第三章

第二十五話 祈りが引き裂くもの

 香りに祈るようになったのは、いつからだったか。


 香印は、本人が強く欲したものを叶える形で異能を発現させる。


 それを聞かされたとき、ネファスト・ノブレサントはまずこう思った。


 ――そんなものは、ない。


 彼が欲しかったのは、〝香り〟だった。

 

 強く香ること。

 濃く、鋭く、強烈な印象を持つこと。

 ただそれだけが、自分を証明すると信じていた。


 だから――中途半端にしか、選ばれなかったのだろうか。

 



 ***


 椅子の肘掛けには、昨日の会合で着たジャケットを掛けたままだ。夏季会議は延期され、香異法改定は冬まで持ち越された。


 窓辺に背を向けたネファストは、香水瓶のキャップを左手で回した。


 香水瓶から漂ったのは、苛烈な緑の匂いグリーンノート


 茎を手で捻り切ったときのような、青くて、渋くて、粘るような匂い。無数の葉っぱや茂みの匂い。そこに、わずかながらレザーや安息香スチラックスの気配を感じる。


 この香りに対峙すると、ネファストは思い出す。うち捨てられたのちに植物の執念に乗っ取られ、蔦にまみれた劇場の舞台裏。その静けさを。

 

 香水を左手の平に垂らし、ゆっくりと指先でなじませた。指先に、オイルのように絡みつく高濃度香水エキストレが体温で温められて、青いすももを土ごとかじったような苦みが膨らんでいく。

 

 ネファストは左手を胸に押し当てて、ゆっくりと息を吸った。


 香りは徐々に広がっていった。執務机の木目に、火の消えた暖炉に、部屋の壁に染みこむように。


 ネファストの香印は、かつては湿ったプチグレンにセージが混じっていた。だが今は、どれだけ香りを重ねても、そんな風にはならない。


 扉がそっと叩かれた。

 

「入れ」

 

 姿を現したのは、老齢の邸仕えだった。口元を柔らかく引き締めたまま、静かに一礼する。


「ご報告を。オブリエ様の香印に、再び〈定着〉の兆候がございます」


 ネファストはわずかに顎を動かす。


「視認できた、というだけではないのか」


「意志による制御で回復しているのだと思われます」


 ネファストは短く黙し、香水瓶のキャップを指先で回した。

 小さく鳴った音が、報告の区切りを告げた。

 

「オブリエのアルカを組んだのは、スフル・デテレの主任調香師だったな」


「はい。アンソレンス・ローランです」

 

 その名に、ネファストの手が止まる。

 

「……ああ、調香師の名か。アンソレンスとは、また大仰な」

 

「彼女は〈ミュート〉でございますれば」

 

 芳気欠者ミュート。芳主の血筋でありながら、一切の芳香を持たなかったもの。

 持つべき才能を、持たずに生まれたもの。

 

「……それで、調香師とは。奇特だな」

 

 ネファストは唇の端を引いた。だが笑っているのではなかった。


「今回使われた香油のほうには、何が入っている?」


「一部、解析が進んでおります。記録では、香印との感応は〝再現性あり〟とのことです」


「……再現性、ね」


「ただ、香油の処方はアンソレンス・ローランではありません」


 ネファストの指が止まる。邸仕えは話を続ける。


「香油のほうは同工房の調香師補助が作ったものだそうです。名はジャック・ローラン。アンソレンスの実孫です」


「……オブリエの友人か」


 ネファストはわずかに瞼を伏せた。その口元に冷笑が浮かぶ。


「見習いの手遊びにしては、効きすぎだな」


「調査の必要はあるかと」


 ネファストは左の掌を眺めた。グリーンノートは散り、残るべき苦味の芯がどこにもない。皮膚に残った香水の残香は、すでに輪郭を失っていた。


 通常であれば、五時間は持続するはずのエキストレ。

 その香りが、すでに消えかかっている。


 立たないのではない。沈まないのだ。

 香りが空間に吸収されず、表面を滑っていく。

 

 香印と、感応していない。

 

「その……。香印の強度や性質の差によるものかと思われますが……何か、お心当たりは」

 

「ない」

 

 返答は冷たかった。

 

「反応そのものが遅延している可能性も……」

 

「いい。祈りに縋って立つ香りを香印とは呼ばない」

 

 そう言ってネファストは椅子の背に身を預けた。掌を閉じる。香りの根がどこかで切れている感覚だけが、皮膚にじっと残っている。

 

「どちらのローランも監視下に置け。どこまでが偶然か知っておくべきだ」

 

 その言葉に、邸仕えは一礼する。


「承知しました」

 

「香印調整師も呼んでおけ」

 

「すぐに手配いたします」

 

「下がっていい」

 

 邸仕えは、静かに頭を下げて退出した。


 ネファストの掌からは、もう香りが抜けていた。だが、空気の層には、かすかに香りが残っている気がした。


 ――祈りのように、香印へ捧げられた香り。


 自分には応えなかったその香りが、別の誰かのもとへ、確かに届いている。

 

 ネファストは視線を落とし、静かに息を吐いた。


「……ジャック・ローラン、か」


 遊びと片付けるには、看過できないほどの成果。


 ネファストは沈黙の中、机の隅に手を伸ばした。革のケースを開く。中には封のない別の便箋が数枚、無造作に束ねられていた。


 その上には、一通の報告書が伏せられている。

 

 ネファストはそれをめくるように取り上げる。

 小さくされた認可印を見つめながら、ネファストは口の中で短く笑った。


「パルヴェリアン経由か。……小賢しい」


 彼はその報告書を机に叩きつけるようにして置いた。一呼吸置いて、机の右端に整然と並べられた三通の封筒に指を伸ばす。


 扉が、ためらうように押し開かれた。ノックはなかった。


 息を切らした執務官が、額に汗を浮かべたまま室内に足を踏み入れる。報告の言葉が、空気の緊張をかき乱すように震えていた。


「ネファスト様、香特より……事前照会が届いております……!」


 ネファストは封筒のひとつに手をかけたまま、静かに視線を動かした。


「まだ正式通達ではないな」


 口調は淡々としていた。だが空気の密度が、一瞬で変わった。


 執務官は思わず背を伸ばすように立ちすくむ。


「は、はい……まだ各部局には伝達されていないはずですが……」


 ネファストは応じなかった。手元の封筒を一枚ずつ、机の中央にずらしていく。その動作は儀式めいていた。


 一通目。

 灰の管封筒に太字で刷られた『人事監察命令』。


 二通目。

 黒インクで行番号が振られた『臨時監査請求』。


 三通目。

 無地の紙肌に無題の『区画査定申請』。


 三通が机上に静かに並び、重石のような沈黙を落とす。


「これで十分だ」


 執務官は口を開きかけて、結局閉じた。言葉の余地が存在しなかった。


「報告書にない死は、報告しなくていい」


「……死」


「言葉の綾だ」


 ネファストの声には皮肉が混じっていたが、なおも抑制された静けさを保ったまま、致命的に冷たい。


 執務官は無言で封筒を受け取った。視線すら合わせられなかった。


 扉が、どこか謝罪するように、静かに閉まった。


 ネファストの背後で、暖炉の火がゆらりと揺れ、ひとつ火の粉が舞い上がる。


 ネファストは手元の報告書を軽く開いて――静かに裂いた。

 

 裂かれた紙の断面が、暖炉の火に投げ込まれる。火に巻かれた紙の裂け目から、血の気を失った鉄の匂いが、わずかに立った。


 ネファストの手には、何も残らなかった。

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