描いていたことなんだけど、最悪な形で予想は当たってしまったね。 もう誰も、「人類の歴史は、一直線に、進歩する」なんて、信じていない。 ルネサンスの頃に始まる、人間の知性への楽観的な信頼ってものが、いよいよ完璧に砕かれた感がある。 私たちの祖国に、二発のピカドンがドーン、ドーンと落とされたときから、そういう信頼ってのはだんだんと無くなってきたのだけどね。 もちろん、全体的に見れば、昔より今の方が、よくなっていることはたくさんあるよ?  今の時代に、LGBTQといった性的マイノリティーであることや、身体障害や知的障害や精神障害(発達障害)を抱えて生きることは、10年前やそれ以前の時代にそれらを抱えて生きることと比較して、ずっとマシな人生だ。その「マシ」な状況ってのを作り出している功績の多くもまた、インターネットのものだってことは否定できない。情報を低コストで、スピーディに、どこにいても入手できる世の中の恩恵を、一番受けているのが、発達障害者である私をはじめとする社会的弱者だ。 世の中ってのは、昔と比較してよくなっている部分もあれば、悪くなっている部分もある。「昔は良かった」とノスタルジーに浸ることも、「今が最高だ!」と思い込むことも、どちらも客観性と公正さを欠いた態度であることは変わらない。 客観性と、公正さを備えた、適切な答えはただ一つ。「世の中は変わるし、変わり続ける」 どんなものも、例外はない。 文学とか、物語とか、小説とか、そういうものも、例外じゃない。 そもそも近代文学って、なんだと思う? 私がものの本を読んで判断する限りでは、近代文学ってのが、そのずっと前に書かれた神話やら叙事詩やら、講談やらと一番違うのは、「もっともらしさ」や「リアリティ」を大事するってところかな。例えば「西遊記」なんかの小説と、村上春樹が書く小説や、宮部みゆきが書く小説は、やっぱりなんか違うわけだ。近代の小説家が西遊記のプロットを元に小説を書くことももちろんあるのだけど、その場合は言うまでもなく「近代小説として」西遊記を書き直すわけだ。登場人物の心情ってのを生々しく描いて、読者の心に迫ってくる血肉を備えた物語にするわけだ。 と、こういう雑なまとめ方を読んでら、文学マニアはキレるだろうな。ふざけるな、近代の文学の歴史は、そんなに単純なものじゃねえよ、てな。 そもそも近代小説と言ったって、例えばドストエフスキーの書いた小説と、高橋源一郎の書いた小説と、トマス・ピンチョンの書いた小説と、ポール・オースターの書いた小説と、野崎まどの書いた小説は、同じ小説だから似た部分だってたくさんあるけど、違う部分だってたくさんあるはずなんだ。だから純文学とエンターティーメント小説、ジャンル小説ってくくりはいまだに使われているわけ。 ドストエフスキーと言えばさ、私が中学生だったころに、「カラマーゾフの兄弟」の新訳Verってのが若者(当時)に受けて大ヒットしたってことがあったのだよね。 でもさ、私は、あの長大な小説を読んだ若い人たちの内で、あの小説の「ストーリー」を正確に理解して覚えた人って何人いたのだろうなって今でも疑問だよ。何しろ、長いうえに入り組んでいて、宗教や哲学の難解な問答がやたら多いんだ。私は一応読んだけど、内容を正確に答えられるかって言ったら厳しいよ。 横暴な親父がいて、その息子たちのうち長男は乱暴者で、次男は根暗なインテリで、三男はゾシマ長老っていう聖職者を慕う優しい奴で、それぞれ人間関係があって、親父は他にも私生児を作っていて、神様とか救いとかの話をした後で、その親父が誰かに殺されちまって、ゾシマ長老も死んでしまって遺体から匂いが出たことで大騒ぎになって、長男が美女としけこんでいるところを逮捕されて裁判になるのだけど、結局犯人は俺だって私生児が自白して、でも陪審員の農民たちは長男に有罪判決を下して、三男は子どもたちを連れて野原に駆け出してゆくとか、まあそんな感じの「ストーリー」だったことは覚えている。 書いてみて気づいたが、なんか、ほとんど筋は覚えていないのに、キャラクターがどんな奴だったかってことは、ある程度覚えているのだよな。多分、あのブームの時に読んでいた兄ちゃん姉ちゃんたちも、ストーリーよりもキャラクターのことを覚えていたんじゃないか? ドストエフスキーの時代は、まだ、「キャラクター」というか、強烈な人間がいて、その人間たちを見せればそれが面白くなるってやり方が、当たり前だったのかもしれない。ただ、どうも私の見る限り、その後の文学の歴史ってのは、キャラくとーとか人物とか、それからストーリーってものを、解体したり再構築したり、疑ってみたり者に構えたりしながら、100年の孤独を耐えてきた感じなのだよな。「同志少女よ、敵を撃て」の文庫版の巻末解説を、高橋源一郎が書いているのだけど、高橋自身の代表作である「優雅で感傷的な日本野球」や「ゴーストバスターズ」を読むと、頭がくらくらしてくるよ。あーゆーのがポストモダンっていうらしいけれど、「小説ってこういうものでしょ?」っていう読者の思い込みを、まあぶっ壊してくれる小説だよ。 それから、ピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」とかジョイスの「ユリシーズ」とか、今年文庫化された「百年の孤独」とか、まあ私はここ数年、文学の世界で名作と呼ばれているものに見境なく手を伸ばして、実は大半最後まで読み通せずにBOOKオフに売っちゃったのだけど、文学の世界ってのは実に多様で、本を読まないでいる人が想像しているよりもずっと変なことを沢山してきたのだよなってことだけはわかったよ。 で、そんな新機軸をやりつくした後に、気が付いてみれば、世界的には昔ほど、文学ってのは読まれなくなっているわけだ。「ハリー・ポッター」が世界中で売れて映画化までした時に、日本の斎藤美奈子とか豊崎由美っていう書評家先生がたが「なんでこんなのが売れているの?みんなこれの何が面白いの?」って書いていたのだけどさ、変なこともやりつくされてしまったあとでは、保守的な、それこそ近代小説が生まれたばかりの頃みたいな、いっそ昔の講談に近いようなものが、結局は求められるようになったってことじゃないかなって。いろんな文学を読みつくしてこじれた書評家の方には、そりゃどこが受けたのか全然わからん代物だろうけど。「同志少女よ、敵を撃て」を書いた逢坂冬馬はさ、小説を書き始めたのは大学を卒業した後で、書き始めたときに参考にしたのは古典だそうだけどさ、確かに「古い」って感じも受けるんだよ。だってシンプルだからさ。ストーリー自体は、要はかたき討ちの話で、冒険譚で、主人公は戦いを通じて成長する。その構図はびっくりするほど既視感があって、テンプレートの塊なんだ。 でも一方で、例えば今時のソシャゲとか、アニメとかを見た時のような、キャラクターがわちゃわちゃしている面白さってのもある。「古い革袋に新しい酒を入れた」ってのは、こういうことを言うのかな。 文化って、結構こういう発展の仕方をするのが普遍的。私の好きな特撮番組の世界だと、平成仮面ライダーシリーズってのは、昭和から続く特撮の伝統に対して明確な「アンチ」的なものとして、リアルさの徹底や勧善懲悪の否定ってところからスタートしたのだけど、いつのまにか24年もシリーズを重ねていく中で、また正義のヒーローがかっこよく活躍して、悪者をやっつけるって構図の話を毎年当たり前のように放送するようになった。 といっても、まるっきり昔に戻ったわけじゃない。変なこと、新しいことをやっていた時期に蓄積していたことっていうのは、ちゃんと今も受け継がれている。 文化ってのは、世の中と同様に、一直線に進歩していくわけじゃない。捨てたはずの古いものがまた戻ってきたり、同じところをぐるぐる回ったりしながら、歴史を積み重ねてゆく。 大体「文学」っていうジャンルに限れば、もはや、純粋に小説という形式でしか存在することを、許されないものになっている気がするね。「同志少女よ、敵を撃て」は、今月、漫画版が発売されたわけだけど、一面では、漫画化されたり映画化されたりするための「原作」となるためにしか、小説には存在意義はないんじゃないかって気もするのだよな。もっと正確に言うと、漫画になったり映画になったりゲームになるような、つまり他のメディアに移植可能な「ストーリー」としての面白さがあることが、小説として優れていることよりも重視されるようになってきたってこと。いわば今の時代で「文学」として成立するためには、小説という形で限定されずに、漫画なりゲームなりに姿を変えられるような、アメーバのような不定形の存在であることが不可欠になってきたのではないかと。 結局それって、ラノベなのだよな。ラノベって本質的に、「漫画の原作になるために」「アニメの原作になるために」書かれる小説っていう側面がある。そこでは実は、小説としての完成度を担保する文章力よりも、キャラクターが重視される。だって、良い文章を映像で表現することは不可能だけど、キャラクターは映像媒体でも再現可能だからな。 大胆なことを言ってしまえば、純粋に単独の芸術ジャンルとしての文学ってのは、もう「無い」のではないだろうか。少なくとも、2010年代以降、日本社会で注目された「物語」ってのは、みんな漫画だったよね。 進撃の巨人 東京喰種 鬼滅の刃 チェーンソーマン どれも、高原到の「戦争論」で、「同志少女よ、敵を撃て」と一緒に並べられていた作品だ。 で、世界に目を向ければ、○○マンとかキャプテン〇〇とか名乗る、奇抜なコスチュームに身を包んだ兄ちゃん姉ちゃんたちが空を飛んで戦う映画が、10年近く席巻していた。 本来、「近代小説」ってやつに求められていた「もっともらしさ」ってものは、そこにはない。 じゃあ何が求められているのかっていうと、キャラクターだ。そしてそれは、近代が始まるはるか前、人類の歴史の始まりの頃から求められていたものだ。 神話の英雄だったヘラクレスやらヤマトタケルやらアーサー王やらが、今はキャプテンマーベルやらバットマンやらアルトリア・ペンドラゴンに変わったなどと書いたら、大げさだろうか。 現代人、もう昔みたいに直に神様を信じることなんてできないから、マーベルヒーローやラサーヴァントやらウマ娘やらで納得しているんだろうな。でも歴史を見れば、そう言う時代の方が長かったってのも確かだ。「競売ナンバー49の叫び」の主人公の名前よりも、「西遊記」の孫悟空や、シャーロック・ホームズの方が、知られていただろ。 結局みんな、小難しい筋なんかよりも、思わず応援したくなるようなキャラクターを好きなだけなんじゃないかって話。近代に入ってからは、頭の良い人たちが「小難しい話」を頑張って作って喧々諤々議論してきたわけだけど、もうそういうのはやりつくしてしまって、いよいよもって文学の果たす役割も、「キャラクターを作ること」だけになってしまった……ってことか? 結局みんな、キャラクターが好きなだけなんじゃないの?  

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