第19話「強いということ」

 小学生の頃、僕はガキ大将だった。小器用で大抵のことはすぐ出来てしまうことから、周りから一目置かれるリーダー的な子供だった。

 強いことがリーダーの証という年頃になると、僕は毎日のようにケンカに明け暮れた。自分から望んで争うことはなかったが、男の子とは単純なもので、強いものを見ると挑まずにはいられない生き物なのだ。放課後の僕のクラスの前には毎日のように挑戦者が並んだ。

 毎日泥だらけで帰って来る僕に、不思議と母親は何も言わなかった。


 いつものようにケンカをして帰った夕食時、玄関のチャイムが鳴って、応対に出た母がしばらく戻ってこなかった。

 不意に心配になった僕は、ドアの隙間から玄関を覗くと、その日ケンカをふっかけてきた男の子とその母親がいるのが見えた。そしてその親子に謝っている母の姿を見た僕は、反射的に食卓の自分の席に戻り、何もなかったように夕食を頬張った。

 しばらくして食卓に戻ってきた母に、僕は叱られる覚悟をして身を硬くした。しかし母は何も言うことはなかった。何事もなかったように笑顔で食卓を温めていた。

 僕はホッとした反面、なぜ叱られなかったのか不思議に思った。しかし、その謎は食事を終えて子供部屋に戻るとすぐに解けた。


「お兄ちゃん、またケンカしたんでしょ。

 そのうちお父さんに怒られるからねー」

 妹のその言葉で僕は、さっき見た「それ」が初めてではないことに気がついた。

 きっとこれまでも、僕がケンカで負かした子供たちの何人かは、母親を連れて苦情を言いに来ていたのだろう。そのたびに母はああして謝っていたのだ。

 僕はそんなことになっているとは、これまで考えたことがなかった。ケンカとはいえ、挑まれて戦っていることで後ろめたさはなかった。

 しかし、勝ち続けるたびに心の何処か奥の方にチクチクとした、ササクレのような物が積もっていくことに気づいていた。

 さっきドアの隙間から見えた、いつもより小さな母の後ろ姿に、それが「罪悪感」である事にその日気づいてしまった。


 母はすべてを知っていた。

 そして何も言わず、僕を見守っていた。

 理由はわからなかった。

 ただ、幼い僕にもわかる苦いものが胸に込み上げていた。

 僕は、その日を最後にケンカをやめた。

 

 そんな僕の事情など構わず、その後も挑んでくるガキ大将たちはいた。その都度もうやめたいのだと断り、それで気がすまない相手には無抵抗にやられて負けた。やがて噂は広り、挑戦者は現れなくなった。

 僕にとって強さとは、争いに勝利する力ではなくなっていた。

 

 ケンカをやめてしばらくたったある日、休み時間の教室でひとりの女子が、ガキ大将の武雄とその取巻きに囲まれていた。

 

 女子生徒はアリスと呼ばれていた。クラスでも目立たない女子で話すことはほとんどなかった。

 彼女は自分の感情を言葉にすることが苦手な女の子だった。授業の時間は生き生きと先生の話を聞いていたが、休み時間になると教室の端の席で怯えたように独りで過ごしていた。

 彼女は見た目から他の女子とは違っていた。肌は透き通るように白く、長い髪は白銀に所々まだらな黒髪が混ざった不思議な色をしていた。

 瞳は深い碧色で、目が合うと心の中を覗かれているようだった。

 どこかの国から来た外国人なのか、会話は苦手で周りの話を頷いて聞いている事が多かった。意見を求められると吃ってうまく話せなかった。

 そんな他と違う容姿や振る舞いを理由にイジメる女子生徒はいなかったが、好んで相手にする者もいなかった。


 一方、武雄は自由奔放で、物事をいつも斜めから見ているような少年だった。自分の思い通りいかない事があると、周りの事など構わずに全部壊してしまうようなキレた奴だった。

 それまで何度かやり合ったことはあったが、一対一の決闘と言いながら仲間連れてきて騙し討ちをしたり、文具を凶器にするような卑怯な真似をする事もあった。

 これまで僕が負けることはなかったが、彼を黙らせるのが精一杯だった。


 そんな武雄にとって、アリスの不自由さと、他となじまない在り様が気に入らなかったのかもしれない。何か思い通りにならない事があると、武雄は取巻きを連れて彼女をイジメた。


 それまで僕は、彼女がイジメられていても庇うことはなかった。ただ、他と違うからといってイジメる彼らの横暴さと、集団で一人をなぶる卑劣さに苛ついて突っかかっていった。

 結果的にイジメはお開きになっていた。

 

 その日、アリスは教室の奥の窓際で床に押し倒され、馬乗りで殴られた口からは血が流れていた。何度も床に叩きつけられ、擦りむいた膝には血が滲んでいた。悲鳴をあげてうずくまる彼女に容赦ない暴力があびせられた。

 子供のケンカとは思えない凄惨さに、クラスの誰もが見て見ないふりをしていた。

 そして、すでにケンカを止めた僕に、

「いつものように助けてやらないのかよ」という非難の視線が注がれていた。

 

 教室の中央の席で、僕は目を閉じ耳をふさいでいた。

 教室の後の方から聞こえてくる彼女の叫び声を聞きながら、僕は胸の奥から湧き上がる衝動を必死で抑えていた。


 『助けてやれよ。みんなおまえの事を見てるぞ』

 心の中で誰かが僕を責める。

 「ケンカは誰も救わない。僕はもうケンカは止めると決めたんだ」


『いいのか?奴らをやっつけられるのは、お前しかいないだろ』

「そうだけど、いつも僕が助けられるわけじゃない。彼女は自分でどうにかしなければならないんだ」

『⋯⋯⋯ それが、おまえの本心なのか?』

「僕は⋯⋯⋯。僕はもうこれ以上、母さんにアヤマラセタクナイ」

『本当に、それで良いんだな?』

「⋯⋯⋯⋯」


 耳元で囁く言葉の痛みに耐えながら、その日、僕は彼女を助けなかった。 

 アリスは声にならない悲鳴をあげると、泣きながら教室を飛び出していった。

 アリスが逃げられたことに安堵した僕は顔を上げ、武雄達がいる方を振り返った。

 武雄たちは床に散らばった、血と涙が混じった液体を指差し嘲笑をあげていた。彼らのバカ騒ぎを目にしたとき、僕の中で何かがブツリと音を立ててちぎれ堕ちるのを感じた。

 その瞬間、僕の視界は暗転した。

 温かな食卓が失われる瞬間。それはいつも突然の暴力だ。父親がひっくり返した食卓。宙を舞い散る夕食。泣き叫ぶ妹。無言で床に散らばった茶碗の破片を片づける母の後姿。何もできず立ち尽くす自分。スローモーションのように、記憶のスライド写真のように、僕の脳裏にフラッシュバックした。


 嗚呼、僕は無力だ。

 また誰も救えなかった。

 どうしようもない孤独と無力感が、幼い僕の心を支配した。

 僕は我を見失った。


 その日、武雄たちを相手に僕は徹底的にやり合った。定かな記憶はない。

 服は破れて靴はどこかにいってしまった。

 鼻血と無数の引っかき傷、返り血でボロボロになって僕は家に帰った。

 その夜、僕の家には苦情の行列ができた。

 平謝りする母は、その日も僕を叱らなかった。

 僕は二度とケンカをしない事を自分に誓った。


 翌日、アリスは学校にこなかった。

 翌週も、彼女は来なかった。

 しばらくして、彼女は転校していった。

 彼女と会えないまま、僕の気持ちは行場を失った。

 あれから、彼女を助けなかった自分に問い続けている。

 「あの時僕は、彼女を救うために闘うべきだったのか?」


 そして今、アリスを救わなかった少年の僕が、大人になった僕に問いかけている。


『弱い奴はイジメられても仕方ないのか?』

『みんなと同じでないことは、いけないことなのか?』


『おまえは、また、あの後悔を繰り返すのか?』

 

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