第37話 道程

 足を、進める。履き慣れた黒い靴を翻しながら、ひたすらに、道を作ってゆく。

 広い暗闇に響く足音に、実感が塗り重ねられる。ああここは、本当にほとんど誰も通ったことのない場所なのだ、と。

 それは至極当たり前のことだ。表側よりさらに複合的で広大な場所の中で、この世にたったひとりの厭忌の精霊が望む場所への道筋なんて、誰かが先に踏み固めているはずがない。

 だから、最短経路は存在しない。歩き続けて、探すしかない。

 厭忌の精霊が、ここだと思える場所。その生を、築いていきたいと思える場所を。


      ※


「この層、上から……青い花?が降ってきてるんね。それが全部左奥の凹んでるとこに竜巻みたいに吸い込まれてる。厭忌の精霊が飛ばされないように、屋根も維持しといてくれんかいね」


「こっちは薄紫っぽい水溜まり?だらけだけんど、奥に島みたいになってるとこがあるな。そこから進めそうな気がするんよ」


「足元!! めっちゃくちゃ蛇いる、うわっ、ちょっ、床!! 床作ってくれんかいね!?」


 そんな風にトケイの指示を受けながら、私たちは『裏側』の深みへと向かっていた。先ほどシクたちに連絡を取って確認したところ、今は『水銀の散らばる藍の世界』の裏側にいるようだ。

 やはりトケイが付いてきてくれて本当に良かった、と思う。こちらでは彼の方が格段に、見えているものの解像度が高い。私だけでなく、厭忌の精霊と比べても大幅に情報量の多い景色を認識している。

 先ほど言われた蛇など特にそうだ。私たちには、ただの凹凸のある土にしか見えなかった。幸い『書き換え』で作った壁で防げているようだけれども、あのまま進んでいたらと思うと背筋が冷たくなる。『裏側』のものが表側のものに傷をつけられるのかは分からないけれど、こうして歩いて触れることができる空間である以上、もっと警戒や準備をしておくべきだったのかもしれない。

 それ以外にも道中何度か安全が危ぶまれる箇所もあり、その度に私は、『書き換え』の力で透明なトンネルを作って進んだ。

 集中を続けているせいか、そろそろ息を切らせつつあるけれど、それは仕方がないだろう。これまで安全圏としても使ってきた私の車は、『表側』に置いてきてしまっている。導きの神の力を使おうにも、さすがにあんな複雑なものを、自分の世界の外で作り出すのは難しい。


「ココ」


 掛けられた声に視線を下ろすと、トケイと厭忌の精霊が、並んでこちらを見上げていた。

 私に見える範囲は相変わらずほとんどが闇で、白と黒の光だけが、カンテラのように道行を照らしてくれている。そのせいか、『裏側』に来てからはどちらかと言うと、私の方が導かれているようにも感じられる。


「大丈夫でございますか」


「次降りて安全そうなら休憩しろね。顔色悪いわ」


 反射的にまだ大丈夫だと言い掛けて、言葉を飲み込んだ。よく聞けばトケイの声色も少し沈んでいるし、その身の内の光も、先程降りてきた時に比べてやや弱まっている気がする。

 彼の方も『裏側』を注視し続けて負荷が掛かっているのかもしれない。私が意地を張るのはいいけれど、彼まで付き合わせてはいけないだろう。


「分かった。ともかく、早くここを抜けよう」


 頷くと、トケイは足を止めて、ちらりとこちらを見上げた。


「どうかした?」


「やけに素直にひとの言うこと聞くなと」


「トケイも疲れてそうだし、あと心配かけたのは一応反省してるから」


「まあ、言われてみれば俺も疲れてきてるけんど」


「お二人とも、本当にご無理はなさらないでください。このように不安定な場所にお付き合いいただいておりますから」


 厭忌の精霊へ、私はそっと手を伸ばして、その盾を軽く撫でる。クレーターのような細かなへこみの縁に、私自身の影が映っている。


「そうですね。厭忌の精霊にも、心配をかけてはいけませんし」


 ここまで目指してきたのは、降りてきた場所から西の方角にある、大きな大理石の塊──トケイには大蛇の彫刻に見えているらしい──だった。彼曰く、そこから深みに降りられそうな隙間があるらしい。

 見た目では数分ほどの距離に見えていたものの、実際に歩いてみると、体感時間にして十五分は掛かっていた。

 周囲が暗いせいか、私には『裏側』がよく見えていないせいかは分からない。ただただ一歩先の自分達を守るように透明な覆いを作り続けて歩いてきたから、知らないうちに感覚が狭まっていた可能性もある。

 見上げると、私の三倍は高さのある灰色の大理石は、床材のように磨かれることはなく、削り出した原石のままでその場に鎮座しているようだった。

 その荒々しい質感からは何となく、私の世界の神社等で祀られる大岩に似た雰囲気も感じる。もしかすると、創世者自身が、表にある『水銀の散らばる藍の世界』を作る際に、私の世界のモデルとなった国の資料を参照していたのかもしれない。


「この辺り?」


 櫂を出して大岩の近くを指すと、トケイは軽く首を振った。


「ん、もうちょい右なんね。……多分そこ」


「確かに、その辺りの景色が歪んでいるように見えます」


 頬に触れる厭忌の精霊の明かり越しに、その場を凝視してみる。しかし、やはり私には周囲との違いは分からなかった。

 この前彼らが世界の質感を見分けていたように、これもまた、精霊独特の感覚なのだろうか。まだまだ私には、知らないことや理解できていないことがごまんとある。

 導きの神の共有知識を端からあたっても、はじまりの神の記憶の欠片を得ても、彼らから世界の成り立ちを教わっても。いつかを目指すための小さな目標が無くなる日はきっと、もう千年は来ないのだろう。


「……今回もやっぱり、私には見えませんが。この辺りから下層に繋がっているなら、先に降ります。ふたりはいつも通り、私に繋がるシクの蔦を辿って来てください」


「分かったわ、気をつけてくれね」


「よろしくお願いいたします」


 ふたりからの返事を背に、私は、トケイが示した辺りへ爪先を伸ばす。確かにそこから、半固形のものに触れたような微かな揺めきが返ってきた。

 思い切ってそこに体重をかけてみると、ゼリーにフォークを刺すようにして、足首までが一気に沈む。

 とはいえ厭忌の精霊によって『裏側』に引き込まれた時とは違い、今回は沈めようとしてくる力は存在しない分、やはり僅かな抵抗はある。

 ここを潜り抜けるのだと一貫した意志を持っていなければ、おそらくこの先へは降りられないのだろうと、ここまでの試行で何となく理解はできていた。

 小さく息を吸って、私は目を閉じた。下手をすれば既に浸かった足首だけ残して宙に浮いたような状態になりかねない。先程まで見ていた足元の記憶に重ねるように、見慣れた湖を脳裏に描く。

 軽く背を反らし、それから私は想像上の水面へと、一息に飛び降りる。

 盛大に、飛沫の上がる音がした。額に冷たい水が微かに触れたと思った時には、もう頭の先まで沈み込んでいた。音が遠くなる。水は、やんわりと全身を圧迫している。一つに束ねた髪が泡の音を追って背から離れてゆくの感じながら、水中で、瞼を開く。

 と、唐突に重力が戻ってきて、気が付けば、乾いた場所に座り込んでいた。

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