霧に潜むもの

霧に潜むもの 前編

異常史アノマリー・アーカイブ──5月12日午後10時42分

千葉県市川市八幡・路上



 濃霧が夜の闇を覆い尽くしていた。


 建物や街灯の明かりはどれもぼんやりと霞んで、異様な雰囲気が漂っている。


 住宅街はまだ深い時間でもないのに、ひっそりと静まり返る。


 1人の父親が小さな子供を背負って急ぎ足で道を歩いていた。背中の子供はぜいぜいと息を荒くする。


「大丈夫だからな」


 しかし、父親のその言葉も、霧の中を見つめる我が子には届かない。


「ねえ、お父さん、あそこに何かいるよ」


 子供が指差す方には霧しかない。


「何もないよ」


「ねえ、誰かがぼくを呼んでるよ……!」


「何も聞こえないよ」


「いやだ、怖いよ……! 何かがぼくを捕まえようとしてる……」


「もうすぐ病院だから、もうちょっと我慢しような」


 父親の励ましの声を嘲笑うかのように、突然、背中の子供が霧の中に吸い込まれてしまう。


暁斗あきと! どこに行った⁈ おい!」


 子を呼ぶ父親の声は霧の中に飲み込まれるばかりだった。




◆◇ ◆◇ ◆◇




現在──5月12日午前0時7分

千葉県市川市・葛飾八幡宮前



 鳥居の前に赤いマントに身を包んだ灰色の髪の男が立っている。近くの街灯の光を受けて、その姿が暗がりの中に不気味に浮かび上がる。


 灰戸カナメだ。


 目の前の線路沿いの道を歩いてやってくるパンツスーツの女が、彼の元に駆け寄ってくる。


 月代凪だ。


「俺様の名前を訊くな」


 夜だからだろうか、灰戸はやや抑え気味の声で言う。


「分かってます。お久しぶりです、灰戸さん。お元気そうですね」


「無事だったと言った方が適切かもしれないな」


「そんなことは……」


 危険や死に直結するような誤りに晒され続ける灰戸たち討滅官アメンダーを思うと、月代は口が重くなってしまう。


「現場はこの近くだろう。歩きながらでいい、特異事象アノマリーの情報共有を」


異常史アノマリー・アーカイブによれば、被害者は5歳の少年1人です。喘息の発作で、父親が彼を背負って近くの病院に向かう途中で襲われ、霧の中に飲み込まれて姿を消す・・・・ようです」


「父親は?」


「なんともありません。ただ、不可解なことが……。消えた子供は、しきりに霧の中に何かがいると訴え、その何かに捕まえられる、と怖がっていました」


 灰戸は小さくうなずく。


「なるほどな」


「灰戸さん、これって……ほとんどシューベルトの『魔王』じゃないですか?」




◯⚪︎・⚪︎◯




 5分ほど歩いた住宅街の一角に辿り着いた2人は周囲を見回す。


 すぐ近くに売地の看板の立った空き地がある。他は、なんの変哲もない家々が沈黙して並ぶばかりだ。


 人通りもない。


「魔王だとすると、異常化能力アノマライザーの発動条件もそれなりに絞られるだろうが……」


「あの、そんな西洋の作品の中の存在が日本のこんな場所に現れるものでしょうか……?」


「地球は小さくなった。あらゆる移動手段、連絡手段が物理的な距離を縮めたんだ。地理的な特色は無視されても不自然ではない」


 月代はスマホを取り出して、シューベルトの『魔王』の情報を探し出す。


「父親に連れられた子供が、霧の中から聞こえる誘惑に恐怖して、最後は死んでしまう……。問いかけに反応すると、発動条件が満たされるんでしょうか?」


 特異事象アノマリーを生み出す異常化能力アノマライザーには、発動条件がある。


 灰戸たち討滅官アメンダーは、月代たち観察官オブザーバーと連携して、不確定な未来である異常史アノマリー・アーカイブから特異事象アノマリーを取り除く使命を担っているのだ。


 灰戸が月代を振り返って微笑む。


「会わない間にずいぶんと逞しくなったものだ」


「あはは、嫌でも鍛えられます」


 灰戸は考え込んでいる。


「その魔王が子供とコミュニケーションを取って異常化能力アノマライザーを発動させたのなら、俺様が招聘されたのも理解できる。意思疎通が可能ならば、俺様の異常化能力アノマライザーは有用だからな」


 特異事象アノマリーと同じように、討滅官アメンダーたちもまた異常化能力アノマライザーを持っている。


 灰戸が持つ燎原の火プレイリー・ファイアは、名前を訊いた者に本名を答えることで相手を灰燼に帰すことができる。


「では、相手が灰戸さんの名前を訊くように仕向ける方法を考えましょう」


 順調な滑り出しだったが、灰戸は厳しい表情だった。


「早計は禁物だ。特異事象アノマリーが魔王だと決まったわけではない。さっきは地理的な特色は無視されると言ったが、完全に排除できるわけではないんだ」


「どういうことですか? 他に何かが……?」


「この近くには八幡の藪知らずがあるんだ。神隠しで有名な禁足地だぞ」




◯⚪︎・⚪︎◯




「話に聞いたことはありましたけど、意外とオープンな場所にあるんですね」


  八幡の藪知らずまでやってきた2人は、この時間でも車の通りがある道路の向こう側に、石の柵で囲まれた竹藪の生い茂る場所を眺めた。


 斜向かいには、市川市役所の第1庁舎の立派な建物が存在感を放っていた。


「あの藪の中へは、現在も立ち入りが禁止されている。数多くの神隠しの逸話が残っているんだ。今回の特異事象アノマリーで消えた子供も、神隠しに遭ったわけだ。現段階で無関係だと結論づけられない」


「そうですね……。となると、情報収集が必要ですが……」


 車は通るものの、人通りはない。


特異事象アノマリーの発生まではまだ時間はある。日中に聞き込みを始めるぞ」


「大丈夫でしょうか……」


「焦りすぎも禁物だ」


 歩き出す灰戸の背中に月代が喋りかける。


「灰戸さん、神社なんかが近くにあるといつもより大人しいんですね」


「俺様の力を発揮するために、あえてやっているだけだ。まわりに人もおらず、観察官オブザーバーの君だけしかいないのであれば、奇人を演じる意味はない」


「あ、異常化能力アノマライザーのためだったんですね。だから、変なことしたりして気を引きつつも、名前を訊くなって言ってたんですか」


「伝わっていなかったのか……。それでは、俺様が単なる変人に見えていたんじゃないか」


「はい、変な人だなぁ、と」


「……」


「今も『俺様』って言ってますし、本当の自分を見失いがちなんじゃないですか?」


「やれやれ、初現場だった頃の君が懐かしいな……」




◆◇ ◆◇ ◆◇




 日が昇り、2人は二手に分かれて聞き込みを開始し、しばらくして、2人は葛飾八幡宮の前に再び集合した。


 鳥居をくぐり、参道を葛飾八幡宮の方へ向かいながら情報共有を始める。


 2人が共通して聞いたのは、霧のある夜に外を出歩いていた人がおかしな現象に遭遇していたことだった。


「誰かに呼ばれる、というのがパターンのようですね。それに、居合わせた人によると、酔っていたり、体調がすぐれない人には謎の声が聞こえるそうです。ただ、みんな笑ってやり過ごしたり、すぐにその場を離れたりしていて、特に害を被ったことはないみたいです」


「私の方もほとんど同じような首尾だ」


 鳥居をくぐり聖域に入ったからなのか、灰戸はごく普通に振る舞っている。月代にはそれが不思議に映っていた。


「ひとつ興味深い話があった。福島出身の人間によれば、霧はオンボノヤスという妖怪の仕業ではないかと言うんだ」


「オンボノヤス?」


「福島に伝わる妖怪のようだ。霧を吐き出し、人を迷わせるという」


「迷わせるだけですか?」


特異事象アノマリーは複数の伝承や怪談が融合している場合もある。それも節操のないほどにな」


「じゃあ、魔王とオンボノヤスが融合しているかもしれないんですね」


「その辺りは、結局分からずじまいということも少なくない。だが、異常化能力アノマライザーの発動条件はおぼろげながら浮かび上がってきたな」


「そうですね。夜・霧・外・呼ぶ声に反応する……この辺りでしょうか」


「笑ったり逃げたりすれば何もないということは、消えた子供のように嫌がったり、怖がるというのも条件に加わりそうだ」


「それから、酔っていたり、体調が悪かったりというのもキーですね。魔王の正体、そして、誘き出し方もこれで分かりましたね」


 異常史アノマリー・アーカイブには、相変わらず変更はない。


 2人の方針も、特異事象アノマリーの排除ということで一致していた。


「懸念点は、霧の出る夜に特異事象アノマリーと対峙してから異常史アノマリー・アーカイブのタイムリミットまであまり時間がないということだ。一発本番に近い。失敗ができないぞ」


 異常史アノマリー・アーカイブに記録された特異事象アノマリーは、対策を施さなければ現実のものとなってしまう。


 月代は気を引き締めた。


「とりあえず、私もサポート頑張ります……!」


 2人は葛飾八幡宮の境内に入り、拝殿へ向かった。


 参拝しようとする灰戸に月代が言う。


「すごい力を持っているのに神頼みはするんですね」


「神頼みは馬鹿にできないぞ」


 2人揃って参拝を終えると、灰戸が社務所の時計に目をやった。


「魔王を誘き出す役だが、私は酔っていては戦えない。必然的に君がやることになることになるが、それでもいいな?」


「え……?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る