4.友人

 食いちぎられた腕を、優しく包むように帯状の呪符で包む。


 この先、荷物を持ち歩く余裕はない。だが、そのまま地面に置くこともはばかれる。呪符を使えばある程度状態は固定できる。これで虫がたかることは防げるだろう。腕はこの場に置いていくしかなかった。


 近場で一番大きな木の根元に、呪符で巻いた腕を静かに横たわらせる。小さな手が物寂しそうに見えたため、私は腕に手を添えた。私が到着するのがもう少し早ければ、このような事態にはならなかったのだろうか。そんな後悔と呪符越しの冷たさを感じながら、そっと告げる。


「必ず、連れて帰るから。ここで待っていて」


 腕だけになった少年に言葉は届くことはないだろう。それでも、口にせずにはいられなかった。これは、『少年をどんな形であってもあの村に帰す』という自分への誓いの言葉でもあった。




 抜き身の刀を手に、あの横穴の前に立つ。疑いたくはない。だが、今この場にいる妖怪で、外観の特徴が一致してしまっている。それ故に、彼女を警戒せざるを得なかった。


 横穴に足を踏み入れる。あの日以来の訪問。匂いも変わらず、土と草の匂いで満たされている。この雰囲気に、安心感さえ覚えた。


「まだいる?」


 そうして、期待と不安を半々に、声をかけた。奥の方で大きな影が動き出す。人狼の彼女が、あの時と変わらない様子でゆっくりと姿を現した。


 彼女の表情は毛に覆われている影響か読みづらい。だが、怯える様子はなく、私であることに気付いてむしろ安心しているような雰囲気すらあった。


「ど、どう、したの?」


 彼女はこちらに問いかけてくる。たどたどしくも、以前よりはちゃんとした発音ができている。まだ話し慣れていないせいだろうが、少なくとも練習していたであろうことは伺えた。


 彼女の口周りを見る。以前と何も変わらない、濡れた様子すらない綺麗な状態だった。


 それに気付いた私は、息をつき肩の力が抜ける。最悪の状況ではなさそうだと安堵した。少しでも疑ったことで罪悪感に包まれてしまう。


 それから、私は刀を握り直す。刀を握っていない左手には、袖から呪符を一枚取り出して指に挟んだ。


 そして、彼女はこちらを見て目を見開いて叫ぶ。


「うしろ!」


 僅かな土を踏む音と、微かに漂ってきた血生臭さから、『それ』には気付いていた。私は気配に気付くと息を吸い込み、意識を切り替える。


 背後からの殺気。無意識に呼吸が止まり、振り返ると同時に身を後ろに倒した。本来であればそのまま倒れるような体勢。だが、体幹の強さから、私の背が地面につくことはない。飛びかかる『それ』の攻撃は、私の動きに対応できず、そのまま空を切った。そのすれ違い様に、腕を振って呪符を投げつける。すると、呪符は『それ』にぴたりと貼り付いた。『それ』は何をされたのか理解する時間もなかっただろう。私は封印術を起動し、対象を拘束した。


 私が用意している呪符はある程度応用が利くように作ってある。簡易な封印術と呪術であれば私の意思で発動する術を選択できた。


 拘束した『それ』は、脱力しながらも腕を動かそうともがいでいる。『それ』の正体は、妖怪化して人ほどの大きさになった猿であった。ここでは便宜上『妖猿ようえん』と呼ぶことにする。正体が分かったところで、私はようやく息を吐くことができた。


 妖猿の口周りは赤黒い。身体の返り血も洗い落としていないようで、所々血の跡が残っている。何が起こっているのか理解が及ばないようで、困惑の表情を浮かべていた。犯人はコイツで間違いないだろう。


「その奥で待っていて。コイツは始末しておくから」


 私は人狼の彼女にそう告げると、妖猿の頭を掴み横穴の外へ放り投げた。彼女に凄惨な場面はあまり見せたくないのも、移動させた理由の一つだ。だが、他にも理由はあった。


「お前、少年はどうした?」


 私は頭を掴み、首元に刀を突きつけながら妖猿に問いかける。腕だけを捨てられた少年が最終的にどうなったのか。事態を解決する立場として、始末する前に知る必要がある。


 だが、妖猿は協力的な様子はない。赤黒く染まった口元が歪み、堪えるような嘲笑は次第に大きな笑い声に変わる。そして、笑いが収まったのか、妖猿は私に吐き捨てた。


「ククク。ほっそい雌かと思ったあの餓鬼か。非常食にもならなかったよ。肉を食いちぎったら五月蠅うるさくて殺しちまった。死体はどこだかねえ。忘れちまった」


 その言葉を聞いた私は、心の奥にある冷徹な部分が表に出始める感覚を覚えた。ただの弱肉強食であれば、一瞬で殺してしまっていたかもしれない。だが、腕を捨てた時の笑い声と、ここでの発言から、昔の情景を思い出した。


 幼い頃、父と共に遠征してみた時のことだ。当時から呪術士の才能こそ評価はされていたが、実際に呪術士になる気はあまりなかった。妖怪も、禁術士きんじゅつし(呪術士の犯罪者の総称)も、ただ恐ろしい存在でしかなかったからだ。


 そういったものは自分に関わりがないものだという心持ちであったのだ。だが、元々訪れる予定であった村が、妖怪と禁術士に襲われ廃村となっていた。どちらが先に襲ったのかは分からない。ただの野盗の真似事や、妖怪によって食い散らかされていただけならまだいい。


 その村では、言葉にするのもはばかれるような、死体を弄んだような形跡がいくつも見つかった。禁術士の仕業と思われる形跡。妖怪によるものと思われる形跡。両方ともあったことが、信じられなかった。


 奴らにそうする理由はあったのか? そこまでして得たかった物は何なのか? それで奪った結果、弱者に残るものは何もない。苦痛、恐怖、怒り。そんな犠牲者の表情を見て、当時の私は拳を固め、血が滲んだ。


 強者が、弱者から必要以上に奪うことに、おぞましさを覚えた。


 思い出すだけでも忌々しい。幼いながら、それを見た私は、強者が弱者を弄ぶ所業を、許すことができなかった。


 弱者をこうはならせない。強者をこうはさせない。あの時、そう自分に誓った。


 幼き記憶を思い出したことで、身体の奥から、血が沸き立つような感覚に襲われる。弱者をもてあそやからが許せない。弱者は、強者にいたぶられることはあってはいけない。


 一瞬奥歯を噛み締めた後、ゆっくり息を吐いた。鬼の如き表情になりかねないところを、鎮めていく。


 短い沈黙。自分が落ち着いたことを見計らい、妖猿に対して低い声で礼を告げた。


「ありがとう、初心を思い出せたよ」


 妖猿の頭を掴んでいた手を離し、袖の呪符を一枚取り出す。刀で自分の人差し指を切りつける。指先から溢れる熱。滲み出した血を使い、指先で呪符に少し追記を施した。傷口を刺激するため鋭い痛みに襲われる。だが、襲われた人や少年が負った痛みを考えると、こんなものは些細なものだ。無視してしまえ。


 書き終わった呪符を素早く乾かして、それを手の内に丸める。妖猿の口を無理矢理開き、中へ押し込んだ。


 嚥下えんかするのを見届けた後、別の呪符で口を封印し、私は妖猿に告げる。


「今飲み込ませたのは一粒符いちりゅうふの一種だ。人間の間では飲むお守りとして扱われることもある。今回は、肉体を内側から蝕む呪いをかけた。

 お前の末路を教えようか。動くことも悲鳴を上げることもできないまま、呪いで苦痛にもだえながら死ぬ」


 この言葉を聞き、妖猿の表情は青ざめていく。奴の不幸は、この場に来たのが私だったと言うこと。


 本来であれば、すぐに斬り殺していたかもしれない。だが、今はどうしても心の中の鬼を完全に鎮めるために、苦しませて死なせてしまいたかった。


 妖猿は叫ぶことも、動くこともできない。震えることしかできない妖猿を、私は山奥の人気のない場所に投げ捨てた。その最後を見届けたことで、私の中の鬼はやっと落ち着きを見せた。




 彼女の元へ戻ると心配そうな表情をされた。少し感情に鬼が残っていたのかと思い反省する。


 彼女は、弱者だ。強者である私が彼女にするべきは庇護だ。決して弄び、蹂躙するべき存在ではない。


 本来は関わってはいけない存在であることは分かっている。だが、それでも私は放っておけなかった。


「大丈夫、もうアレはここに来ることはないよ」


 きっと怯えさせた。そう思っての言葉だった。だが、彼女の反応は想定とは違った。


「ころ、したの?」


 彼女は、あの妖猿の末路を気にしていた。私は言葉に詰まる。見せたくないと思い、引き剥がしたのだが、結局は教えないといけない。はぐらかしたところで、こればかりはごまかすことはできないだろう。私は素直に、何をしたのかは伏せながら答えた。


「……そうだね。人に危害を加えていたら、私たちは放っておくことはできない」


「そっか。そうだ、よね」


 彼女は私の回答を分かっていたようだ。うつむきながらも、納得はしていた。


 ここで、私はかねてから考えていた事を告げた。


「さっきのこともあるし、ここは安全じゃない。別の、安全な場所に移動してほしい」


 先ほどの妖猿、私以外の呪術士。彼女にとって危険な相手は山ほどいる。私もいつまでもこの場に通えるわけじゃない。ここ以外で住めるのであれば、そうするべきだ。


 だが、私は考えが足りていなかったことを思い知る。


「べつの、あんぜんな、ばしょって、どこ?」


 彼女のこの言葉で、気がついた。彼女は何が危険なのか分からないだろう。


 彼女は何年もこの場にいて、妖怪にとって危険な存在が何なのか知識を持っていない。命を狙われたときの戦い方も知らない。元が奴婢ぬひだから、読み書きも計算もできないだろう。


 安全な場所なんてよく言えたものだ。そこが安全になるのは、そこをねぐらにできる存在だけだ。


 自分の考え足らずに腹が立ちながらも、一つ決心がついた。


 私は両手で彼女の手を取り、そして告げる。


「分かった。これから可能な限りここに通って、貴女に色々教える。安全な場所は、教えられることを教えてから探そう」


 彼女には教育が必要だ。生きていくために。長い時間を過ごす妖怪であれば、どんな些細なことでもいつか使われる時が来るだろう。


 彼女は突然言われた教育宣言に対して、戸惑っているような表情を見せる。


 本来であればここまで関わってはいけない。でも、私は無垢で無知な彼女を放っておくことは出来なかった。


「そういえば、名前は? 私はカンナだ」


 これから、彼女としばらく関わり続けることになる。会った当時は名前をあえて聞いていなかった。ここまで深入りする想定ではなかったからだ。だから、呼び方を確認したかった。


「わたしに、なまえはないよ」


 産まれながら奴婢ぬひとして育てられたという彼女に、名前はなかった。奴婢ぬひは多少は呼び方を決められていることもあるのだが、彼女の育て親はそういうことはしなかったようだ。


 だから、私は少しだけ考えて、指先で地面に文字を書いた。それをじっと見つめる彼女。文字を書きながら、私は言う。


「呼び方に困るから、名前をあげるよ。他の文字は後日教えるとして、今はこれだけを覚えて」


 私が書き上げた文字は、『真奈まな』。これは、私にとっては懐かしいものであった。


「真奈、私の幼名だよ。そのままあげる。これからは貴女の名前だ」


「まな……」


 名前を呟く真奈。それを何度も繰り返し、次第に涙を浮かべた。


「なんだか、もらってばかりだ……」


 それを見て、私は思わず真奈を抱きしめていた。抱きしめながら、普通の家族であればこうしているのだろうかと考える。私は呪術士の家系であるが故に、こんなことをされた記憶がない。なのに、どうして自然とこんなことができたのか不思議であった。


 私は、家で呪術士として扱われることが大半だった。一人の人間、靈山りょうざん神流かんなとして見られることはほとんどなかった。このことが、影響しているのだろうか。


 自分は、その答えが分からないまま、自然と真奈の頭を撫でていた。




 私は、少年の遺体を捜すついでに、この横穴に通い続けた。他の人たちには、危険な妖怪が二度出入りしていることを引き合いに出して、近寄らせないようにしていた。


 真奈の住む横穴には偽装結界という特殊な結界を張っておいた。これは何かを隠したりするときに使う結界で、本来その場にないものを見せかけることができる。他の結界と組み合わせることで、ある程度は彼女の安全を担保できるだろう。


 遺体探しは絶望的ではあった。形跡が見つからず、虫や獣も多いこの場所ではあっというまに白骨化するだろう。腐臭もほとんど漂ってこないため、捜索は難航していた。


 一方、真奈への教育は順調であった。読み書きや計算は、基礎中の基礎だけ教え、あとは簡単な教材を作って置いてみた。


 仮名文字の見本は木材を削って作った。計算は適当に石ころを集めてから教えた。筆記用具は持ってくることはできないので、木の枝を使って地面に文字を書くようにした。


 すると、真奈は字の練習や、自分で考えた内容が合っているのか聞いてくるような勉学に意欲的な様子を見せてきた。地頭もいいのか、教えることはどんどん吸収していった。


 そうして、三ヶ月ほど経った頃、ある程度の漢字を含めた簡易的な読み書きと、生活に問題が起きない程度の計算は問題なくできるようになった。


 計算は実際に使うかどうかは分からないが、何らかの理由で物々交換をする際にでも、数も数えられなかったら話にならないだろう。騙されるようなことは、なるべく起きてほしくなかった。


 あとは今の世の中の情勢について教えた。


 現在の貨幣や権力の構造について知らなかったら流石に不味いことになる。


 貴族をはじめとする権力者、宗教関係者の知識を与えた。特に周辺の権力者に下手に接触すれば、すぐに呪術士が送られる可能性が高まる。呪術士は妖怪退治や禁術士の取り締まりを生業とする。呪術士には妖怪を相手に善悪を考えるような相手はほとんどいない。場合によっては即座に攻撃されるだろう。


 こうして考えると、私は呪術士の中でも変わり者だ。真奈や千歳を悪性がないからと始末していないのだから。


 そして、妖怪からしては危険な場所についても教えた。京の都には、裏宰りさいという呪術士の組織が作られている。裏宰りさいは朝廷直属の組織だ。彼らは特に妖怪たちを敵視しているため、都は妖怪にとって死地でしかない。だから、近寄らない方がいいと教えた。




 最後に、護身のために自分が扱える体術を学ばせる。彼女は元々が奴婢ぬひであるため、戦う発想がなかった。そのため、何かしらの武器になるものを教える必要があると考えた。武器術は何かしらの道具が必要になる。そして、その武器が合わない場合は逆に不利になってしまう。だから、武器術を教えるのは避けた。


 私は自己流の体術を真奈に教えた。これは禁術士相手に武器がない時を想定して考えたものだ。実際、何度かこれで命を拾った場面がある。武器持ち相手を想定した動きもあるので、彼女にはちょうどいいだろう。


 そうして体術を学ばせていると、一つ気付く。彼女の異常な身体能力だ。自分がやる場合だと術との併用でなんとかする動きでも、彼女は平然とやってのけた。彼女は自分の膂力を把握していなかった。妖怪になった時点で、人間という枷が外れてしまっていたのだろうか。山暮らしという自然と肉体を酷使する環境も、強くなった要因だろう。振るう機会がなければ気付く道理もなかったということか。


 彼女がもし悪性の存在であったならば。この膂力を悪意を持って振るったならば。私でも対応に苦労したかもしれない。そう感じてしまうほどのものだった。




 これから、真奈に教えることがなくなったとき、彼女はどこかに旅立つだろう。それが誰も不幸にならない結末のはずだ。真奈に、これ以上の不幸が降り積もることがなくなるように、願わざるを得ない。


 そして、彼女と出会ってから半年が過ぎた。出会った時から梅雨は明け、夏は過ぎ、寒気が迫ってくるのを感じ取る。


 真奈とは呪術士と妖怪の関係としては、あってはいけないほどに親交が深まってしまった。友人と呼んでも差し支えないだろう。


 彼女に教えられることはもうほとんどない。読み書きも計算も、常識的な知識や体術も基本的なことは習得できている。もうすぐ真奈との関係も潮時かと考えるようになった。


 だが、最悪は、すぐ後ろで、嘲笑うように息を潜めていた。それに気付いた時には、全てが手遅れであった。

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