M・I
オブリガート
第1話
そのストリートピアノは某アーケード商店街の片隅に設置されていた。いつもは素通りしてしまう
奏者は若い男性だった。通行人の中にはチラリと彼を見る者もあったが、足を止めてまで演奏を聞こうとする者はいない。なぜなら彼が弾いていたのは、ピアノ初心者が弾くような簡単な童謡だったからだ。
だが、月に数回コンサートやリサイタルに通う耳の肥えた絢にはわかった。おそらくこの青年は、相当な実力者だ。人目につかぬよう、敢えて簡単な曲を選んで弾いているのだろう。絢は全神経を彼の演奏に集中させた。
透き通った音色はどこまでも研ぎ澄まされていて、雑念が一切ない。それでいて深みと立体感も感じさせる。神憑りとでもいうのか────その
演奏が一段落したところで、絢は優美な足取りで彼に近付いていった。拍手の代わりにつば広帽を脱ぎ、お得意の愛想笑いを投げ掛ける。顔を上げた青年は億劫そうに会釈した。
痩身で色の白い不健康そうな男である。顔はそこそこ整っているが瞳は沈鬱としており、明らかに他人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。しかし絢は、こんな逸材を放っておく気などさらさらなかった。
「素晴らしい演奏でした。ピアニストの方ですか?」
「とんでもない。僕はしがない学生です」
「音大生ですか?」
「いえ、工学部の三年です。ピアノは趣味で弾く程度で」
嘘だと絢は思った。あの立体感のある深い音色は、趣味レベルの練習量で出せるものではない。
時刻はちょうど14時を過ぎたところだった。平日の昼間とは言え、通りはそれなりに込み合っている。もっと静かな場所へ移動してゆっくり話をしたい。絢がそう考えた矢先、青年はまた鍵盤に手を添え、演奏を始めた。
絢はピアノに軽く寄りかかり、ショルダーバッグからゴソゴソと名刺を取り出した。
「
名刺をチラリと見はしたものの、彼から返事はない。自由自在に鍵盤を操りながら、通りを行き交う人々をぼうっと眺めている。
絢が気長に返事を待っていると、ふいに青年は演奏を中断した。その視線の先にいるのは、ちょうど目の前を通り過ぎていった小さな女の子だった。おそらく下校途中なのだろう、ピンクのランドセルに黄色い帽子を被っている。
青年は女の子の姿が見えなくなるまで、その小さな背中を見つめ続けていた。女の子が行ってしまうと、青年は小さく吐息をつき、ようやっと絢の方に視線を向けた。
「すみません。何の話でしたっけ?」
絢はスカウトの話をいったん差し置き、
「あの女の子は知り合いですか」
と、たった今湧き上がった疑問を口にした。青年は惚けたように首を傾げた。
「女の子?」
「あなたが食い入るように見つめていた女の子ですよ。ほら、ピンクのランドセルの」
「ああ………。いえ、全然知らない子です」
「ですが先ほど、演奏を中断してまで彼女をじっと見つめていましたね」
「見つめてなどいませんよ。あなたの気のせいでしょう。そもそも中断したのは、傍に誰かがいると演奏に集中できないからです」
そう言って青年は、気疎そうに絢を見た。頑として認めないつもりのようだ。絢は何かあるなと疑いながらも、取りあえず言い逃れさせてやることにした。
「それは失礼致しました。てっきり、ロリコンなのかと」
挑発して彼の表情の変化を確かめようとしたが、青年は怒りも動揺もせず、無表情を保ち続けていた。
「笠岡さん……でしたっけ?あなたの旋律は中々独特ですね。様々な要素が混じり合って混沌としているのに、不思議と調和が取れている」
意味不明なことを述べ、彼は椅子から腰を上げた。
「お帰りですか?」
「ええ。ずっと弾き通しで、疲れたので」
「まだお返事を伺っておりませんが」
「バーのピアノ奏者の件でしたらお断りします。他を当たってください」
「そうですか。わかりました」
絢はいったん引き下がることにした。突然スカウトされた彼の立場になって考えてみれば、当然の反応だろう。
「ではせめて、名刺を受け取ってください。店の住所と一緒に、私の連絡先が記されてますから」
絢はにこやかに名刺を差し出した。彼は小さく吐息をつき、渋々名刺を受け取った。間髪空けず絢は聞いた。
「一応、お名前を教えていただけませんか」
青年は一瞬、目線を上へ逸らしてから、
「オオカワナツオです」
抑揚なく名乗った。違和感を覚えた絢は思わず振り仰いだ。「大川産業夏祭り開催予定」の吊りポスターが目に入り、肩を竦める。
「偽名ではなく、本名を教えてほしいのですが」
「……」
「ふふ…」
絢は帽子を被って位置を整え、花のように唇を綻ばせた。どこぞの令嬢のような品の良い佇まいであるが、その瞳には獲物を狙う肉食獣のような貪欲な光が宿っていた。
「こう見えて私、中々執念深いんですよ。もしかしたらあなたをこっそり自宅まで尾行して、表札を確かめたりするかもしれませんね」
普通なら困惑したり顔をしかめたりするだろうに────青年の冷静な態度は変わらなかった。
「わかりました。その代わり、僕を尾行したりしないでくださいね」
彼は鞄から学生証を取り出し、名前の部分だけをチラリと見せてくれた。
*
ダイニングバー
ステンドグラスの扉を押し開ければ、軽やかなドアベルの音が出迎えてくれる。温かみのあるオーク材の家具に、柔らかなペンダントライトの光。ムーディーで落ち着いたクラシック曲が店奥のピアノから流れてくる。弾いているのは臨時で雇った音大生だ。
絢はカウンター席の端に腰掛け、ジャック・ローズを片手に音大生の演奏を聴いていた。音大に通っているだけあって、中々の技術力である。誰が聴いても文句なしに「上手い」「凄い」と言うだろう。
だがただそれだけのことだ。特段個性もなく、引きつけられるものもない。彼のようなピアニストは日本中にごろごろいる。所詮は自己顕示欲ばかりが強い、楽譜をなぞっているだけの薄っぺらい演奏家だ。
対して響介のパフォーマンスは、彼らとは一線を画している。あの色彩感の溢れた魔法のようなメロディーは、きっと多くの観客を魅了するだろう。集中力や持久力などは、もう少し鍛えなければならないだろうが。
絢は目を閉じ、昼間聞いた響介の演奏を脳内で再生させた。
M・I オブリガート @maplekasutera
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