第三十八話 再演と停滞

 ネファストが足を踏み入れたとき、灯りはすでに落とされていた。

 だが、完全な暗闇ではなかった。温室中央に据えられた収容槽が、内側から淡く紅く光を放っていた。その光に照らされて、床のタイルがぼんやりと赤く滲んでいる。


 ネファストは作業台へ向かいながら、白衣の袖をひと折りする。ガラスの小瓶を並べ、温度計と試薬を整え、最後に自らの呼気を抑えるための無香マスクを装着する。


 収容槽の中には、根が絡み合うように広がったケレンワートが群生していた。

 赤黒く染まった葉はすでに最大まで成熟しており、表面がわずかに艶を帯びている。


 ケレンワート。

 元は黄緑色の地表草本だ。根が中空構造を持ち、液体を吸収・保持する。水だろうが、香料だろうが、血ですらもお構いなしだ。吸ったものに応じて、葉や根は赤く、時に黒く、あるいは光沢を放つ金属のように染まる。

 吸収した香気が、植物の臓器そのものとなる。

 いったん中空を満たされた個体は、その〝内臓〟ごと繁殖する。根を断たねば、複製は無限に続く。この異常な保存性から、香印の〈保存〉に用いられる。


 吸ったものの記憶を、根に溜め込み、形すら変えてしまう。


 まるで私のようだ、とネファストは自嘲ぎみに思った。


 彼は収穫鋏を手に取った。鋏はよく研がれており、音はほとんど出なかった。

 慎重に葉を一枚ずつ摘み取る。

 滴る体液を受けるため、足元には冷却トレイが置かれていた。葉を落とすたび、滴がガラスに触れてぱちりと跳ねる。


 葉から香りを、幹から導管液を、根から浸潤香を分離抽出する。


 香料抽出室の奥には、抽出用の減圧装置が用意されている。だが、今日の抽出はそれでは足りない。香印の残留を定着させるには、ケレンワートからにじむ香を香印で〝固着〟させる必要がある。


 ネファストは、作業台へ戻った。ケレンワートの葉と導管液を分離し、成分の濃度を測る。


 小瓶から香料をピペットで移し、減圧装置にセットする。彼の動作には迷いはなかった。時間そのものを宥めるような滑らかさだった。


 香りが整ったと判断したネファストは、器具を止めた。白濁した液体はまだ完全には沈静しておらず、瓶の底でわずかに色が揺れている。


「……」


 香りが来た。

 腐る直前の果実。熱を帯びた蜜。花ではなく、肉の香り。

 次に、足音。

 最後に、声が降ってきた。

 

「やっぱり、ここにいたのね」

 

 いつもと同じ、あまりにも軽やかな声。

 マリス・トリュフォーが立っていた。

 

「あの子はよく眠ってるわ。お薬が少し強かったかしら。あの子、息をするだけで苦しそうだったんだものね……」


「何の用だ、トリュフォー」

 

 それは問いというより、確認だった。ネファストの声には温度がなかった。

 マリスはガラスの瓶を手に取り、ほんのわずかに香油を指先に落とした。

 

「……もうすぐ、仕上がるわ。あの子が最後に作ってくれた、あの構成に似せたもの。揮発率を少し下げた方が安定するの」

 

 ネファストは黙ったまま、剪定鋏でケレンワートを切り落とした。

 

「お願いできるかしら。〈保存〉を。……あの子の香りを残したいの」

 

 マリスは小瓶をかざした。

 

「もう少しなの。近づいているのよ。あの朝、あの子が振り返ったときの香りに……。それだけで、やり直せる気がするの」

 

 そこで、ネファストは初めて顔を上げて、マリスのほうをゆっくりと振り向いた。

 

「……。やり直す?」

 

「ええ。記録として保存するだけでは意味がないの。愛は再演されなければ、意味がないのよ」

 

 短い沈黙。


「同じ香りがもう一度立ち上れば、あの子もまた、そこに戻ってくる。だって、香りは記憶を超えるわ。……時間すら、追いつけない」


 ネファストは視線を落とし、指先で冷却トレイを一度なぞった。

 

「……私は、他人のために香印を使ったことがない」

 

「まあ」


 マリスは心底意外そうにネファストを見た。

 いつもより言葉が多い。そんな日もあるのだろうと思った。

 

「プライベートでしか使わないの?」

 

「私はずっと、香りを留めるためだけに使っている」


 マリスは作業台の奥、ネファストの視線が一瞬だけ向けられたガラス瓶を見やった。


 赤黒い香料が、小さく揺れていた。

 そこにあるのは、調和でも完成でもない。崩れる寸前でかろうじて踏みとどまっている〝何か〟だった。


 その香りは、生きているようだった。

 決して腐敗せず、決して静止せず、記憶と現実のあいだを彷徨っている。

 

「もったいないこと。あなたの香印は、出し惜しみせずに使ったらいいのに」

 

 マリスは軽やかに言ったが、そこに悪意はなかった。ただ、本当に〝惜しい〟と思っている声色だった。

 

 ネファストは視線を落としたままつぶやいた。

 

「保存しているだけだ。腐らないように、時間ごと封じている。……成り行きだ」

 

「そうかしら? 香りはまだ出ているわ。あなたがそうしているのよ。覚えてしまった瞬間から、香りはもう、止まれなくなるの」

 

 マリスは柔らかく笑う。

 

「香りはまだあるじゃない。忘れないように。あなたが忘れられないように」


 ネファストの指が、剪定鋏を強く握る。爪がわずかに白くなる。ネファストは何も言わなかった。ただ、一瞬だけ視線が揺れた。記憶が過ぎったのだと察したが、マリスはあえて踏み込まなかった。


「保存はしてやろう。……仕上がったら教えろ」


 その香りは〝あの子〟ではない。


 だがマリスがそう信じるなら、保存されるのは記憶ではなく――妄執だ。

 すでに香りは変質している。残るのは、狂気の標本だけだ。


 だが、ネファストはそれを否定しなかった。

 彼の指が、静かに香料瓶の蓋を閉めた。

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