第10話 紫の狼神

 ハンドルにもたれ掛かった勢いで、誤ってクラクションを鳴らしてしまった。

 隣から、ばさばさと音をさせて飛び回る音が聞こえる。驚かせてしまったようだ。私は首だけ回して、すみません、と呟いた。

 あれから、私たちは五ヶ所近く世界を回った。

 一つ目。紙細工の『折り重なる白の世界』。ここは土地と土地の物理的な隔たりが多く、トケイがいた世界より人と人との関わりが薄い世界だったため、あまり合わなかったようだった。

 二つ目。粘土細工の『組変わる蛇の世界』。ここは村ごとの住環境は安定しているものの、土地が動いて隣接する村が定期的に変わるため、トケイ自身悩みつつも却下。

 三つ目。水に垂らした油の『入り混ざる銀と青の世界』。油のような流体の生物が水の上で暮らす世界で、寿命が長く決まった移動のサイクルを繰り返す生物たちの世界だ。ここは変化こそ少ないがかなり無機的な世界だったため、生きている感じがしないかもしれない、というトケイの意見から却下。

──などという流れで、残る二世界も含め、私の紹介した世界は全てトケイの希望には合致しなかった。

 一応、分かったことはいくつかある。

 まず、トケイが安定して欲しいと思う範囲はかなり広いということ。少なくとも自分が暮らす周りだけそうであればいい、というわけではないらしい。

 次に、どうも彼は食べたり眠ったり何かを作ったり、という活動が周りにあって欲しいようだということ。これは動物だった頃の意識が残っているからだろう。

 最後に、トケイが思う『多い方がいい世界の柱』は、そこに住む生き物の結びつきであったり、主体性であったりも含むということ。彼が元々暮らしていた村では周辺の人々との関わりが深かったようだから、そのためかもしれない。


「おーい、本当に大丈夫かいね」


 突っ伏した私の左側から、心配そうな声がする。私は小さく首を振った。


「大丈夫です、私が至らないだけなので……もう少し頭の柔らかい導きの神に生まれられたら良かったんですが……」


 残念ながら、導きの神の共有知識を除いてしまえば、私たちの頭の回りや性格は生き物時代とほとんど変わらない。変わったのは本当に見た目や持ち物だけというものだ。

 ため息をつく。片手で、ワイドパンツのポケットを漁る。指先はすぐに、冷たくて丸いものに触れた。

 赤銅色のコンパス。用途は分かるものの、生まれてからついぞ使っていない羅針盤。取り出すと、装飾のない滑らかな表面に、自分の仏頂面が映り込む。

 こうなっては、仕方がない。私の個人的な感情で、トケイの案内をさらに難航させるわけにはいかない。


「トケイ、すみません」


「ん、どうかしたか?」


「呼びます。昔私を担当した導きの神を。本当にすみません」


「いや、俺は気にならないけんど、おめえさんどんだけ嫌なんね、そいつ」


 半眼になったトケイに、私はどうオブラートに包んだものか迷う。


「その、……とにかく遠慮も配慮もないので……ご不快になられたらすぐに追い返しますから、仰ってください」


「お、おう……まあ、せっかく決心してくれたんだし、とにかく呼んでくれな」


「……はい」


 気乗りしないのを堪えつつ、羅針盤の蓋を開く。

 私の世界や私たちが渡る世界の狭間に、方角は存在しない。だからこれは、本来の羅針盤と違って、そのためのものではない。

 かちん、という微かな金属の響きと共に、内側にある大小様々な八つの針と、それらが横たわる深い青色の布地が姿を現した。普通の羅針盤と同じように、銀色の針は全て中心のピンで止められているものの、示す方向はそれぞれ異なっている。


「経路。ミマシへ」


 呟くと、その声に反応して、針たちが一方向へと集まってゆく。咲いていた花が蕾に戻るようなゆったりとした動きは、それが指している相手が違えば美しいと思えただろう。そう、相手さえ、違えば。


「何だ、それ?」


「面識のある導きの神同士で集まるための道具ですね。この形は、羅針盤を基にしています」 


 左手に乗せて差し出すと、トケイは物珍しげに覗き込む。


「元いた世界で見たことはありましたか?」


「いや、ないな。こんな金属の細かそうなもんは高いらしいしなあ。どうやって使うんね」


「この針が行きたい方向を示してくれるものでして。今は私が会いに行く導きの神を指しています。本来の羅針盤だと針は一本で、必ず北を指すようになっているものなんですが」


「あー、道に迷わないようにね。ふうん。……にしても、指すのが一箇所だけなら針は何で8本もあんのかいね」


 首を傾げたトケイに私は反対側の手で、羅針盤の縁をなぞって見せる。


「別々の場所にいる何人かを同時に探したりもできるんです。大人数で集まって相談したい場合に使えるということですね」


 勿論、今のところこの機能を使う予定はない。思えば、空転の精霊が転生してからの休憩期間に、一人や二人知り合いを増やしていた方が良かったのかもしれないと、今更ながら後悔する。


「なんほどなんほど。そういやキフォリアも、なんか筒形でガラスが入ったやつを使って知り合いに会いに行ってたわ。そういう形のもあるかいね?」


「そうですね、基本的に使い方は同じらしいですが、それぞれの好みだったりで何の形かは変わってくるそうです」


「なるほどねえ」


 トケイがコッ、と短く喉を鳴らす。私は羅針盤をもう一度こちらに向けて、そのままダッシュボードに置く。ここに物を置くなと教習所時代は耳が痛くなるほど言われた記憶が蘇るものの、他に場所がない。──いや、そうか。

 最近忘れていたものの、今握っているハンドルも、そういえば元々は櫂だった。銀細工の施された綺麗な品だったのに、結局利便性に負けて、最初の形には戻せずにいるが。ともかく、別に元々の形で使う必要はないのだ。

 羅針盤を取り上げる。ダッシュボードの少し下に翳すと、小さな計測器は金属の感触を保ったまま、その形を流体に変えた。私はそれを操作盤がある一帯の中央へと、指先を軽く傾けて流し込む。

 冷たいままに溶けた金属は、役に立たなかったカーナビの画面上に均等に広がり、その形で安定する。また、中心から湧き出すようにして、8本の針が各方位に広がり、やがて先程と同じように一箇所に集まる。


「何に変えたんね?」


「私の世界にはカーナビという、より正確に道案内してくれる道具がありまして。車についていたそれと混ぜました。こちらの方が見やすいですし」


「確かに、これだったら俺も見れるわ。運転してる間どっち向いてるか言ってやろうか」


「それは助かります、お願いします」


「はいよ、任せときな」


 軽く羽ばたきながら、トケイは羅針盤、もといカーナビを見やすい位置に移動する。確かに普通の精霊とは諸々勝手が異なるものの、彼は自我がはっきりしている分、こうして協力してくれたり自分の感情をより正確に言葉にしてくれるのがありがたい。


「……よし」


 自分の頬を軽く叩いて、気合を入れる。トケイも手伝ってくれるのだ、私もあれに頼らなければいけない状況に文句を言っている場合ではない。

 ちらりとカーナビを見る。綺麗に揃った銀の針。今は左を向いている。

 いけすかない相手だけれど、自分も導きの神となった今ならはっきりと分かる。私をかつて担当していた導きの神の実力は、疑いようもなく本物だ。過程はどうあれ、彼なら必ずトケイに合った道のヒントをくれる。


「それでは、行きます」


 シートベルトを付けて、車のアクセルを踏み込む。霧の中、茶色の自動車は、静かに滑り出した。


      ※


 道中、針は何度も方向を変えた。


「次右だな」


「あ、左」


「真ん中寄りにずれた」 


 トケイの声に応じて、進路を変えてゆく。その合間に、お互いに少し慣れてきた私達は、とりとめのない雑談を挟んだ。


「そういえば、ココの世界はどんなとこだったんかいね」


「私のいた世界、ですか」


 視線は前から逸らさず、返答を考える。世界の狭間といっても、この前のように見知らぬ導きの神と出くわす事もある。事故を起こさないためにも、気を抜きすぎてはいけない。


「ええと、四角くて縦長い建物がたくさん並んでいて、技術がどんどん発展していく世界でした。私の本質は『駆け足』だったので、生きているうちに出来るだけ多くの発展を見たくて、そこに生まれました」


「ふうん、俺んとこの世界とは大分違いそうね」


「そうですね、お話を聞く限りだと、そちらの世界の方が穏やかそうです」


 そう返すと、左側から、小さく羽を動かす音が聞こえた。


「そりゃちょっと意外だわ、おめえさんもっとのんびりしたい方だと思ってた」


「そうなんですか?」


「ん、だっておめえさん」


 トケイが言いかけた、その時だった。

 霧のかかっていた目の前に突然、紫色の塊が飛び込んできた。 


「おわっ!?!?」


「すみません、トケイ!!」


 ブレーキを思い切り踏み込むと同時に、助手席のシートベルトを動かして無理矢理トケイをシートに縛りつける。言ってしまえばこの車も私の世界の一部だ、少し気合は要るものの、自然でない動作もさせられる。

 急停止した車のバンパーに、紫の影はそのまま転がりながら乗り上げた。

 車体は大きく揺れたものの、なんとかスピンすることなく止まる。私は息を荒げながら顔を上げた。

 そして、窓に張り付くようにして止まったそれと、目が合った。


「……」


 無言で睨みつけると、影──狼の姿をした紫の布の塊は、さわさわとその身を震わせる。その口元の両端に、細かな皺が寄る。


「おぉう、『駆け足』──ではなく? 今はココだそうだった! 久しぶりだな、車ごとぶつかってくるほどに元気そうでなによりだ!」


 ガラス越しのくぐもった声に、私は早くも眉間に力が入るのを感じる。


「ミマシ。お久しぶりです、とっとと降りてください。そちらこそお元気そうで良かったですが、案内している精霊に危険が及ぶことは本当にやめてもらえませんか」


「おおぅおおぅ、一人前の導きの神になっている、我は感動、涙で目元が黒くなる!」


 色の時点で予想ができていたが、やはり目の前にいるのは、かつて私を転生させた導きの神、そのひとだった。

 狼の骨格に布を隙間なく巻きつけたような体。布地は、朝焼けの紫を千年かけて煮詰めたような、美しいのにどこか濁った色。

 ミイラ、というのとは少し違う。この布の向こうには正真正銘何もないのは、本人が見せつけて来たので知っている。ただし、目だけは例外のようだ。狼の顔を覗けば、底の見えない深い色をした紅玉で彫られた右目と、凹凸の判らないほど真っ黒な木で彫られた左目を見ることができる。

 私が精霊だった頃と変わらず、ミマシは相変わらず一見しただけで分かる、異質な雰囲気を纏った導きの神だった。


「あー、ココ、すまん」


 遠慮がちな声に左を向くと、トケイが細い足の指を軽く曲げていた。


「その人が知り合いよな? 挨拶中に悪いけんど、ちょっと足が浮いてるの落ち着かんから……」


 そこで我に返った私は、慌てて自分のシートベルトを外す。


「すみません、すぐ下ろします!」


 立ち上がり、トケイの背を手で支える。鶏の重心はどの辺りかいまいち分かりづらいけれど、ともかく転がり落ちないようにして、押さえつけていたベルトをもう片方の手で退ける。限界までベルトの長さを短くしてあったから、そのまま外してしまうと元に戻る勢いでトケイを傷つけかねないためだ。


「よっと、」


 転がるようにして座席に着地したトケイは、首を回して自分の体を見回した。それから、二回ほどその場で飛び跳ねる。


「痛いところはありませんか?」


「大丈夫大丈夫、おめえさんと違って俺も生き物じゃねえし。こっちこそ咄嗟にありがとうな」


「いえ、精霊の安全確保も導きの神の仕事ですから。そうですよね、ミマシ」


「仲も良ぃ仲も良い!! 成長したなぁあの『駆け足』がなあ!」


「嫌味のつもりなんですが」


「そぅかそうか悪いね悪い、だがまあ仔犬がいくら吠えようと我には可愛らしくしか聞こえんなぁ!」


 私は目を伏せて、視線を落とす。


「……トケイ。こんなのなんですが、良いでしょうか」


「お、おお、想像以上にぶっ飛んでんな……あと、このひとココのことめっちゃ気に入ってはいるんかいね、多分」


 声を潜める彼に、目を細める。


「ええ、まあ……一応そうらしいですね」


「とりあえず、俺は構わないからこのまま進めてくれな」


「……分かりました、車を降りましょう」


 頷くと、トケイは小さく瞬きをした。


「……もしかして、今断った方が良かったかいね?」


 その言葉に苦笑いが溢れると同時に、少し申し訳なくなる。子どもが身内に当たり散らすような不機嫌に巻き込んで、気を遣わせてしまった。


「……すみません。正直に言うとそうなんですが、ここまで来たので。本当に腹を括ります」


 言いつつ、ロックを開けてエンジンを切る。

 気が付けば、扉の外には、濃い藍の布で編まれた球状の空間が広がっていた。所々から夕焼けのような朱い光が細く鋭い形で漏れている。

 繭、と言うには作りがもう少し粗いだろう。昔は確かどうとも思わなかったけれども、今の私の感覚で見ると、注連縄で隙間なく囲われた神域のようにも感じられる。

 言うまでもなく、ここは私の世界ではない。恐らくあちらがぶつかって来たタイミングからだろうか、私達は既に私が展開させていた世界ごと、車だけ残してミマシの世界に取り込まれてしまっている。


「いらっしゃいいらしゃあい、歓迎、茶を出そう!」


「……無理に気を遣わなくていいですよ」


「そういうわけにもいかない、『駆け足』が苦渋の決断で頼りにきたのだから!」


  そこら辺に適当に座りなさい、と言う声に応じるように、黒くて細い布で組まれたゴザのような敷物が二つ現れる。

 後ろから運転席を飛び移って降りて来たトケイと大人しく座ると、ミマシもまた、バンパーから私たちの前へと降り立った。着地の瞬間布で作られた前肢と後ろ足が緩やかに曲がって、衝撃を吸収する。その様は本当に、大型犬類のそれと変わらない。


「さぁさあ相談しておくれ、小さな鳥と小さかったココ!」 


 目の周りと口の周りの布が、何かに引かれたようにして吊り上がる。これがミマシの笑みで、私は彼の表情を、この顔と普段の顔の二つしか知らない。

 紫布の狼は、こちらにぐっと顔を近づけて、更に口角を上げる。


「見えるものも見えないものも、我がここに並べよう!!」

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