第五十話 私だけになる

 ネファストの香気が、かつてシニストルを満たしていたものと同一化する。どこまでを自分の意思と呼べるのか、もうネファスト自身にもわからなくなっていた。


〈癒し〉が殺意を持って建物全体に牙を剥く。

 音よりも速く空間を変質させていく。

 再生と分解が、同時に起こる。


 実験室の柱が引き裂かれるように崩れ落ちる。壁は膨らんでは萎み、肺のように呼吸する。床材は沈み、内側から張り替えられる。

 ガラス瓶が溶け、器具が泡立ち、管が喉のようにうごめく。


 あるべき姿を強制されて歪んでいく。

 建材を殺していく。


 瓦礫の隙間から、焦げたラベンダーがわずかに漂っていたが、もはや香りとは呼べなかった。存在の断面に貼りついた、ただの痕跡だった。


 すべてが燃えた。空気は一転して、死の手前で凍りついたような静寂に満たされていた。


 その中心で、〝彼〟は微笑んでいた。両腕で自分の身体を抱えるように横たわっている。皮膚からは


「……これが、〈癒し〉の正体だよ。グラント」


 ぐったりと倒れた身体から発せられる声に、グラントはわずかに眉をひそめた。


「……。シニストル」


「なに?」


 こともなげに肯定されて、グラントは言葉に詰まる。


「……おまえは、それで良かったのか」


「本気で聞いてるの、それ?」


 その声は、記憶の中と変わらないように思えた。理知的だがどこか甘えていて、世界を憂いながらも結局はその内側に飛び込んでしまう。そんな奴だった。


「ネファストの香印でなければ、僕は……。でも──」


「おまえは誰も殺さなかった。ネファストもな。それが事実だ」


 倒れた身体がかすかに震えた。


「〈癒し〉を止められたのは……。僕を救えたのは、たぶんネファストだけだった。そう思ってしまったんだ。だから、彼には、生きて欲しくて……」


 グラントの脳裏に、シニストルを見送った最期の記憶がよみがえる。今ネファストの中にいるのは、あの時のシニストルだった。


「救われたかった……本当に……」


 その言葉で、グラントは悟った。ラベンダーの匂いはもうほとんど消えかけていた。


(おまえはもう、どこにもいないんだな)


 これは再会ではない。再演でもない。永遠の別れは、とうに済んでいた。

 なればこそ、このシニストルを受け入れるわけにはいかない。


「やめろ、。おまえはネファスト・ノブレサントだろ」


 グラントの声に呼ばれるように、シニストルの面影がその瞳からふっと消えた。ネファストの眼差しが現実に戻ってくる。

 彼の視線が揺れる。自分の口が何を喋ったのか、徐々に自覚してきたようだった。


 ネファストがかすかに肩を揺らした。笑いか咳か判別できない音が、乾いた喉の奥から漏れる。

 発せられたのは、抜けきった声だった。


「ふざけた話だな。癒されないだけで、こんなにも……」


 そこまで言って、ネファストは目を閉じる。


「……それで満足かよ」


 グラントの声は掠れていた。


 返事はない。

 ラベンダーの香りは、もうしない。

 馴染んだ残り香を、脳が探しはじめた。空気を吸い込み、肺の奥まで押し込んだ。だが、何もない。肺は空のままだった。


 シニストルの香りはもう、世界に存在していなかった。それにもかかわらず、失ってなお香りの亡霊を追ってしまうその癖だけが、自分の中に残っていた。


 グラントはゆっくりと前へ歩き出した。崩れた床を踏みしめ、落ちていたサーベルを拾って、静かに鞘へ収める。


 その足元で、微かに香りが揮発した。だがそれは、存在の裏側に残る余白のようなものにすぎなかった。


 焼けた左腕が痛む。だがその痛みが現実を繋ぎ止めていた。グラントの心の奥底に、ひとつの感情が浮かぶ。


(ようやく、少しだけ、赦せるのかもしれない)


 赦せないはずのものは、もう何も残っていなかった。すでに壊れていた。憎しみも、怒りも、行き場を失っていた。


 倒れたままのネファストが、静かに口を開いた。血の混じった吐息が乾いた空気に散る。


「何も残らなかった。支配も、祈りも、香りさえも……」


 声は震えていたが、言葉は真っ直ぐだった。

 ゆっくりと、瞼が開いた。


「……壊せなかった。〈癒し〉の香りが私のすべてを満たしていた。満ち足りていた」


 吐き出すように、かすれた声で続ける。


「空っぽだ。私だけ。もう、私だけだ……」


 その言葉は、静かに発揮するように、空気の中へと消えていった。

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