乖離

亥之子餅。

乖離 -表-

 自分の中に、嫌な自分がいる。許せない自分がいる。

 すぐに傷つく自分。短気な自分。人を恨んでしまう自分。

 理想と現実との乖離かいりに、心が壊れそうになる。

 そんな人は世にごまんといる。


 だから、その店は密かに繁盛していた。

 下町の裏路地――表の世界の住人は知ることのない、アングラの店。とある老人が経営するそこは、「要らない自分、捨てませんか?」と謳い、訪れた客の理想の自分を提供する店として、一部の界隈で有名になっていた。

 店を知った大半の人々は、そんなうまい話があるわけがないと鼻で笑う。しかし、たとえ結果として騙されたとしても、少しでも可能性があるなら今の自分を捨てたいと、わらにもすがる思いの客が絶えることはなかった。


 その日店を訪れた男は、如何にも胡散臭そうな店主の老人に尋ねた。


「本当に……自分の嫌なところを捨てられるんですか?」

「ああ、本当じゃよ。こうしてここに来たということは、お主も自身の理想と現実の乖離に苦しんできた――そうなのじゃな?」


 男は頷いた。往々にして、理想の高い者は自分の至らなさにばかり目を向けてしまうものだ。彼もまた例外ではなく、日々自己嫌悪に陥っているのだった。

 不安そうな男は、ところで、と続ける。


「あの……お隣の方は……?」

「ああ、彼奴きゃつか? ただの助手じゃ、気にせんでいい」

「は、はぁ……」


 仮面を着けた怪しい大男が、執事の如く美しく丁寧にお辞儀をした。男も怯えながら頭を下げる。


「それで、どんな自分が嫌なんじゃ?」

「ああ、はい……まず――――」


 老人に問われ、男は自身の嫌なところを列挙する。自分への悪口を饒舌に話す姿は、彼自身にも滑稽に思われた。

 老人は男の言うことをさらさらと紙にメモしていく。


「――――とか、そんな感じです」

「いっぱいあるのぅ」

「やっぱり無理……ですか……?」

「いいや、何も問題はない」


 老人は部屋の奥にあった引き出しから、小瓶をいくつか取り出し、慣れた手つきで粉末の薬品を調合し始めた。しばらくして老人は戻ると、薄緑色の薬が入った薬包紙を男に差し出した。


「飲め」

「ええぇ……本当に大丈夫なんですか、これ」

「信用できんなら飲まんでいいさ。決めるのは自分じゃよ」


 老人が突き放すように言う。

 少しの間、男は躊躇っていたが、自分を変えるのだと覚悟を決め、喉の奥へ水で流し込んだ。

 覚せい剤などではないから即時効果はない。お代は効果に納得してからでいい。老人にそう言われた男は、首を傾げながらも渋々帰宅した。



<続>


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