第五十二話 不快の地図

 調香師学校に入って気づいたのは、香りの仕事を目指す人の多くが、昔から香りに魅せられてきたということだった。

 

 だから、動機について問われたとき、彼は少しだけ口角を上げて、こう答えるようにしていた。


「ぼくも、だいたい皆さんと同じ理由です」


 嘘ではないが、本当でもない。香りに惹かれたをすることが、一番合理的だった。

 

 彼は、もともとにおいが好きではなかった。

 彼にとって、世界は不快なものだった。




 朝。洗いたてのコップから立つ、濡れたスポンジと水道管の金属臭。生乾きのタオルに染みた、皮脂と柔軟剤が発酵したにおい。床にこぼれたミルクの酸味。


 ――ミルクは嫌いだった。膜が舌の奥に貼りつくにおいで、息を吸うだけで喉が閉じようとする。冷蔵庫の中のにおいと混ざると最悪だった。



 昼。教科書に挟まったプリントのトナー臭。自分の靴の中の蒸れと、隣の子の汗が混じったにおい。クラスメイトの服に染みついている洗剤の残り香が空中で揉み合う。


 ――柔軟剤に混ざった香料に、頭が締めつけられた。こめかみの裏がじんじんする。嗅いでいるうちに、後頭部がぬるくなる感覚がある。やがて何も感じない〝空白〟が訪れる。自分の中の何かが死んだような、その瞬間が怖い。



 夕方。排ガスと揚げ油の酸化臭がアスファルトに落ちている。ビニール傘の骨のあたりについた手垢が濡れたときの生臭さ。犬の毛に絡まったダニ防止スプレーの合成レモンと、死んだ皮膚がぶつかり合う。濡れた体毛と肛門腺のにおい。


 ――動物のにおいはえづく。鼻の奥に入った瞬間、胃が拒絶して喉を閉ざす。水中で息を吸おうとしたときのような、熱い泥を流し込まれるような、逃げ場のない不快感。



 夜。ゴミ箱の蓋を閉めても立ち昇る、腐った果物の皮と濡れたティッシュ。枕の裏に染み込んだ頭皮と洗剤の混ざった発酵臭。風呂あがりの古びたボディソープが残す、温く甘ったるい化学的バニラ。


 ――バニラがだめだった。常温の脂と粉砂糖を混ぜたような、甘いのに生臭いにおい。風呂の湯気と混ざって窒息しそうになる。今でも、少し身構えてしまう。このにおいのせいで、風呂に入るのが億劫だった。



 空気すら、信じられなかった。


 どのにおいも、「これはこういうにおいだ」と思う前に、身体の奥が悲鳴を上げていた。


 強すぎるのではない。近すぎるのでもない。ただ、わからなかった。


 何が来て、どこへ向かうのか。判断する前ににおいが身体に侵入してくる。皮膚の裏に。呼気の奥に。胃の端にまで。


 顔を背けても、鼻の奥はにおいの残骸を舐めるように反応する。


 逃げ道が、なかった。


 意味を持たないものに包囲されるというのは、これほど恐ろしいのかと思った。


 幼い頃の彼は、ほとんど抵抗できないままにおいに呑まれていた。においが身体に入りすぎると、すぐに胃の中身が逆流した。


 子どもが吐くのは珍しくない。だが、嘔吐の頻度があまりにも多すぎたため、一度、病院に連れて行かれたことがある。


 検査の結果に異常はなかった。大人たちはみな一様に首を傾げたが、安堵もしていた。

 

 だが、彼にとってはそれが一番こたえた。

 

 病気なら、説明がつく。治療の対象になる。

 でも違ったのだ。医師の言葉は、世界の不快さがだと告げる宣告だった。


 ――これは一生、治らないんだ。


 その日の夜、気づいてしまった。

 吐いたもののにおいが、いつも違っていることに。


 ちがう。違う、違う、違う……全部違う。

 じゃあ、一体どれが正しかったんだ?


 わからない、ということが怖かった。

 たったひとつでも、同じにおいが残っていれば、自分をつなぎ止められたのに。


 でも、すべてのにおいが、毎回違う。


 どうして? 何が? どこから? どこへ?


 答えのない問いだけが、胃液のあとに残された。


 世界は全部違う。

 自分の中のことさえ、何もわからない。




 ……これは、胃酸と混ざったポタージュ。これはタルトタタンの焦げ砂糖。これは……これは、知らない。


 どれも、胃の中で変質して、吐き出された瞬間に別の香りとして立ち上がる。腐敗とも違う、湿った甘さや酸味。酸素と交わった食物の記録。


 えずきながら、鼻だけは冷静だった。


 昨日のよりは酸が強いな。塩気は飛ぶのか。温度が違うのか。胃酸で喉が焼けていくのを感じながら、「なぜこうなった?」と考える癖がついていった。


 慣れてきたら自分から出したほうが楽になると気づいて、指を口に突っ込んで吐いた。手のひらの、人差し指の付け根のあたりはあっという間に傷だらけになった。


 苦しかった。嘔吐物のにおいを分析するようになったのは、そうでもしなければ世界に押しつぶされそうな気がしたからだ。


 その日、吐いた瞬間に立ち上ったのは、昨日の鶏のクネルに使われていたナツメグだった。

 いつものように床に手をつきながら、ふと、こんなことを思った。


 においには、意味があるのかもしれない。


 口から出たものの中に、食べたものの記憶が残っている。そのにおいには、因果と理由がある。自分の中を通ってきたものが、記号のように空気に浮いていた。


 不快のど真ん中で、彼は初めて、においを〝読む〟という視点を持った。

 香りを読む。それは、記憶を覗き込むことでもあった。そして、においは侵略ではなく〝記録〟なのだと気づいた。




 調香師である祖母に引き取られることが決まったとき、においに溺れながら息をしていた彼には、何か導きのように思えた。

 

 祖母は言った。


「ちょうどガキの居候が来る予定だからな。もう一人増えたって変わらないさ。話し相手を用意したかったとこだ」


 親元から離れることになっても、彼は一週間のホームシックを終えてすぐペルジャンに馴染んだ。子どもというのは、他人の事情に順応するのが得意なのだ。

 そして、彼には姉ができた。



 初めて祖母のラボに入った日、彼は衝撃を受けた。瓶の中に世界が詰まっている。においが、閉じ込められている。それが何百とある。


「閉じ込められてる。近づいても襲われないんだ」

 と思った。


 そして、こう思った。

「逃げたくても逃げられない。ぼくも同じだ」


 だが、逃げる必要はないのだ。

 香りに〝居場所〟があることを、初めて知った。



 調香。

 においを逃げ場のない圧力としてでなく、分析できるものとして捉えられる技術。


 ラボに興味を持った彼に、祖母は箱いっぱいの香料を譲ってくれた。もう使わない私物だとそっけなく言っていたが、今ならわかる。そのほとんどが封も開けられていない新品だったことを。

 

 彼はすぐ、香りづくりにのめり込んでいった。

 

 自作の調合アコードを詰めた遮光瓶を、彼は必ず左から順に並べた。

 アルデヒド。ハーバル。フローラル。ベース。

 言語のように。時間のように。


 瓶の並び順が狂うと、呼吸がずれる。

 順序は身体の拡張だった。香料を並べ直すことで、内部の乱れを補正していた。


 瓶のラベルがわずかに曲がっているだけで肺が順序を忘れたように息苦しくなった。


 彼は香料を試すたび、自分の壊れる手前を探した。

 香りが視界を歪め、脈を乱し、骨の奥を撫でる瞬間。そのギリギリまで身体に入れてから、許容量を逆算した。

 破壊されそうな瞬間にだけ、正確な値が出る。

 それが彼の計測方法だった。


 そのたびに彼は香料を垂らし、筆記した。

 調合を繰り返した。


 あるとき、失敗作ができた。

 スミレを中心に据えたはずの香りが、どうしても甘ったるく、こもってしまった。

 すぐ捨てるつもりだったが、ほんの数滴だけ残しておいて、ベチバーを加えた。

 土の香りが、甘さを引き締めた。地中の水脈を探るように沈み、香りに時間が生まれた。

 彼は数秒、そのムエットを見つめていた。

 息を吐き、小さく笑った。

 こういう補助もあるのかと、初めて知った。


 その夜、彼は自分のノートに、鉛筆で一文を残した。


「不快だと思われている香りも、足したり薄めたりすると素晴らしい補助をしてくれる」


 それ以来、彼は嫌いな香りを避けるのをやめた。

 嫌悪は手がかりだった。

 

 汗や糞尿のにおい、腐敗臭、それすら調香の一部にできる。

 

 ――イソ吉草酸。

 酸っぱい汗のにおいだ。最初は鼻孔より先に胃が反応した。舌の裏に酸が突き刺さる。百回嗅いだ。許容量の限界を身体に記録した。最後には濃度を調整しながら、自分の肌に試香した。敵の領土に足を踏み入れたとき、初めてそれは――体温の温かさになった。


 ――スカトール。

 糞そのものだった。初回は開けた瞬間に吐いた。瓶を締めることすらできなかった。マスクを二重にしても鼻の奥が焼け、涙が出た。試香紙にごくわずかだけ落として、濃度を落として、五日目にやっと感じ取った。

 春の、ミモザだった。

 許せなかった。だから惹かれた。


 ――メルカプタン類。

 金属の腐敗。死体の揮発。脳が「これは食うな」と叫ぶのに、片隅にチーズがいる。自分の記憶のほうを疑った。熟成の浅いチーズを買ってきて、わざと腐らせて並べた。

 違う。だが、近い。

 香料としてのこいつは、「制御された死」だった。

 ppm単位で可視化してやった。ブレンド比を定め、他の香料で封じ込め、名を与えてやった。

 それはもう、恐怖ではなくただの記号だった。自分の支配下にある、死の補助線だった。


 恐怖に慣れる必要はなかった。

 香りを好きになる必要もなかった。

 ただ、命名し、配列し、支配すればよかった。


 香りはただの現象だ。名前を与えられ、役割を割り振られたとき、敵ではなくなる。


 それが、調香だ。

 世界を怖がる理由はもうない。

 

 彼は、においによって失いかけていた自分を、香りによって取り戻した。香りを記録することは、自分の内側を読み解き直すことだった。


 ……だから、他者の呼吸すら秩序に組み込みたくなってしまったんだろう。


 ジャックはようやく、自分のこれまでの調香のあり方を、言葉に起こした。


 香りを、空間を、感情を、構造とみなして切り分けようとした。


 印象を支配したいなら、アルデヒドを先頭に。

 人を焦らせたいなら、ミドルにだけ香るローズを。

 記憶に残したいなら、ラストにアンバーを仕込む。


 そうやって、香りで空間と人の位置を「設計」する知識が、彼の内側に蓄積されていった。


 他者を理解し直す。捉え直す。座標を与える。

 世界に呑まれそうなとき、自分の位置を確かめるために。


 香りの仕事を目指す人の多くは、香りに魅せられた者たちだった。

 だが、彼にとっては違った。

 ジャックは、調香を学んだ。それは、かつて自分を追い詰めた香りを、制御するための技術だった。


 香りに〈反撃する〉という発想だけが、彼を生かしていた。

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