第三十二話 解釈の手前
書類で分厚くなった封筒を片手に、ジャックは学校の門を潜った。道中の記憶はほとんどない。どうやってここまで来たのか、覚えていない。
ただ、旧街区の脇道に一本だけある
今年は――すこし、遅い。
受付窓口に休学届を出す。淡々と処理が進んでいく書類を、ジャックはどこか他人事のように眺めていた。
パルヴェリアン調香師学校で休学は別段珍しいことではない。学生の年齢層はバラバラで、すでに職を得ている者がほとんどだからだ。仕事が切羽詰まってくると、学校に通う余裕はなくなってくる。したがって休学の手続きも迅速である。
「受理しました」
封筒を受け取った手に、力がこもる。
手続きを終えて戻ってきた封筒は、なぜか出した時よりも重たく感じた。
***
歩いていると、声を掛けられた。
「ジャック・ローラン」
振り返ると、そこには小綺麗な格好をした男――ヴォルテール先生が立っていた。香りの印象論を専門とする穏やかな教授だ。
「ここにいるとは珍しいね。何かあった?」
静かな、低い声だった。ジャックは努めて微笑んでみせた。
「いいえ、特に何も。半年ほど休学するだけです」
「なるほど」
ヴォルテールはそれ以上を聞かなかった。ただ静かに横に並んだ。
ジャックが歩き始めると、歩調を合わせて着いてくる。しばらく沈黙したまま、二人は並んで歩いた。
先生はどこまで着いてくるつもりなんだろう。
ジャックは足を止めてヴォルテールを見上げた。
「……あの、先生?」
「私の授業が退屈だったせいなら謝るけどね」
唐突にヴォルテールが口を開いたので、ジャックは目を瞬かせた。
「そんなことないですよ」
「つまらなかったのか。残念だね」とヴォルテール。その顔は笑っている。
「君はたまに私の講義を聞いてないだろう? この前は小説を読んでた」
「だから『レメリーの記録』の話をぼくに振ったんですか?」
「おや、おや。本当にサボっていたとは」
ジャックはしまった、という顔をしてから、少し笑って肩をすくめた。
「その節はすみません。でも、本当につまらなかったらとっくに講義を飛んでますよ」
ヴォルテールは喉の奥で笑ってみせた。そして、ジャックの肩をポンと叩いた。
「思ったより元気そうでよかった」
ジャックは一瞬、言葉に詰まった。
そのとき、進行方向からまた一人、実験室の扉を押し開けて出てきた男がいた。
「よぉ、ジャックじゃねえか。久しぶりだな」
ルカ・ロワ先生だ。彼は香料成分や分子構造の講義を担当している教授だった。無精髭に白衣姿。微妙にレンズの歪んだ眼鏡を押し上げた。袖が煤けた白衣に、どこか焦げた匂いがまとわりついている。
ルカが出てきたドアの先に、煙の匂いがあった。
「ルカ先生、また香水に火をつけたんですか?」
ジャックが問うと、ヴォルテールはぼやくようにつぶやいた。
「香水を着火剤にでもしたのか?」
「どの分子が先に飛ぶか、熱かけりゃピークで読めるからな。要は、壊してみて初めてわかることもあるって話さ」
「香水から記憶や気持ちを削ぎ落としたら、ただの蒸留液じゃないか。香りは、嗅いだ人間の中で初めてかたちになるのに」
ルカは鼻で笑う。
「解釈が選べるだけだろ」
「どの香りが印象を支配するかまでは、ピークでは読めないよ。1%にも満たない香気成分が主旋律になることもあるのだから」
「それは否定しないが、詩会を開くなら別のやつを誘うんだな。俺は
ふたりの教師の応酬に、ジャックは時おり口を挟もうとして、しかし言葉が出てこなかった。
二人とも正しいのだ。だが、それだけでは香りを作れないと思った。どちらの言葉も、ジャックには遠く感じられた。
自分の迷いを鏡に映したようで、どちらにも近づけなかった。
ジャックはひとつ深く息を吐いた。
「ヴォルテール先生。ルカ先生。ぼくはここで失礼します」
***
調香室に戻ったジャックは、これまでの試作品をそっと机に並べた。
すべて、オブリエのために作ったものだ。
だが、どれもオブリエの香印を安定させることには失敗している。
オブリエは「違う」とは言わなかった。何も言わなかった。何も選ばなかった。香りを嗅ぎ、少しだけ息を止めて、それで終わった。
オブリエの姿は、まだ完全には戻っていない。
不安定で、視界に引っかからない瞬間がある。ときどき、香りのように輪郭がさらわれる。
……あのあとだ。暴走してからは、ずっと。
明らかに、悪化している。
処方設計のどこかに、見落としがあったのかもしれない。
香油瓶を握る手に、思わず力が入る。
ヴォルテール先生の言葉が蘇る。
――香りは、嗅いだ人間の中で初めてかたちになる。
(……ぼくは、正解の香りを探そうとしている)
香印を安定させる。それだけが正しいと思っていた。香りが安定すれば、気持ちも形になると思い込んでいた。
オブリエがどう生きたいか。何を思いだし、何に揺れているか。ジャックはそこから目を逸らしていた。
成分、効香としての効力、香印の安定性……数字や理論に頼りすぎていたかもしれない。
そして、ルカ先生の言葉。
――解釈が選べるだけ。
(選択肢など、最初から与えていなかった)
どれがいいかなんて、聞きもしなかった。
選択肢を与えるふりをして、ただ自分の正解を押しつけていた。
ジャックは瓶に蓋をした。
香りを嗅ぐまでもない。
ここにあるのは――それらしく仕立てただけの
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