第三十三話 沈められた意図
スフル・デテレの研究室で、一本の香油瓶が白熱灯に照らされている。その隣に置かれた大型の端末には、波形のグラフが映し出されていた。
アンシーは無言のまま、解析表を机に叩きつける。音は鋭く響いた。
制御された怒りの音だった。
「オブリエの香印が暴走した発火源はこの香油だ。――処方は、ジャック・ローラン」
名を聞いた瞬間、グラントはわずかに瞳孔を揺らした。視線が香油瓶へと移る。その動きには、混乱と警戒が重なっていた。
「ジャックの?」
「No.882が入ってた。……オブリエの香印を狂わせたのはこれだろう」
言葉の切れ端が喉に引っかかったような沈黙が一瞬だけ。すぐにその表情は怒気に染まる。
「ふざけるなよ。ジャックが気づかずに混ぜたとでも言うのか」
「違う。
脳裏に浮かんだであろう言葉をすべて飲み込んだ顔で、グラントは押し黙る。
アンシーは瓶を指先でひと振りした。内部の液体が、わずかに粘性を残して揺れる。
「だが、妙なんだ。こいつは中身が崩れてる。トップの揮発が走りすぎて、ミドルのバランスが取れてない。ベースで時間差の揮発が突っかかってくる。──揮発曲線が二重になっているんだよ」
グラントは眉をひそめた。
「二重?」
アンシーは端末に向き直った。モニターにクロマトグラフが表示される。
「見てみろ。ネロリとベルガモット、ミドルでジンジャーが走って、ヒノキで落ち着かせる処方だった。だが……」
アンシーは拡大されたグラフを指差した。画面のベース領域に、明らかに異質なピークが一つ、突き刺さっていた。
「後から香料が挿し込まれている。分子縁をマスキングして、補助香で沈ませてある。要は、薬剤でエッジを消して、奥に沈み込ませたってことだな。……悪質だよ」
グラントの目が鋭くなる。表情は崩さずに、低く言った。
「素人のやり方じゃねえな」
「崩さずに沈めるには、調香そのものの構造を完全に読み切らなきゃいけないね」
「裏切りか」
「……ジャックの処方を完全に読み解ける者じゃないと、ここまで綺麗に沈められやしない」
アンシーの声が、低く、感情を抑えたものになる。
「……あの子の香りは潔癖だ。制限の中で、計算し尽くして、設計のとおりに香らせることに心血を注ぐ。これも、オブリエの肌に乗ったときもっとも美しく香るよう組んである。……No.882さえなければ」
その言葉を終えると同時に、彼女の手が瓶をぎゅっと握りしめた。関節が白く浮く。
「一滴一滴、計算し尽くして積み上げた香りだ。なのに、トップの立ち上がりにあの忌々しいラベンダーがまとわりついてる……!」
アンシーはしばらく動かず、瓶を睨みつけたまま沈黙した。瓶を置こうとして――止めきれず、そのまま机に叩きつけた。
香油の香りがわずかに立つ。その匂いに、アンシーが一瞬、目をきつく閉じた。
再び目を開ける。
グラントと、視線が静かに交差した。
アンシーは深く息を吐く。
その空気を割るように、グラントが低く問う。
「……何のために? それに、ジャックがまったく気づかなかったとは思えないが」
「妙だ、とは思ったかもしれないね。だけど、経験不足だ。あの子はまだロット管理を知らない。自分の香りが意図せず劣化するって経験がないからね」
問うようなグラントの視線に、吐き出すように続ける。
「自分の香りはすべて制御できると思ってるんだよ。完璧に組んだ処方なら、崩れるはずがないってな。あれを処方ミスと思ったか、自分の迷いと思ったか……そこはわからんが」
アンシーの言葉は冷笑さえ含んでいた。だがそれは、自分自身に向けられたものだった。
彼女の目がまた香油瓶へと戻った。
「断言してもいい。この香油は、そのまま使っていれば暴走なんかしなかった」
それは、師としての矜持の裏返しだった。
グラントは深く沈黙し、それから低く問う。
「……ジャックにはどう伝えるつもりだ?」
アンシーは顔を上げた。その瞳の奥に、決意があった。
「本当のことを伝えるさ。あたしが見落としたってことも含めて、全部な」
だがその決意は、すでに敗北の色を含んでいるようにも見えた。
「調香は……ジャックが調香を始めたのは
「……俺には、わからん」
「呼吸の手引きだった。そこを踏みにじられたら、あの子は溺れる。……戻ってこれなくなる」
声は淡々としていたが、言葉の一つ一つに沈痛な重みがあった。
「だから早く一人前に仕立てるつもりだった。だが、間に合わなかった。あるいは、早すぎたのか。……どちらにせよ、育てきれなかった。いや……」
アンシーは目を伏せ、香油瓶を再び見つめた。
「……五年。それだけで、もう子どもだと思えなくなっていた。大丈夫だろうと」
アンシーは目を伏せたまま、ぽつりと言った。
「気づけなかった。……許されるはずがない」
「やられたのはジャックのせいじゃない。そこは間違えちゃいけねえだろ」
グラントが断じる。
「育てきれなかったんじゃない。育ちきったから狙われたんだ。作り方はあんたが教えたんだろ。その香りを、今度は誰かが食い物にした」
グラントは瓶をもう一度手に取り、蓋の上から掌を重ね、ねじ伏せるように押さえつけた。
「……ジャックは、まだ、自分のせいにしてやがるかもな」
グラントは静かに、だが吐き捨てるように言った。
「それだけで充分だ。あとは、どう始末をつけるか。それだけだ」
瓶の蓋に込められた圧は、その香りごと何かを葬ろうとしていた。
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