海に沈んだ国/六花ゆき
追手門学院大学文芸部
第1話
ざばり、と音を立てて、人の頭が夜の海上に浮かぶ。無垢な瞳をもつそれは、長い赤髪を漂わせながら、きょろきょろとあたりを見回した。近くにある岩場へ目をやると、再び顔を水に沈め、泳いでいく。
岩場に近づいたところで顔を上げ、すらりと長い両腕を岩の上にのせた。それから力を込めて、一気に身体を岩へと上げる。べたりと岩の上に落ちたのは、人間の脚ではなく、魚の鰭だった。
人魚は、ずるり、ずるりと重たげに尾鰭を引きずり、ほとんど腕の力のみで上へと向かう。少し滑らかになっている岩の表面が、硬い鱗を擦った。
小さな山の頂へ辿り着くと、人魚は尾鰭を引き寄せる。髪から滴る海水が、肌を、尾鰭を伝って地面の色に深みをもたらしていく。
ややあって、人魚は月を見上げた。白く無防備な喉が、風のもとにさらされる。空には、あと一日二日で満ちるのであろう月が浮かんでいた。
ざぁ、ざぁ、と、波が穏やかに岩場に当たる音。ぼうぼうと耳を塞ぐ風の声。どちらも、水中で聞くことは叶わない。優しい波の音と、穏やかな風に目を細め、人魚はすぅ、と息を吸った。
みずみずしい唇の隙間から、人魚は不思議な音色を奏で始める。
ここは彼女の演奏会場だった。気まぐれに訪れては、歌を歌うのだ。その多くは彼女の即興曲だった。
彼女がここへ来るのは、決まって月の出ている夜。月光が波に映り、きらきらと光る様を好んでいるからだ。月光は、波や彼女を照らすスポットライトであり、観客でもあった。
人魚は歌う。海に突き出た岩の上、艶やかな鱗を纏った尾鰭を横たえて。
今日の観客は二名様。一人はお空に、一人は砂浜に。特別な観客の来訪に、演者は気が付かない。
空から降り注ぐ月の光が、人魚の腹の下に、暗い陰を作っていた。
魔女が捕らえられたらしい。
そんな噂が、海辺の城下町を騒がせた。実際、異様な格好をした女が、魔女と疑われ拘束されたのだ。
女は、裾の擦り切れた真っ黒なローブを頭から被り、貝殻や珊瑚を通した首飾りや腕輪を、いくつも身につけていた。
何より異常なのは、女から滴る水だ。海から上がってきたかのように、女の身体からは、常に水が垂れていた。髪から、ローブから、指先から、それは止まることを知らない。それによって、女が歩んだ道は濡れ、留まった地面は泥濘んだ。
だれかが女を魔女と呼び、その噂は見る間に伝播した。
少し前までは、不死の薬を売る行商人だとか、人を呪ってくれる女だとか、貴重な深海の貝殻を持つ旅人だとか、なんとも不思議な人間だと流されていた。しかしそんな女の噂は、あっという間に人々を拐かす恐ろしき魔女、へと変化してしまう。
そんな人々の不安を取り除くべく、衛兵が動いたのだった。
捕らえられた女は、即座に裁判へかけられた。
時刻は、空が白み始めた早朝。女、船乗りと数人の衛兵、それから裁判官をのせた船は沖へ出た。
手足を縛られ、重石を付けられた女は、そのまま海へ投げ捨てられる。太陽が真上に上るまでそれを放置し、浮かんでいれば魔女。沈んでいれば人間というものだ。
結果からいえば、女は人間だった。
海へ投げ捨てられた女はするすると海の底へ沈み、それから浮かぶことはなかった。
しかし、人間だとも思えなかった。生きていたのだ、あの時間も海に沈められていて。
引き上げられた無実の女の生死を確認しようと、一人の衛兵が近づいた。その途端、女が目を見開き、口に含んでいた魚と海水をわざと吐き出したのだ。べたりと魚が衛兵の顔を叩く。驚いた衛兵は両手を振り回し、当たった魚が船板に落ちる。びたびたと跳ねる魚が、みるみるうちに腐っていく様を、他の衛兵が見たという。
なぜ生きているのだと、裁判官は女に問うた。
女はそこで、初めてまともに口を利いた。
「そりゃぁ、私が、海の魔女だからさぁ」
魔女は火刑に処されることになった。
時刻は日が昇り、青空が広がり始めた朝。
魔女は拘束されたまま、町の広場まで引きずり出された。俯いた顔は黒いローブに隠され、その表情は窺いしれない。石や棒を投げられることもあったが、魔女が血を流すことはなかった。魔女が通った道は、雨が降った後のように暗い。
見せしめである公開処刑は、通常通り始まった。
魔女は顔がよく見えるようフードを外され、棒に縛り付けられる。ローブの下からは、海藻のような色のうねる長髪が現れた。魔女は抵抗をせず、晒された顔には笑みを湛えていた。
気味の悪い魔女の様子に、衛兵は手早く木を組み上げる。不気味な魔女に、『慈悲』は与えられない。
そして、処刑開始の高らかな合図と共に、火が放たれた。炎が舞い上がり、煙が立ち上り、人々から歓声が上がる。しかしその声は、次第にどよめきへ変わっていった。
炎は、魔女を燃やさなかった。むしろ、魔女を避けるかのように勢いを弱めたのだ。炎はあっという間に消えてしまった。
理由はすぐに判明した。水だ。魔女から滴る水が、燃え盛る炎を鎮めたのだ。水は薪に纏わりつき、染み込んで、可燃物としての役目を奪う。
何度薪を替えても、油を撒いて火を付け直しても、結果は同じことだ。
日が傾き始めたところで、処刑は取り止めとなった。
こうなれば、別の処刑方法を用いるほかない。そんな話が当然持ち上がる。しかし、処刑方法を確定するより前に、この話し合いは中断された。
衛兵が死んだという知らせが入ったからだ。
死んだのは、魔女裁判の際に魔女へ近寄った衛兵。廊下で突然大量の魚を吐き出し、のたうち回った後、身体がぐずぐずになってしまったという。
悪い知らせはこれだけではない。魔女裁判の際に同行した船乗りと他の衛兵は肌が緑や赤に変化し、裁判官は水たまりであろうと飛び込むようになった。処刑のときに火を放った衛兵は、肌からべっとりとした液体が絶えず滲み出るようになったという。
人々は魔女を、心の底から恐怖した。処刑しようとすれば、再び恐ろしいことが起こるに違いない。
そう、魔女に呪われてしまう。
恐れた人々は、魔女を町から離れた地下牢へ閉じ込めることにした。もう誰も、魔女に関わりたくなかったのだ。
誰もが口を閉ざし、魔女の存在をなかったことにしようと努めた。魔女を忘れることで、魔女からも忘れられると思いたかったのかもしれない。
魔女は水を滴らせながら、指示されるまま、地下牢へと入っていく。ここでもやはり抵抗することはなく、魔女は不気味なほどに大人しい。
鉄格子が閉ざされ、鍵をかけられる。衛兵は振り返ることなく牢をあとにし、入口の重い、重い鉄扉を動かす。大きな音を立てて、扉が閉まった。最期に頑丈な錠が取り付けられる。がちゃり、と、低い音がし、魔女を閉じ込める地下牢が施錠される。
魔女への対処は完了した。これでもう誰も、魔女と関わることはないはずだ。魔女はいずれ忘れられ、何事もなかったことになる。
これで良かったのだと、誰かが呟いた。呪われっていないといいけれど、と誰かが怯えた。
大仕事を終えた衛兵が魔女の拘束具の鍵を捨てた。小さな複数の鍵は、音もなく地面へ落ちる。魔女の作った泥濘に沈み、見えなくなった。
成人間近の王子には悩み事があった。
それは年頃の青年らしい、恋の悩みだ。夜の砂浜から見える岩場。そこで一度だけ見かけた少女に、王子は一目惚れをしてしまったのだ。
少女は長い赤髪をしており、脚の代わりに大きな尾鰭を持っていたのだという。
少女は歌を歌っていた。その歌は聞いたことのないものだったが、あまりの美しさに王子は言葉を失った。どんなに著名な作曲家が聞いても、皆揃って涙を流すと断言できるほど、素晴らしい歌だった。
夜の誰に話しても信じてもらえず、それどころか側近も付けずに外出していたことを咎められた。その後もこっそり抜け出しては夜の岩場へ訪れたのだが、少女を見つけることはできなかった。
夜になるたび、どこからか少女の歌が聞こえるような気がして、王子は胸が張り裂けるような思いをしていた。どうにかして、もう一度あの歌を聞きたい。あわよくば言葉を交わしたい。そのためならば何でも行おうと思うほどに。
そんな王子が目を付けたのは、町から離れた地下牢に捕らえられた、女の存在だった。口止めをされているらしく、詳しい話は知らない。けれど、その存在が本物の魔女であるということは知っていた。数人の衛兵が、その魔女の呪いを理由に、城を離れていったことも。
人ならざるものについては、人ならざるものが詳しいはずだ。魔女とはそういう、人の及ばない知識を多く有しているに違いない。
魔女の恐ろしさに目をそむけて、王子は恋しい人魚のため、静かに息を吸った。
魔女の閉じ込められている地下牢は、磯の匂いでいっぱいだった。
磯の匂いは王子にかの人魚の姿を思い出させ、王子の背中を強く押す。早く、魔女へ会うべきだ、と。
文献で見た、魔女に関する恐ろしい記述が脳裏に浮かぶ。しかし、それも頭に焼き付いた人魚の歌声と姿にかき消された。
王子は息を吸い、まっすぐと魔女の牢へと歩みを進める。ぱしゃと、ところどころにできた水たまりから水が跳ねる。じっとりと湿った空気に、まるで水中にいるようだと王子は感じた。
少し歩けば、格子越しに魔女の姿が見えた。両手に手錠をつけられ、足にも鎖のついた枷が嵌められている。頑丈な鎖は、壁に埋め込まれた突起へと繋がり、魔女の行動を制限していた。
魔女の足元には、ひときわ大きな水たまりが広がっている。
魔女はおもむろに王子のほうへと振り返った。真っ黒なローブからは水の滴る長い髪がこぼれており、その奥の真っ黒な瞳が王子を捉えた。
「おやぁ、これはこれは、麗しい王子さま。貴方さまのような高貴なお方が、卑しい魔女にどのようなご用件で?」
魔女は嗄れた声で、笑うように話す。身動ぎをしたのか、髪から雫が垂れたのか、地面に広がる水たまりにいくつかの波紋が広がった。
王子は、魔女の放つ異様な雰囲気に圧倒されたが、それを振り払うように、はっきりと言葉を紡いだ。
「お前は人魚について、知っているだろうか」
「あぁ、知っている、知っているとも。そこらの魔女よりうんと詳しい。なぜならわたしゃ、海の魔女だからさぁ」
魔女は白い歯を覗かせて、そう告げる。海底で揺れる海藻のように、ゆらりゆらりと身体を揺らしながら。
「ならば! ならば、教えてくれないか。ここらの岩場で見かけたのだ。あの姿、あの声、全てが頭に焼き付いて離れない。忘れようにも忘れられず、毎晩胸が張り裂けそうなのだ。どうしたら会える。どうしたら、共にいられる?」
格子を掴み、必死に訴える王子に対し、魔女は喉の奥でくつくつと笑う。
「わたしらは、人間さんのように真面目ではないんでね。気まぐれにそこで歌ったんだろうよ、その人魚さんはさ」
それを聞き、王子は落胆した。ぽたり、と水の垂れる音が、妙に大きく聞こえる。
「だが、私に相談したのは賢明だね」
魔女はそう笑い、ローブの下で、懐を弄る。少しして、魔女は白く半透明な石と黒っぽい石を取り出した。
「これをお前さんにやろう。不思議な不思議な魔女の道具さ。これを使って森に火を放てば、人魚がつられてやってくる」
「森に火を? それはできない。森は町にも近いのだ。火事は多くの命を奪う」
「なに、恐れることはない。これで起こる火は雲を呼ぶのさ。森の奥で火を放てば、町に広がる前に雨が来る」
魔女の言葉を聞いてもなお、王子は躊躇う。人の命を脅かす行為を、流石に許容出来ないらしい。
その様子を見て、魔女はため息をつく。飽きたように手に持った石を懐へ戻した。
「要らぬのならば、去るが良い。死ぬまでには会えるかもしれん。まあ、人魚の寿命は人間以上。百年ほど、深海に籠もっているかもしれんがな」
背を向けようとした魔女を見て、慌てて王子は声をかける。
「すまない、それを使われせてくれ。死ぬまで会えないなんて考えたくもない。どうか、さきほどの無礼を許してほしい」
魔女はぴたりと動きを止めて、隠れたフードの陰の下、ニヤリと口を歪ませた。
「ああ、いいとも。もちろんさぁ」
魔女は水に濡れた手を、王子の手にずしりと被せる。決して落とすことのないようにと、火打ち石を握り込ませた。魔女の首や手足にいる貝殻たちが、からんからんと音を立て笑う。
「時刻は夜深く。そうだ、今からがいいだろう。人もおらず、精霊も眠る時間だ。森の奥で火を起こせ。これは生木にも火を灯す」
見かけによらず強い魔女の手に、王子は少し驚いた。しかし、力強く頷くと、火打ち石を握り込む。
「さあ、行け」
魔女の言葉が牢に響く。その声はなぜか、拒むことのできない命令のように、王子の頭へ刻み込まれた。王子はさっと踵を返し、地下を後にする。
とんとんと足音がなり、扉の閉まる音で、地下牢に静寂が訪れた。
しんと静まり返った牢の中。こらえきれないように魔女が声を上げた。くつくつと笑う声に合わせて、貝もがらがらと笑う。
一人の青年が森の奥へと向かっていく。荒れのない掌には、一組の火打ち石が握られていた。服の裾が枝に引っかかっても、靴に泥が跳ねても、それでも青年は先へ進む。
その身に纏う服は高価なもので、少なくとも森を歩くようなものではない。国一番の仕立屋が仕上げた衣服、他国から招いた靴屋が作り上げた靴。青年は一国の王子であった。
少し進むと、青年は足を止めた。あたりを見渡し、一つの木に目星をつける。その木のもとまで辿り着くと、根本にしゃがみ込んだ。
かち、かちっと、何度か石同士を叩きつける。ぱち、ぱちっと火花が舞う。何回か繰り返していると、不意に、ぼう、と生きる木の皮が燃えた。
ぼうぼうと森が燃えている。木の皮から広がった炎は、あっという間に森全体に広がっていった。
地上を燃やし尽くすような勢いの火は、もくもくと大量の煙を吐き出す。空へ上った煙は次第に雲を呼び、大きな雨雲を呼び寄せた。
国を覆うほどの雨雲は、煙に触れることで抱えていた水を手放していく。まるでバケツを引っくり返し続けているかのような大雨が、ざあざあばしゃばしゃと地上に降り注ぐ。
土は、暴力的な量の水を処理しきれず、小さな水たまりを作り、それは集まって大きな水たまりとなり、大きな水たまりは次第に池へと変わる。
炎は消え、代わりに地上は水で溢れた。
水は地面の土を流し、森の木を流し、人を流し、家を流す。流れきれない水が地面に溜まり、水位はどんどんと上がっていく。
城の頂上に掲げられた旗が水中に沈んだ時、長く降り続いた雨はやんだ。
それは、妙に潮辛い雨だった。
ざばり、と音を立てて、少女の顔が海上に浮かぶ。少女はあたりを見回して、首をかしげた。
無垢な瞳を持つ者は、再度、身体を海中へ沈める。ゆらりと水中を揺らめくのは、魚の鰭だった。
少しの間、彼女は海を泳いでいたが、先ほどと似たような場所で顔を上げた。手や尾鰭を滑らかに動かして、その場に留まっている。
彼女は肌に張り付く髪をかきあげ、空を見た。空には雲一つなく、黄色に輝く満月が浮かんでいる。
月光は人魚と波を照らし、水面を飾りつける。
静かな海の上で、人魚の歌声が響く。気まぐれに歌う彼女の曲は、彼女自身も知らない、その日だけの、一度限りの演奏だ。
彼女の歌につられた男は、今や深い海の底。彼女のための演奏会場も、揃い揃って鰭の下。
しばらくすれば、風に揺れる旗のような海藻が、レンガの隙間に根を張るだろう。小さな魚、海の掃除屋が、地上の肉を啄むだろう。
ひとりの人魚はなにも知らず、今日も楽しげに歌を歌う。いつだったか海の魔女に褒められた、人を魅了する素敵な歌を。
海に沈んだ国/六花ゆき 追手門学院大学文芸部 @Bungei0000
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