一日だけのパラレルワールド

靣音:Monet

01:桜とモモの章

「きゃあーーーっ!!」

 

 悲鳴と共に後ずさると、その勢いでベッドのふちに頭を打ち付けた。


「だ、誰っ……!? う、浮いてるのっ……!?」


 目の前に、大きな翼を部屋一杯に広げた、限りなく天使に見える生き物がいる。もう少しで眠りにつきそうだったのに、一瞬で目が覚めた。


「驚かせてすみません、さくらさん。私はファヌといいます。はじめまして」


 品の良い笑みを湛えながら、高くもなく低くもない声で、ファヌとやらはそう言った。その顔は、男性とも女性ともとれる中性的なルックスをしている。


「てっ、天使……!?」


「天使……みたいなものでしょうか。このルックスで現れるのが、この世界では一番信用されるみたいなので」


「って事は、コ……コスプレっ!?」


「ハハハ、時々そんな風に言われますね。でも、これは飾りでは無いですよ」


 ファヌはそう言って、背中の羽を軽く羽ばたかせると、乱れていた掛け布団が一瞬でキレイに敷き直された。


「きゃあーーーっ!!」


 私は二度目の悲鳴を上げた。



「何度も驚かせてすみません、桜さん。——早速ですが、私は地球というこの星の調査にたずさわっているのです。その調査に、桜さんもご協力願えないかと思いまして」


「きょ、協力……? 協力って私がですか……?」


 信じがたい現状が目の前で展開されているにもかかわらず、私はごくごくストレートな返答をしていた。


「私は人間の『欲』というモノについて、調査を続けているのです。一日、たった一日だけですが、何でも叶うとしたら桜さんは何を望みますか?」


「一日……一日だけ……? 例えば世界一の大富豪になってみたいとか?」


「ええ、そんな感じです。ただ、どんな願いであっても、翌日には元の世界に戻ってしまいます。それと同時に、わたくしファヌとの記憶も消えてしまいます」


「じゃ、じゃあ、願いを叶えて過ごした日は、無かったって事になるの?」


「いえいえ、その日もちゃんと存在しますよ。私が現れなかった場合の一日が過ぎていく、と考えて頂けたら結構です」


 うーん、これってやる価値あるのかな……


 記憶に残るわけでもないし、ファヌっていう天使を信用していいのかも分からない。


「もちろん、断って頂いても大丈夫ですよ。ここまでの私との記憶は消してしまいますので」


 そう言われると、「勿体ないかも」と悩んでしまう自分がいる。一日とはいえ、何でも願いが叶うのだから。


 それに、願いたいことは既に頭に浮かんでいたから。


「ほ……本当に何でも大丈夫なの?」


「もちろんです。何でしょうか?」


「モモ……モモと一日だけでいいから、一緒に過ごしたい」


「分かりました。それでは眠りましょうか」


 ファヌの言葉で、私は深い眠りへと落ちていった。まるで、その言葉は呪文だったかのように。



***



 なんだろう、この懐かしい感じ……


 柔らかく小さな手が、ワシワシと私の頭をさすっている。


 ああ、もう朝か……お腹空いたんだね、モモ。今、起きるよ……


「モ、モモっ!?」


 飛び起きると、先月亡くなったはずのモモが枕元にいた。私は何が何だか分からないまま、キョトンと座り込んでいるモモを抱きしめた。


「願いは叶ったようですね、桜さん。——それでは私は当分消えますので、どうぞ特別な一日をお過ごしください」


 ああ、そうだ……


 昨晩、ファヌという天使が現れて、一日だけ願いを叶えてくれると言ったんだ。そして今、その願いが叶っているという事なのか……


 この後、ファヌの名前を何度か呼んでみたが返事は無かった。


「フフフ、もう何でもいいや。リアルに起きてる夢だと思って楽しもう、モモ! たった一日だけだけど、今日はずっと一緒だよ!」


 腕の中のモモは、丸い目で「ニャー」と鳴いた。



 5分ほど悩んだ末、思い切って職場に電話を入れた。体調が悪くなったから、休ませてくださいと伝えるために。

 予想通り、午後からでいいから出られないか? と、しつこく食い下がられた。普段から人手不足で忙しい職場だ、申し訳ないという気持ちは大いにある。だが、どうしても出社出来そうに無いことを伝えると、ガチャン! と大きな音で受話器を切られてしまった。


 ああ……どんな事であろうと、嘘をつくというのは心苦しいものだ。


 でも……もうあの時のような後悔は二度としたくないんだ。



「さてさて、まずはご飯ご飯」


 モモのお気に入りだったご飯を捨てられず、戸棚にしまい込んでいた缶詰を取り出した。まさか、こんな使い方をする事になるなんて、夢にも思わなかったけれど。


 その缶詰が目に入っただけで、私の足にまとわりついてくるモモ。ハイハイ、ちょっと待ってね。同じく捨てられずにいたフードボールにご飯を入れると、顔を突っ込みモシャモシャと、モモは食べ始めた。


「こんなに大好きなご飯だったのに、最後は全然食べられなかったもんね」


 食事中のモモの背中をさすると、涙が溢れてきた。



 私がもっと、自分の意志を通せていたら——


 モモの血尿に気づいたのは、2ヶ月前の事だ。その頃は今以上に仕事が忙しく、病院を訪れるのに少し時間が掛かってしまった。


 あの頃、少しでも早く休みを取っていたら。せめて、早退して病院に連れて行ってあげていたら。



***



「お母さん、ただいま! モモの調子はどう?」


「昨日と同じ場所にいるよ。ジッとしてる」


 ネコは死期が近くなると、冷たく暗い場所に行きたがるそうだ。モモは今日もリビング隅のテーブルの下にいた。


「じゃ、晩ご飯温めるね。今日も少なめでいいの?」


「うん、ありがとう」


 病院に行った翌日から、モモを実家で預かってもらっている。預かってもらってると言っても、モモが育ったのはこの家だ。私が一人暮らしを始める時、モモと一緒にこの家を出ていった。


「モモはずっとこの家にいた方が良かったのかな……」


「何言ってるの。桜がいなかったら、もっと早くにモモは調子を崩してたはずよ」


 ——桜とモモ。


 私の名前を付けるとき、両親は『桜』にするか『桃』にするかで悩んだらしい。それを知っていた私は、我が家にやって来たこの子をモモと名付けた。モモは男の子なのにも関わらず。



 結局、私はモモの死に目に一緒にいてあげられなかった。


 モモは亡くなる直前、大きな声で一度きり鳴いたそうだ。母は「きっと桜に、さようならって言ったんだよ」と言っていた。固くなってしまったモモをなでながら、私は何度もモモに泣いて謝った。



***



「ねえ、モモ。モモは今、天国で何してるの?」


 私の膝の上に乗るモモに訊いてみた。


 モモは答えるかわりに、喉をゴロゴロと鳴らしている。きっと、あちらでは心地よい生活をしているよ、という返事なんだろう。


「——バカだね私。折角なら、モモと話をしたいって願えば良かった。そう思わない? モモ」


 だけど……


 本当に話せたなら、私はモモに叱られていたかもしれないね。



 そんな夢のような時間は刻々と過ぎ、しばらくで日が変わろうとしていた。


「——桜さん、そろそろモモさんとお別れの時間です。モモさんとの時間はいかがでしたか?」


 ファヌの声だ。姿は見えないが、すぐ近くにいるのだと思う。


「まっ、まだまだ、まだまだモモといたい! せめて朝まで一緒に!」


「——すみません、桜さん。願い事は日をまたげないのです。お気持ちは分かりますが、お許しください」


 そんなセリフと共に、ファヌの姿がうっすらと浮かんでくる。ファヌはとても申し訳なさそうな表情かおをしていた。


「——じゃ、じゃあ、モモと一緒に眠りたい。それなら出来るよね? 昨日のように」


「分かりました、桜さん。——最後に訊いておきたい事などありますか?」


「……モ、モモは、怒ってるかな? 私の事?」


「怒ってなんかいませんよ。桜さんとまた逢えて嬉しい、そう言っているように思います」


 ファヌのその言葉に、私はギュッとモモを抱きしめた。


 そしてファヌが「おやすみなさい」と言うと、昨日同様深い眠りへと落ちていった。



***



 ん……まぶたが重い。


 起床して洗面所にいくと、自分でも驚くほど目が腫れていた。


「え……? 昨日は何してたんだっけ……」


 不思議な事に、昨日の記憶がうっすらとグラデーションのように色を付けて甦ってくる。


 ——そうだ。


 あまりにも会社に行きたくなくて、初めてのズル休みをしたんだっけ。


 一人でご飯を食べるのも寂しいし、モモのお皿を出してきて、モモとの思い出に浸ってたんだ。カタチだけでいいのに、モモが好きだった缶詰まで開けちゃって。「何やってたんだろう私」と、腫らした目でフフフと笑った。


 昨日、会社を休んだ時点では、今日からちゃんと出社しようと考えていた。


 だけど今、退職届をパソコンからプリントアウトして辞表を書いている。昨日泣きはらした事で、自分の中で何かが変わったのかもしれない。


「モモ、ビシッと退社キメてくるね! 行ってきます!」


 簡単な朝食を取った後、モモに告げて家を出た。



 そう言えば……


 開けた缶詰の中身はどこにいったんだろう……?


 私が食べた? フフフ、まさか……ね。




(01:桜とモモの章)

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