第二十六話 忠義の臨界点

 ノブレサント邸の応接間で、ジュゼマン・モレルは正面に座る青年を静かに見つめていた。


 古木の匂いに、誰かの残した香りが溶けていた。パチュリとミルラの影。もう誰のものかも判然としない。


 机上には紅茶が置かれていたが、どちらも口をつけていない。


 ジュゼマンの指先がわずかに動いた。書類の端を整えながら、言葉を選んで、口を開く。


「……オブリエさまの香印が不安定だった件について、各方面には調整を入れております。混乱が外部へ波及することはないかと」


「そうか」


 ネファストの応答は短く、淡々としていた。その目は端末に落とされたままで、ジュゼマンの顔を見ようともしない。


 その無機質な声音に、ジュゼマンの胸に鈍い圧が残る。


 冷静すぎる。

 理性の仮面があまりに自然だ。


 ジュゼマンは、この若き当主を信じたいと思っていた。


 だが、ネファストは、オブリエの香印が暴走した件に対して、一切の私的な言葉を発していない。憂慮の色すら見せず、執務の手も止まらなかった。


 それどころか、オブリエの香印が暴走した直前、ネファストは執務を中座していた。行き先も、戻った時間も明かされていない。


 その事実が、心に棘のように刺さって抜けない。


(……まさか、あなたが――)


 言葉が喉の奥にまでせりあがり、息が揺れた――その刹那、ネファストが端末から目を上げた。


 黒曜石のような双眸が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。


「私に〈虚偽看破〉を使うかね?」


 ジュゼマンの背筋が凍った。


 だが、ネファストから向けられていたのは怒りではなかった。

 理性。冷たい確信だけが、こちらを貫いていた。


 仕えてきた歳月が、この方の前では布一枚にも満たない。胃の裏に、ひと欠けの氷が落ちたようだった。忠義は、自らの潔癖を証明する方便にすぎなかった――そう思わされたことが、何より屈辱だった。


 しばらく、口を開けなかった。


 やがて、ジュゼマンは目を伏せ、わずかに首を振った。

 

「……いたしません。失礼を」

 

「ならよい。事実を知る前に、信頼を削るのは得策ではない」

 

 ネファストは再び端末に視線を戻した。

 

 その声音に怒気はなかった。ただ、氷のような静寂があった。


 それが、かえって刺さった。

 ジュゼマンは自分の疑念の存在が、忠義の名を借りた侮辱に堕ちかけていたことを思い知らされた。

 

 沈黙を断ち切るように、背筋を伸ばし直す。

 声を整え、報告の続きを取り出す。


「……もう一つ。婚約の件ですが、打診が三件届いています。いずれも芳主同家、または古貴族との血統維持に適した候補者です。顔写真と経歴は、本日中にまとめて提出いたします」


「写真は不要だ。身辺調査をし、ノブレサントに利益がある順に並べろ。上から会う」


 即答だった。


 私情は一滴も混ざっていなかった。当然のように利得を優先する姿に、ジュゼマンはふと口を開いた。

 

「……その、ご自身のお気持ちは」


 期待などしていなかった。ただ、確かめずにはいられなかった。

 ネファストは、目を動かさずに答えた。


「誰でもいい。愛は継続で形になる。私にとってはな。だが、相手は違う」


 それがネファストの答えだった。

 何の迷いも、装飾もなかった。


 ジュゼマンは、それ以上言葉を探すのを諦めた。


 この若き当主が語る〝愛〟というものが、どれだけ人間の語るそれと乖離しているかを知った。


 怪物であることに、疑いはなかった。だが理性を帯びている限り、逆らう意味はない。


 ジュゼマンは、沈黙のまま頭を下げた。

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