第四十九話 癒さないでくれ

 ネファスト・ノブレサントの香印が初めて発現したのはあの日だった。シニストル・メモアロームを、香りとして自らに取り込んだとき。


 その香印は、〈保存〉と分類されるにふさわしいものだった。


 シニストルの記憶も、感情も、人格の細部までもが、まるで魂ごと封じ込められたかのように、ネファストの内部に沈殿していた。


 それは〈癒し〉の暴走による同化とはまるで違う。

 〝他者〟を丸ごと保持したまま抱え込む、異常なまでに強靭な〈保存〉だった。


 だがその力は、かえってネファスト自身の存在を薄めていった。

 もともと彼の香印は、記録にも残らぬほど微弱なものだった。〈保存〉の発現は彼に強い力を与えたが、同時に、彼自身と〝それ〟との境界線を徐々に侵食していった。


 だから彼は、香料を作った。

 内に取り込んだ〝それ〟を外に取り出すために。

 自分自身ネファストとシニストルとの境界を、どうにかして識別し続けるために。


 ――あるいは、もっと単純な理由もあったのかもしれない。


 忘れたくなかったのだ。

 シニストルが確かに存在していたということを。


 後に〈キャプティブNo.882〉と記録される香料が生まれたのは、それから一年後のことだった。


 No.882は、やがて限定的ながらも流通するようになる。

 交感神経をゆるやかに抑え、ストレス反応を緩和する香りとして。穏やかで、やさしく、癒しをもたらす香料として。


 かつてシニストルがそうであったように。

 癒すことに苦悩しながらも、誰かを癒すことを生きる理由にしていた、あの〈癒し狂い〉の記憶を継ぐものとして。


 No.882は、存在の証明であると同時に、遺言でもあった。


 だがその香りは、やがてシニストルの最期をなぞるように変質する。他者の境界をどろどろに溶かし、内側から殺そうとする、そんな恐ろしい香料に成り果ててしまった。




 ***


 実験室の空気が焼けていた。焦げたラベンダーが喉を刺す。


 ネファスト・ノブレサントの表情には、勝者の安堵も、敗者の苦悶もなかった。何かを抑え込むような静けさが顔の上に貼りついていた。

 彼は、血色の良い唇でゆっくりと言葉を吐いた。


「癒されたんだ……完璧にな」


 平坦な声だった。誰かの言葉をなぞるような抑揚のなさだった。


「私が生きているのは〝あれ〟を受け入れたからだ。選んだのは、私だ。シニストルを、自分の一部として取り込んだ」


 ネファストの声が、どこか遠くに聞こえた。怒りよりも、恐れが先に喉を突いた。


「……おまえが、殺したのか」


 ネファストの目がかすかに揺れる。


「いや。……


 瞬間、サーベルが閃いた。

 怒りの行き場を求めるように、グラントは沈黙のまま踏み込んだ。

 以前より荒い剣筋だったが、ネファストは避けなかった。


 刃が胸部を貫く。

 香気が爆ぜ、焦げた甘さと、薄く漂う鉄の苦味が空間に染み出す。青臭い蒸気が、焼けた鉄をなめるように立ちのぼる。


「……宿主から解き放たれた〈癒し〉は、手に負えない。野放しにしていれば、あの場にいた全員が……おまえも、死んでいただろう」


 グラントの顔が歪む。

 怒りではない。彼の言葉を自分自身に対する苛立ちだった。


 ネファストは、胸に刃を立てたままふらりと前へ出た。支えを失ったような、浮くような足取りだった。


 その指先が、彼自身の頬に触れた。小さく震えている。何かを思い出そうとしているのか、それとも忘れようとしているのか。


「笑っていたか? 痛がっていたか?」


 誰への問いかけかも不明なまま、ネファストは唐突に笑い出した。


「いけない。またズレた。これは私の記憶じゃない……」


 その異様さに、グラントは思わず後ずさる。


「おまえ……どうなってる」


「癒した。また癒した……」


 それは報告でさえなかった。反射的な反復、あるいは再生された命令。

 ネファストの意志なのか、それとも別の〝何か〟なのか、グラントには判別できなかった。


「……やめろ」


 グラントの声が漏れる。


「癒さないでくれ。……頼む。それはもう、〈癒し〉じゃない」


 ネファストの眉根がわずかに寄る。


「……それは……聞いた。いや……違う。誰が……?」


 浅くなる呼吸をごまかすように手を胸元にやる。そこに突き刺さっていたサーベルを、ずるりと引き抜く。

 瞬間、膜を破るかのように、熱を含んだ香りが剥き出しになった。


 サーベルを抜いたネファストの腕が力無く下がり、切先が床を叩く。


 香りを知覚した瞬間、時間の感覚がねじれた。目の前の男が何者だったか――顔立ちすら曖昧になる。


「やめろ……やめろ、ネファスト!!」


 グラントが叫んだ瞬間、香印は音にならない悲鳴を上げた。


 香調が崩れた。ラベンダーの甘さに、焦げた皮膜のような、べたついた苦味が混ざる。

 次いで、音。

 実験器具が不自然に震えた。

 ガラス器具がひとつ、ふたつと何の前触れもなく砕ける。


 それは〈癒し〉ではない。

 秩序への強制的回帰。

 存在を〝あるべき姿〟に再設計せよという命令。


 他人の理想に最適化される。かつて癒された誰かの幸福像を押し付けられる。心も体もその枠にねじ込まれ――壊される。


 ネファストはその場に立ち尽くしていた。


「癒すな。私を、もう、癒さないでくれ……」


 それは懇願だった。

 どうしようもない哀願だった。


 傷ついたそばから癒されれば、もう壊せない。

 この痛みこそ、自分自身だったのに。

 癒しは、それすら奪う。

 私が誰であったか、もう、自分では証明できない。

 壊れたままでいい。せめて、私のまま終わりたい。


 それは祈りに似ていたが、願いではなかった。

 癒されずに残り続けた痛みが、ようやく声を持っただけだった。


 破滅への希求ではなく、拒絶だった。

 癒しに塗り潰されることを拒み、自分がまだここに在ると訴えるための――痛みを拠り所とした、最後の抵抗だった。

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