第13話 春の始めの永遠 前編
ひとしきり驚いた少年は、慌てたように家から飛び出し、次いで柵の一部を開く。包み込むようにしてトケイに手を伸ばした彼はそこで、ふと顔を上げて私を見た。
「……あれ?」
丸くなった瞳の虹彩は、青い波と緑の波が入り混じっているような、独特の色合いをしている。そこに映り込む私は、多分彼と同じくらい困惑していた。そういえば導きの神でない人間に話しかけられるのは、随分久しぶりのような気がする。
「……こんにちは。彼は、あなたの家の子ですね?」
我に返ったのか、子どもの表情に本気の驚愕が浮かぶ。本当についさっきまで、トケイしか目に入っていなかったのだろう。
「わーっ、わぁ、わあ!! お客さん? ごめんなさい、パパとママを呼びます!!」
「いえ、……私は遠い国からの旅人でして。この辺りを散策していたら、彼が家に入りたそうにしていたのを見つけて」
「そうなの? トケイ、隙間からうっかり出ちゃって帰れなくなったんかいねえ……? あっ、今クッキーあるの! もらったんよ! お姉さんも食べる?」
「そうなんですか。ではせっかくなので、ご両親がよければ、ぜひ」
「聞いて来る! トケイはお家ね!」
少年は、トケイを慣れた手つきで抱え上げる。コッ、と軽く鳴いた鶏と、一瞬目が合った。私は少年の背中と、その腕からこぼれる長い尾に向けて、小さく手を振った。
閉じた扉の向こうから、ママ、パパ、と、微かに彼の声が聞こえる。それに応える声は彼より低いためか、少し聞き取りづらい。
私は柵に軽くもたれて、束の間目を閉じてみる。
頬に触れる春の陽は緩やかで淡い。
上下する少年の足取りと、それに合わせて揺れるトケイの尾を思って、笑みが滲んだ。トケイは普段大人びた口調と声音の意思を伝えて来るけれど、そうしていると二人とも、歩調を揃えた同い年の子どもであるかのようだった。
ああこれは、と私は思う。
きっと、この世界にも苦難は沢山あるのだろう。この家にも豊作の年や不作の年があるのだろうし、飢えも盗みもあるのかもしれない。それでも。
このままがいいやと。『駆け足』の精霊であった私でさえも、ここにいるとそう思えてしまう。
これが、この感覚こそが。もしかすると、退屈の精霊トケイの根底にあるものに近いのかもしれない。
ずっとずっと変わらないで欲しい──欲しかった。
この安穏が愛おしくて、永遠に繰り返していたい──いたかった。
「こんにちは」
その声に目を開けると、柵越しに大柄な男性が立っていた。髪の色は白樺の枝のような、僅かに茶色がかった灰色で、瞳の色は先ほどの少年と同じ、青とも緑ともつかない独特の色合いをしている。恐らく彼の父親だろう。着ているものは灰色のシャツの上に茶色のベストと、黒いズボン。
私は柵から背を離し、向き直って頭を下げる。
「こんにちは、私は旅人で、ココと言います」
「そうかい、俺はアンセル、ここの畑の持ち主だ。おめえさんはこんな辺鄙なところに何してるんね」
なんとなく、と言おうとして、その目元に僅かな警戒が滲んでいるのに気付いてしまう。
確かに私は荷物一つ持っていないし、銀髪に金色の瞳、黒い衣服という組み合わせは、この地域の人々とはかなり出立ちが異なるだろう。トケイが柵を越えていたこともあり、彼を盗みにきたと思われている可能性もある。
「……連れが、物書きでして。彼に付き合って、世界の色々な地域を巡っています。今は宿で彼が寝てしまったので、退屈で。体が鈍るといけないし、村の端の行けるところまで歩いてみようとしていたら、鶏が困った感じで柵の周りをうろうろしていて」
何とか絞り出したセリフの前半は、実際に何度かあったエピソードでもある。行ったのは世界の色々な地域ではなく、日本の色々な地域ではあるけれど。
我ながら辿々しいものの、せめて害意がないことだけでも伝わればいい。あまり私に時間をとらせて、トケイが彼らと過ごす残り時間を無駄にしたくもない。
「あら、作家さんの奥さんなの?」
「ルーネ」
木の実が弾んで転がるような声と共に、アンセルさんの後ろから、イチョウのような色合いのワンピースを着た女性が覗く。彼女の髪は少年と同じく金髪で、瞳の色は夫や息子よりも少し濃い深緑色だった。
「大丈夫よ、この方姿勢もいいし、落ち着いた話し方されてるし、トケイを盗んだりする感じじゃないわ。……勿論、見たことのある顔でも無いし。折角だから色々お話を聞かせてもらいましょうよ! ね、カイ?」
「お話聞きたい!」
「……」
アンセルさんはちらちらと私と家族を見比べ、戸惑いがちにこちらへと近寄る。
「旦那は放っといていいのか?」
「昨日徹夜で書いていたので、しばらくは起きないと思います。……ただ、帰るより先に起きたら拗ねるので、よければお土産に皆さんのお話を伺いたいです。それからその、夫と違って私は話が上手くないのですが、私の国の話などもさせていただければと」
尚も迷っている様子の彼の後ろから、草を踏み分ける音と共に、少年──カイくんが駆け寄ってくる。彼はそのまま、父親の腕を両手で掴んだ。
「パパいいでしょ、ちょっとだけでいいんよ!!」
そのまま、父親のシャツの裾を、ズボンから引き摺り出すどころか千切れそうな勢いで何度も引く。その様子に思わず昔飼っていた黒猫のヨイ話連想してしまい、吹き出しそうになるのを堪える。
「あー、引っ張んな引っ張んな、分かったよ、ココさん、今日の収穫もまだだしクッキー食べていきなさい。あとうちの好奇心旺盛な妻と息子の相手もしてやってくれね」
「……はい。ありがとうございます、お言葉に甘えて、お邪魔します」
目の前で、柵が開く。少年と奥さんに手を引かれて、私は彼らの家の前に立った。
頼もしそうな父親と、楽しそうな母親と、笑顔の可愛い子どもと、それから、彼らに付かず離れずついてゆく一羽の鶏と。
ランプはついておらず、家の中は窓からの自然光のみで照らされているようだ。影になってはいるものの、皿の上にクッキーが広げられているのが見て取れる。暖炉の上では、小さなキルトのぬいぐるみが飾られていた。この形は鳥だろうか。
「お邪魔、します」
私は一歩踏み出して、ログハウスの中に迎え入れられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます