ワイルドハントの娘たち
麻美ヒナギ
<序章>
かの国の騎士は、死して不死の獣となる。
風の年代記、法魔ガルヴィングの言葉。
<序章>
ゆっくりと流れる青空を見ていた。
雲一つなく天候は穏やか、空気は温かく日差しは柔らかい。平野には、地平線まで続く黄金の麦畑。
豊穣の季節だ。
戦火の残り火が燻る中央大陸だが、こういう一部分だけを見たら平和そのもの。
実に、眠気を誘う。
「当ててやろうか?」
「なんだ?」
馬車の手綱を握る農夫は、空の荷台に寝そべる俺に話しかけてきた。
「あんたの生業だ」
農夫は若い男だった。この辺りが景色通りに平和なら、刺激や話のネタが欲しいのだろう。
「魔法使いだろ?」
「違う。この帽子もローブも伊達だ」
「杖もかい?」
「これは、弦張ってない弓」
「剣も伊達かい?」
「まあまあ、本物」
「なるほど、冒険者だな」
「違う。あんなゴロツキと一緒にするな」
「傭兵?」
「だった時もある」
「ならばなぁ~」
農夫は、考えながら沈黙する。
俺は、面倒になってきた。しかし、荷台から降りるのはもっと面倒だ。土地勘もないので、目的地に足だけで到着できる自信がない。
「自由騎士。いや、元騎士?」
「笑えるな」
一番ない。
「ああ~わかった。密偵だな」
「あんた、それ当たっていても正解言わねぇだろ」
「じゃ、当たりか」
「外れだ。こんな目立つ格好した密偵がいるか」
大体、どこの密偵だよ。
この辺りで何を調べるんだ。
「ところで、あんた男だよな?」
「男だ。立派なイチモツがあるぞ」
「ははっ、そういう趣味はないよ。………大道芸人はどう? あるいは、道化師。吟遊詩人には見えないよな。語りだけでやるタイプなら~」
「そんだけ言ってりゃ、いつか当たるだろうよ」
「ヒントくれよ、ヒントを」
馴れ馴れしい。
「狩人だ」
「………はあ?」
「狩人だ。以上」
自称だが、正解を言ってやった。
「ここいらの害獣っていったら羽根ウサギ程度だが、おいらでも狩れるぞ」
「狩りに来たんじゃねぇよ」
狩人の仕事は引退した。
この近辺に来た理由は、うまい話しに飛びついただけ。
「で、矢はどこだい?」
「今は品切れだ」
話聞け。
「じゃあ、何をするんだい?」
「貸しのある知り合いが、畑付きの家をくれるって話だ。そこで余生を過ごす」
「家? その話、詐欺じゃないのかい? この辺りの土地は全部【ラインズブル家】のもんだね。おいらたちも借りてるだけのことさ。借家ならともかく、よそ者に家をくれてやる理由はないなぁ~。もしかして、身内?」
「その【ラインズブル家】ってのは知らないが、コネがあるんだろ。俺の知り合いが」
「へぇ~そうなのかい」
「たぶんな」
知らんが。
詐欺や騙りの可能性もある。それはそれで面白い。
あ~駄目だ駄目だ。
荒事は止めて静かに暮らすと決めていたのに、性分がトラブルを期待している。
「………………」
農夫は、急に黙った。
手綱を握ることに集中している。
のろのろと老馬は馬車を引き、鈍足で風景は流れる。これから毎日、この景色を飽きるほど見るのだろうが、そう思っても悪くない。
もっと悪いものを毎日見ていた。
そして、日常的にゴミを見続けていた俺は、ある日全てにうんざりした。擦り切れ続けていた心に限界が来たのだろう。
そんな時に届いた手紙には、地図と共に『今すぐ【黄金の森】に来い。住まいと畑を用意した』とあった。
差出人は、ウェズロー・ラ・ティルト。
貸しのある男だが、手紙を受け取るまで忘れていた。
ただ、それだけの関係である。それを真に受けて、遠出した俺も大概馬鹿ではある。
目的地、【黄金の森】は、中央大陸の南西部に位置する。
この中央大陸で、かれこれ8年ほど過ごしているが、聞いたことのない場所だった。
まあ、森だ。
沼や山より住む場所はあろう。周囲が、この田園地帯なら“おこぼれ”で良い土地のはずだ。
希望は十分ある。
「あ~見えてきたよ」
体を起こした。
農夫が言う先に、件の【黄金の森】があった。
黄金とは名ばかりの、鋼に見紛う黒く巨大な樹木が並んでいる。森というよりか、巨人を閉じ込める鉄檻のようだ。
「じゃ、ここで降りてくれ。あそこには近付きたくねぇんだわ」
「どうしてだ?」
「ひいひい爺さんの頃から、あの森には近付くなって言われていてさ。たま~に、あんたみたいに森に行く人間はいるんだが、戻って来た人間を見たことがない。地元の人間だけじゃなく、冒険者のパーティ、傭兵の集団、お偉い騎士様、聖女様、法王様に魔法使い。後、狩人も追加かな」
「元だ」
「元狩人ね。家がどうこうって話、森の外じゃないよねぇ。ここらで見たことねぇから」
「だろうな」
視界に家らしいものはない。田畑が続くだけ。
「ま、明日またこの辺り通るから、逃げてきたら拾ってやるよ」
「わかった。頼む」
俺は、荷台から降りた。
周囲は、枯れた平地だ。草一本もなく寂れている。
「じゃぁぁな~」
来た時の倍の速度で、農夫の馬車は去って行った。トロトロ進んでいたのは、なんか探っていたのだろうか。
それよりも、
「不安だな」
詐欺の匂いが濃くなってきた。
農夫の言う通り、ちょっと森を覗いて怪しかったら逃げようか。
帰る場所なんざないが、いつも通り適当に野盗やゴロツキを襲って生計を立てればいい。
人生、変えようと思って変えられるもんじゃないな。ままならねぇ。
とぼとぼ重い足取りで、森に向かって進む。
少し近付くと、木々の巨大さに面食らった。
一本一本が、中央大陸によくある物見の塔の3倍、いいや4倍の高さだ。太さも、その倍はある。枝葉は、天を覆い尽くす影になっていた。
そんなものが、森として体を成しているのだ。
思考が追い付かない巨大さ。
圧倒されつつも足は止めずに進む。進み。進み。
「………………」
全然、森に近付く気配がない。
「仕方ない」
走り出した。
あんな森の近くで、夜を過ごしたくない。早く様子見して去ろう。
どんな場所かわからんが、ああいう人知が追い付かない場所には、人知から外れた奴が住んでいる。
関わって得することはない。
てかもう、
「帰るか」
面倒になって足を止めた。
「もし、そこのお方」
と、同時。
死角から声をかけられる。無警戒だったので、猫のように驚いた。
若い女が立っていた。
年頃は、15、6。
長く癖のない黒髪で、頭頂部にはウサギのような長い獣耳がある。目鼻立ちは獣人女らしく整っており、身に纏った仕立ての良い白いローブも相まって、神官のような落ち着いた雰囲気がある。
獣人は見た目と年齢が合わないことが多々ある。この見た目で、30とか40の可能性もあるし、もっと下の場合もある。
「森に行くなら止めた方が。あそこは、流民と死者の集まる場所です」
「流民と言うなら、俺もそうだ。爺に呼ばれた来たんだが、この先であっているんだな?」
「危険なのです。本当に」
「大丈夫だ。それならすぐ帰る」
軽く手を振り、女を横切る。
「待ってください。せめて警句を」
「警句?」
女は、手を組み祈る。
やはり、どこぞの巫女か、神の奉仕者なのだろうか。こんな場所で何をしているのやら。
「狩りの月夜は、外で眠るのが良いでしょう。矢の用意をお忘れなく。善き獣と、悪しき獣との縁。決して、お間違えないように」
警句というより予言じゃないのか?
「よくわからん」
「警句とは、わかりにくいものですから」
女は花のような笑顔を浮かべて、どこかに去って行った。
ここの人間じゃないのか? どうせなら、爺のところまで案内して欲しかったのだが。
少し歩くと、田畑が見えてきた。
変な配色の畑だ。
赤、金、紫、白、黒、緑。野菜に関して詳しくはないが、季節感を無視して様々な色の野菜が同時に存在している。
狂い咲き、なのだろうか? そんな言葉じゃ足りない気もする。
となると魔法だろうな。
非効率なことだ。
後々、どんな禍害に襲われるのやら。
色とりどりの畑を横切ると、大きな家が見えてきた。
木造の荒っぽい作り、芝生のような緑の生えた三角屋根。
30人くらいは入れそうだ。古い時代の王の居城と言われれば、頷いてしまう。
しかし、1人で住むにしては大きいな。
てか、あの畑も俺1人じゃ手入れが大変だ。農夫に貸すか? あんな変な畑だが。
「う~ん」
ちょっと嬉し困るな。
色々と今後のことを妄想していると、
「来たのか、ヒユ。遅かったな」
デカイ爺が現れた。
身長は2メートル近く。禿げた頭部と、もじゃもじゃの黒髭。手足は丸太のように太く、胸板は重鎧の厚さ。腹は、前に見た時よりもでっぷりと膨らんでいた。
長ズボンとチュニックという農夫の姿じゃなければ、熊と勘違いする人間もいるだろう。
「ウェズロー。手紙1つでこんな辺境まで人呼びつけやがって、遅いもクソもあるかよ。ボケ爺が」
「どうせ、やることもなく寿命を無駄遣いしていたんじゃろ。文句言ってる暇があるなら、さっさと来い。カスガキが」
相も変わらず、腹が立つ奴だ。
だがしかし、
「てめぇの不愉快なところ、今回だけは我慢してやる。思ったよりも立派な家と畑じゃねぇか。俺1人じゃちょっと広いが」
早速、家に向かおうとする。
「何を勘違いしている」
爺に止められた。
「あ?」
「そこの家は、儂と女共の家じゃ。お前のはこっち」
「は?」
家から離れ、爺と共に森の傍に行く。
木々の巨大な影の中に、ポツンと小さい家があった。
円柱状の壁と、三角錐の屋根。キノコみたいな形。煙突は曲がっていて、窓は小さく人の頭サイズ。少し離れた場所に、便所の小屋がある。
「ほれ、お前の家だ。立派じゃろ?」
「犬小屋にしてはな」
足伸ばして眠れるのか?
「いいから入ってみろ。古いが十分住める」
爺は、家の扉を開けた。
中は思ったよりも広かった。壁際にベッドが1つ、タンスが1つ、かまどが1つ。追加で家具を置くスペースもある。
天井が高いせいで、広く感じた。
全体的に埃が積もっているも、床板は外れていないし、壁に穴も開いていない。
十分、住めるとは思う。
「掃除はてめぇでやれよ。うちの女共に命令するんじゃねぇぞ」
「爺の女に頼むかよ」
「アホが。全部弟の女じゃ。あのボケが、カミさんや娘を残しておっ死にやがって」
「面倒な話か?」
「面倒な話じゃ」
「じゃ、どうでもいい。で、俺の畑は?」
「この辺りを好きに使え」
家の周囲を見る。
雑草まみれで畑らしい場所はない。そも、森の巨木のせいで日陰なのだ。
「おまっ、育つわけねぇだろ」
「いいから耕して植えてみろ。ここらの土地は、豊饒の女神の祝福を受けている。素人の土いじりでも豊作になるのじゃ」
「うさんくせぇ」
それが本当なら、ここには国が出来てる。
「神の奇跡を疑うか。相も変わらぬ不心得者じゃな」
「神の奇跡がなけりゃ、作物は育たないのか? 違うだろ。必要なのは、人間の手間暇と経験と技術だ」
「どれもないお前が言うか」
「やかましい」
正論は止めろ。
「さておき」
「さておくなよ」
「お前の仕事じゃ」
「ふざけるな、聞いてないぞ」
「タダで家と畑が貰えると思っていたのか?」
「………………」
やっぱり詐欺じゃねぇか。
爺は、森を指す。
「あの森には獣がいる。ここ最近、急に森から出てくるようになった。お前にはそれを追い払ってもらおう。言うなれば、この家は獣の監視小屋じゃな」
その程度なら問題ない。
と、言いたいところだが。
「どんな獣だ?」
「お前が、よく知ってるやつじゃ」
「ふざけっ」
弓を持つ手に力を込める。
すぐ緩めた。
違う違う。そうじゃないだろ。うんざりして別の生き方を探している最中だろ。これを使ったら、また元に戻る。
しかし、断って去っても、結局は元の生活だ。
「………追い払うだけ、だな?」
「そうじゃ」
「その程度ならやってやる。その程度だぞ? それ以上求めたら蹴り入れるぞ?」
「構わん。だが請け負った以上、途中で逃げるなよ」
「ハハっ」
笑える。
どこに逃げようっていうんだ。
爺は、飯の用意がどうこう言って去る。
俺は、家の掃除を開始した。
入口と窓を開け、外に出せる家具を全部出し、弓にマントを巻き付けた物で埃を払う。
一通り家の中の埃を払った後、モップと雑巾とバケツを見付ける。家の裏手に行くと、井戸を見付けた。
動く前に周囲を確認するべきだった。
後悔しながら、濡らした雑巾で家具を拭く。
ざっと適当にやって、家具を戻した。埃まみれのマントを濡らして、地面に刺した弓にかける。
日陰だが、風が吹いてるのですぐ乾くだろう。面倒になったら、火に入れてしまえばいい。
家に入り、帽子を脱ぎ、着古した黒い革鎧も脱ぐ。クソ重い剣をベルトから外し、床に捨てる。
ベッドに腰を降ろして一息ついた。
掃除なんて久々にやった。
凄く疲れた。
長く鬱陶しい黒髪が首に張り付いて不愉快だ。タンスを漁るが特に何もない。生活するには、色々と買い揃えないと。
金とか全くないのだが、野菜育てて売るか? 誰が買うんだ? そんな交渉とかしたことないが、俺がやらなきゃいけないのか?
面倒くさい。
ああ、面倒くさい。
生きることが面倒くさい。
ノックの音がした。
爺と思って、乱暴に扉を開ける。
「きゃっ」
驚いた様子の少女がいた。
金髪三つ編み、あどけない顔にはそばかすがある。くすんだ白のブラウスと、革のスカート。手提げ付きのカゴを持っていた。
「なんだ?」
「おっ、叔父様から夕飯を持って行くようにと」
「ああ、助かるよ」
カゴを受け取り、中身を確認。
丸く大きなパンとチーズ、赤ワイン、瓶詰の野菜の酢漬けが入っていた。
「?」
用がすんだのに、少女は帰らない。
俺が嫌いな俺の顔を、まじまじと見ている。
「あの、戦争の英雄なんですよね?」
「俺は、戦場に出たことはないよ」
「え? 沢山の騎士を倒したって聞きましたけど」
「半分事実だが、戦場で殺したんじゃない。一時期、西へ東へ大所帯で逃げていた」
今も、別の理由で逃げているけど。
「その時、何故だか騎士に狙われ続けたから、追ってこなくなるまで殺し続けた。それだけの話だ」
「叔父様が【ワイルドハント】って呼んでいたのは?」
「勘違いだ。それは、俺の名声でも名前でもない」
「は、はあ」
思っていたのと違う。
そんな顔して少女を去って行った。
あ~はいはい。よくあるやつ。勝手に俺に期待して、実体みたらガッカリするやつ。ホントもう、勘弁しろよ。
俺がいつ自分で英雄と名乗った? 一度もねぇよ。なりたいと思ったこともねぇ。お前らが勝手に持ち上げて、騒いで嘆いて逃げただけだ。
クソッたれ共め。
てめぇらが――――――
「………………」
深呼吸、深呼吸。
手を開いたり閉じたり、両手を上げたり下げたり、スクワットもして落ち着きを取り戻した。
ガツガツ飯を食う。
パンは硬く重く酸っぱく、チーズはそれより硬いが、味はまあまあ。酢漬けの野菜もまあまあ。最後にワインを一気飲み。水で薄めたようなワインだった。
2日ぶりの食事なので、異常に美味く感じた。
気を抜いたら、急激に体が重たくなる。
眠い。
長旅の疲労で限界のようだ。
「の前に」
一応、渋々、嫌々、仕事をしておこう。
外に出て、乾いたマントを羽織り、弓を手にする。
この弓には、普段は畳まれている小枝のような“節”が6つある。その1つをへし折り、自分の手のひらを刺した。
たっぷりと血が付いた小枝を手に、森に近付く。
巨大な黒い木々は、間近で見ても木には思えない。触れると木の感触ではある。上には枝葉もある。
幹の太さは、さっき手に入れた我が家の3倍はあるか。これをくり抜いた方が、良い家になりそうだ。
高さは、100メートル近いな。この世界の建造物で、これ以上の物はそうない。
「………………」
違和感を覚えた。
木々のどれかか? 上? 下? いいや、森全体だ。
生き物の気配がまるでない。植物は青々と茂っているも、他の生物の動きがなにもない。
耳を澄ましても、虫の声1つしなかった。
自然の産物としては、あまりにも異常だ。
こんな場所から出て来る獣か。
「………はぁ」
考えただけで、うんざりだ。
森から3歩離れた位置に、血の付いた枝を地面に刺す。
境界だ。
これ以上、近付くなら戦うという意思表示。
獣は人と違う。
あいつらの根底は飢えを満たせればいいだけで、戦闘を望む個体は稀なのだ。
ただし、俺が境界を越えたら容赦なく襲ってくるだろう。そういう意思表示でもある。
働いた気になって帰宅。弓とマントをタンスの上に放り投げる。
さて、寝よう。
寝ていいよな?
あの爺、俺に不眠不休で森を監視しろとか言わないよな? 絶対やらないけど。
ベッドに横になる。
硬くてかび臭いが、目をつぶるとすぐ夢の中に落ちた。
飽きるほど見た夢を見る。
冷たい牢獄に繋がれた女の夢。
憎しみの炎だけが、彼女を寒さから守っていた。
ぶつぶつと呪文のように憎悪を言葉にする。ある男への呪いの言葉。中身は、ほとんど聞き取れない。だが、憎しみだけは伝わる。
夢は、俺の世界ではない。この女のものなのだ。
数百年も前に死んだくせに、迷惑この上ない。何度も何度も俺の安眠を妨害してくる。おかげで、この10年健やかに眠れたのは数えるほど。
今日もまた、この呪いに付き合って朝を――――――朝になる前に目覚めた。
ベッドから飛び起きる。
反射的に弓を手に、いや手放して剣を持つ。
乱暴に鞘を落として外に出た。
扉を開けると、一歩先も見えない重たい夜闇。迷わず飛び込む。
意識を集中させ、夜目を働かせる。
耳を澄ます。風から気配を探る。
影の隙間から三つの月が見えた。
時刻は、深夜も深夜。
獣の時間だ。
深い青の世界は、昼間よりも見通せる。だが、森の奥は見通せない。闇よりも強い力が視覚を遮っていた。
音は、異常なまま無音。
風は、生臭い血の匂いを漂わせていた。合わせて、臓物の悪臭と刺激臭。
木の1つに、手が巻き付く。
青白い人の手だ。そのサイズは、我が家を握りつぶせるほど。まるで死んだ巨人の手。
手の本体が、不確かな影を見せる。
枝分かれした長い角と、地面に立つ四足。無数の棘。巨木に負けず劣らずの巨体。
影は、境界間近まで進む。姿形が明らかになる寸前で停止した。
剣1つで、どうにかなる相手じゃない。
それ以上進むな、止まれ、帰れと祈る。
「………………」
長い静寂の後、獣は引き返した。
緊張が解けて、一気に汗が噴き出る。息が乱れる。気配が完全に消えるまで、呼吸できていなかった。
「とんでもない。“お隣さん”だな!」
あのクソ爺が! ふざけんなよ!
「クソっ!」
地面を蹴る。
うだうだ考えるのも腹が立つ。
帰宅してベッドに入る。頑張って寝るしかない。
酒で頭を馬鹿にしたいが、そんなもんあるわけもなく。結局、空の色が変わりだしてからようやく眠れた。
と、思ったらすぐ起こされた。
乱暴なノックの音だ。
昨日の少女かと思ったが、開けたら太い女が立っていた。
歳は30くらいか? 豊かな金髪で、肝っ玉が強そうな顔つきだ。
恰好は昨日の少女と同じ、ブラウスとスカート。ガタイはよく、胸も尻も厚い。だが、太っているのではない。骨格に恵まれているのだ。
「起きてるね! その様子じゃ、仕事はしっかりやったようだ!」
声デッカ、頭痛っ。
「何の用だ?」
「朝飯さ!」
カゴを渡される。交換で昨日のカゴを返す。
「どうも」
「昼飯はどうすんだい!」
「食う。でも、家の前に置いておいてくれ」
「羽根ウサギに取られても知らないよ!」
「追い払うから大丈夫だ」
「そうかい! 今夜も頼むよ! 久しぶりに安定した収穫が望めそうなんだ!」
「………………」
扉を閉める。
朝飯は、お椀に入った豆のスープだった。クズ野菜も入っている。
味はわずかな塩味。
こっちじゃ、味があるだけでも贅沢なのだ。文句はない。タダ飯だし。いや、労働の対価か。
割りに合っているのかは、深く考えないでおこう。
さて、二度寝。
目をつぶるも、眠れなかった。睡眠不足は自覚しているのだが、神経の変な高ぶりで眠れない。まだ環境に慣れてない。そも、俺は環境の変化に弱いのだ。
何か手を動かすか。
家を漁る。
再びタンスを開けるが、昨日と変わらず何もない。天井は、どう見ても何もない。かまどの中は灰くらい。ベッドの下、壁なんかも適当に探す。
何もない。何もない家だ。
暇だし、念のため、もう一度だけ同じように家を漁る。
うろうろ家を回っていると、床板の一部が変な音を上げた。
「ん?」
腐っているのかと思ったが、違うようだ。
鞘に収まった剣で床を突く。床板の一部を捲ることができた。
現れたのは、階段。
好奇心が湧き、石造りの階段を降りる。
円柱状の空間が広がっていた。更に階段があり、もっと下へと続いている。
上の家と広さは同じだが、石造りで隙間は土で埋まっていた。
砦か、物見の塔の一部かこれ? その上に家を建てたのか? いや、あの家も一部? 降りて調べればわかるかもしれない。
だが、明かりがないと駄目だな。
差し込む光だけでは、何も見通せない。
爪先に何かが当たる。
拾い上げると、槍の穂先だった。柄は腐って遠い昔に失せたのだろう。だというのに、穂先の金属は鈍く輝いている。
家に戻り、明かりの下でしっかりと目にする。
錆び1つない。所々欠けてはいるも、刃は健在、切っ先は鋭いまま。
外に出て、周辺を歩いて適当な枝を見付けた。
剣で枝を削る。手持ちの糸で穂先を固定する。それで完成。矢羽根は付けない。俺は、今まで一度も矢に羽根を付けたことがない。
矢が完成した。
とても心が落ち着く。
「よし」
眠たくなってきた。
こんな些細な作業で、疲労困憊だ。まだまだ旅の疲れが取れていない。
ベッドに横になる。フワッと眠りの中に。
珍しく、違う夢を見た。
空を飛ぶ夢だ。
しかしまあ、不安定な飛び方だ。フラフラ、ガタガタ、バランスが崩れて変な回転をしている。下手に放たれた矢のような軌道。
飛び方がわかっていない。というよりも、何かしらまともに飛べない理由がある。そんな気がした。
そして、落下する。
くるくる回りながら、森の傍の小さい家に向かって――――――轟音で叩き起こされた。
家が揺れる。
屋根に小石が当たる音。
窓の外は土煙だ。
剣を手にして外に出る。
土煙で何も見えなかった。
空から来る獣なんて聞いたことがない。だが、“ない”とは言い切れない。
気配はすぐ近くにある。
剣を構え、違う。弓と矢を手にしていた。
「馬鹿が」
弦のない弓で何ができるのか。
強い風が吹く。
土煙が消し飛ばされて、現れたのは頭に付いた土を振るう竜の姿。
ピンク色の鱗。太い尻尾と二足で地面に立っている。人のように動きそう手。長い首に、角のないトカゲの頭。
体長は、6メートル弱で竜としては小さい。頭も手足も爪も丸っこい形であり、昔見たことのある竜や、害獣の飛竜と違って攻撃性が感じられない。
幼竜か?
竜は、パタパタ翼を動かせていた。
あることに気付く。
この竜、右の翼がない。怪我や出血が見られないことから、今失せたとかではないようだ。
その竜は、俺に気付くと尻尾をぶんぶん振りながら言った。
「パパですか!」
「は?」
え、違うが。
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