第三十七話 檻の中

 冷えるな、とネファストは思った。冬の気配は、窓のない部屋にも確かに入り込んでいた。


 沈黙を踏み抜くたび、少年の身体はわずかに震えた。

 少年は、壁際に腰を下ろしていた。髪は乱れて、白いシャツには埃がついている。


 オブリエ・ノブレサントの香りを引き戻す、調香師。


「こんばんは、ジャック・ローラン」


 ネファストは、礼儀としての微笑を貼りつけた顔で少年を見下ろした。彼の表情には怯えたような色が浮かんでいたが、取り乱しはしなかった。


「ネファスト様……」


 そう言う声が、わずかに震えている。ネファストはその姿を正面から見下ろした。


「身体に異常はないか。あの女の香印をあれほど浴びて無事で済むとは思えんが。……呆れたものだ。調香師にはそこまで香印が効かないのかね」


 少年は表情を凍らせたが、やがて唇を震わせながら息を吐き、黙ってネファストを見上げた。

 ネファストは酷薄な裁判官のように少年を見下ろしながら、静かに問う。


「お前は何者だ。どのように自分を定義している」


 しばらくの沈黙。


「……調香師です」


 少年は俯きながら答える。

 静かな口調だった。懺悔のような静謐さがあった。


「お前が作った香水は、オブリエの香印を回復させつつある。香印を〝変える〟香りを創るお前の存在は、芳主の秩序を揺るがしかねない」


 組んだ手をわずかに握りしめながら問いかける。

 その問いに、少年はしばし沈黙した。何を言っているのかわからない、という表情のようにも見えた。


「これだけは聞いておかねばなるまい。――どうやって、香印を再現している?」

 

 これは、ネファストにとって自分のための問いだった。少年は、少しだけ瞬きをして、静かに答えた。

 

「再現は目指していません」

 

 ネファストは一瞬だけ目を伏せた。


「……戯言だな」


 次に顔を上げたとき、その瞳には怒気の色はなかった。ただ、冷たい霧のような静寂だけが宿っていた。


 少年はネファストをまっすぐ見据えて、断言した。


「オブリエ様は、自分で、帰ってきたんです……ぼくが引き戻したのではありません」


 ネファストは目を細めた。主張はわかった。だが、それは納得を意味しない。


「それでは、お前は一体何をしている」

 

「ぼくはただ、選んでもらう……選んでもらいたいだけです」

 

 一語一語、丁寧に語られるその声に、ネファストの眉が僅かに動いた。

 

 選ばせる香り。


 命令ではなく、支配でもない。

 香印ですらない。

 それでも、確実に効いている。


 変えられるのではない。自分の内側が、自ら変わるのだ。

 自身の意思を介してのみ作用するよう、心の深部に向けて調律されている。


 そんなものが存在するなら――制御できないならば、それは毒と変わらない。


 そんな香りを設計できる者が、いる。


「……それは、支配を超えている。オブリエはずいぶん優秀な調香師を見つけたものだ」


 少年は戸惑ったように眉を寄せてネファストを見上げるだけだった。

 ネファストは意に介さない。


「私の調香師も優秀だった。求めたものを何も言わず差し出す。私の心を読み取ったかのように」

 

 少年はまだ、反応を見せない。


「緑の茎と、未熟な果実とが混ざった、怒りとも無関心ともつかない香りだ。あれは本質を突いていた。私自身が気づかないうちに、定義されていた」


 ネファストは続けた。


「ああいう者が〈香印の管理者〉に相応しい。お前も、いずれそうなるだろう。今まで何人もの調香師に会ってきたが、君の職能は、あれらと遜色ない」


「ぼくには、そこまでの力は……」


「お前が創った香水は、アイデンティティを突きつける。そういう香りを、調香師は作るのだ」


 ジャックの目が、少しだけ泳いだ。


「〈匂いの定義〉は、調香師の責任だ。そうではないかね? 匂いそのものである私たちは、お前たちのおかげで、今日も自分を見失わずにいられるのだよ」


 少年は顔色ひとつ変えず、沈黙を選んだ。


 やはり、とネファストは思った。

 反応が鈍い。言葉を持たないわけではないのに、深く語ろうとしない。

 この様子に覚えがある。


 マリスの香印――〈共感きょうかん浸潤しんじゅん〉に曝露したものによくみられる受け答えだ。


 彼女の香印は、感情そのものではなく、共感したという感覚を与える。

 その共感に溺れた者は、自分の深層に〈真実〉を見出す。たとえ曖昧な罪責でも、それが〈共感された〉という実感によって、否定不可能な記憶として上書きされる。


 そうなれば、自己判断は不要になる。

 問いに答えることも、選び取ることも、すべて「すでに受け入れられた」という構造に呑まれる。

 

 この少年の中で、判断という行為そのものが、静かに消えつつあるのだ。

 

 だが、あれほどの出力を出してこの程度だと考えると凄まじい。感応系の香印保持者にとって、調香師は天敵に違いない。

 香りを理性で受け止められる相手に膝を折らせるのは、苦戦するだろう。

 

 それでも膝を折らせたなら――調香師の言葉さえも奪い去ることができるのならば、あの香りは本物だ。

 

 ネファストは、深く息をついた。

 

 この少年がもたらしたのは、支配を崩す革命ではなかった。

 たった一人の存在証明。ひたむきな存在の肯定。

 

「それでも……ぼくは、〈認識拡散〉を作らないと決めています。それは、香りではありません。彼女自身ですから」

 

 沈黙が落ちる。

 ふと、ネファストの鼻腔を何かがかすめた。


 香り――ではない。

 

 空気の層が、一枚だけ逆流している。

 

 ジャック・ローランの身体からは、何ひとつ匂いはしなかった。香りが意図的に底へ沈められている。

 

 何もないはずの空気が、肺の奥で毒のように重たく沈んでいく。吸えば吸うほど、肺の奥で何かが沈む。空気に取り込まれた思考が、静寂に削られていく。


 ネファストは動かなかった。


 誰にも祈られなかった身体。その沈黙の奥で、祈りとは別の論理が根を張り、芽吹こうとしている。香りの規範の内側から、秩序そのものを書き換え始めている。


 ネファストは、敗北を知覚した。

 意志によって動かされず、信仰によって正当化されず、それでも確かに在るもの。


 それは、支配の前提――不安と空白を必要としない。


 ただ在る。

 それだけのことが、支配の構造をいとも簡単に崩壊させる。


「……お前のような調香師は、生かしておくべきではなかった」


 背を向けたままのその姿に、殺意はなかった。

 そこにあったのは、支配者が恐れを学ぶ瞬間――敗北の静けさだけだった。

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