第三十四話 不十分な祝福

 ネファストの前には、男が立っていた。灰色のフードが顔に深いた影を落としている。

 灰衣の男が一歩進み、無言で紙片を置く。

 ネファストはそれを取らなかった。

 

「オブリエ様が定期的にペルジャンへ通い、友人のもとを訪れているようです。名は――」

 

 紙の隅に記されていた報告を、男が低くなぞるように読み上げる。

 

「ジャック・ローラン」

 

 その名が読まれた瞬間、ネファストは瞬きを一つ、ゆっくりと終えた。


「……先日、再びオブリエ様が起こした暴走は、すでに沈静化しています。暴走の引き金となった香油は、ジャック・ローランの処方です」


 ネファストは表情を変えない。

 男は続ける。事実だけを淡々と並べる口調で。


「ですが、状況を鑑みると、暴走を止めたのもまた彼です。オブリエ様の姿は、もう視認できます。……回復速度が早すぎる。正常とは言いがたい水準です」


 ネファストの指が、無言のまま肘掛をわずかに叩く。たったそれだけで、空気は変化する。呼吸すら拒むような圧に満たされる。


 ジャック・ローラン。

 彼の香りは、オブリエに届いている。


 香りが届くとは、単に感知されることを指すのではない。相手の状態を変えるほどに作用することだ。


 香りを立てるのは、他者に痕跡を刻むため。

 それは、芳主なら誰もが知る香印の本質だ。


 善いか悪いかは、どうでもいい。

 変わったのだ。祈りが届いた。それがすべてだ。


 祈りの成就。

 それは、存在が他者に作用したという事実にほかならない。


 その瞬間、ネファストの過去は〈例外〉になる。


 ――ネファストの香印に、名はない。


 この香りは、想定する香印の枠に当てはまらなかった。

 作用はあるが、分類できない。

 制度の〝異物〟としての異能。

 故に記録されなかった。


 香りは、祈りの残骸だ。

 祈りが過剰であれば、香りもまた逸脱する。

 ネファスト自身の香りは、彼の祈りが強すぎたあまり歪んでしまった。


 だからこそ、ネファストにとって、祈りは届かないはずのものだった。


 だが、ジャック・ローランの祈りは届き、香りがオブリエの存在を引き戻しつつある。


 それは、ネファストが「届かない」と信じていた祈りが、他者を介して果たされ得るという例外だ。


 すなわち――ネファスト・ノブレサントの香りは、やはり制度の記録に値しないということの、揺るぎない証明である。


「……」


 ネファストは沈黙の中で、紙片に触れた。

 指先の動きは冷静で、しかし、ごくわずかに強張っていた。


 静寂。

 室内に響くのは、紙を指で叩く小さな音だけだった。

 

 呪いが、再び祝福へ戻ろうとしている。

 それを誰よりも強くこいねがったのは、自分だった。


 それは情動ではなかった。ただ、ネファストを穿うがつ欠落のふちを、ジャック・ローランという他者によって、正確になぞられただけだった。


 長い沈黙が落ちる。目を伏せたまま、手元の紙に視線を落とす。


 ふと、ネファストが顔を上げる。扉のほうを無感情に見つめた。


 ほどなく扉が開き、女が入ってきた。

 マリス・トリュフォーだった。

 いつもの黒衣。ネファストがすでにこちらを見ていることに気づいた彼女の笑みは、苦笑めいたものに変わった。


「相変わらずねえ」


 数秒、ネファストは彼女を見つめたのち、挨拶もなく本題に入った。


「お前は知ってるだろう。オブリエの調香師を」

 

「ジャックのこと? ええ、もちろん。彼はいずれ〝思い出す〟もの。すべてを」

 

 マリスはどこか楽しそうだ。

 

「あなたも彼を気に入ったの?」


「運び屋を〈保存〉する気はない」

 

 ネファストの声は淡々としていた。


「調香師は香りではない」


「でも、ジャックには素質があるわ。彼は香りになれる」


 マリスの囁きは、どこか慈しみに満ちていた。

 ネファストは、声にただ意味だけを乗せて応じた。


「それは君の趣味だろう」


「そうね。あなたは死を保存する。私は愛を固定するの」

 

「標本にな」


「あなたの香りは、いつも自分の中にしか残らない。だから、集めるのよね。残せなかったものを」

 

 夢見るように、マリスは告げた。その言葉には、所有ではなく、融合を求めるような気配があった。

 

「私にも、が、必要なの。残すのではなく、形にしたいの。あの子のままで」

 

 その声は、願いではなく呪いのようだった。

 

「わかってくれるでしょう?」

 

 ネファストは口を開かなかった。

 ただ、ゆっくりと紙片を押し潰す。それは願いのかたちを、命令へと変える動作だった。


 名は呼ばなかった。命令にしてしまえば、それが〝祈り〟になることを理解していた。


 祈りは、叶わなければ呪いになる。


 その順を、彼は知っている。

 ――今も、その連鎖の只中にいる。

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