Another Morning
光佑助
第1話
誰もが寝静まった深夜二時。新垣日向は、ずっと心に秘めていた作戦を今日こそ決行することにした。
隣で寝ている高校生の妹・風華は、ソフトボール部の練習で疲れたのか、いびきをかいて寝ている。妹を起こさないように、そっとベッドから降りると、音を立てないように歩いて部屋を後にした。
隣の部屋に入ると、日向はゆっくりと電気をつけ、一つのクローゼットに手をかけた。それは、亡くなった母が使っていたものだった。
手に取ったのは、高校のセーラー服。時ヶ台高校のものだ。清楚でクラシカルなその制服は、可愛いと評判だった。
それはもう何年も前に母が着ていたものだ。少し黄ばんではいるが、大事に扱われていたようで、大して汚れていない。日向は母親にそうするかのように、セーラー服を抱き寄せる。かすかな甘い香りが染み込んでいて、母がまだ生きているのではないかと錯覚させてくれた。
しばらくして、日向は静かな部屋の中で一人、鏡の前に立っていた。
それはまるで玉手箱を開けてしまった浦島太郎だった。鏡に映ったのは、女子高生には程遠いセーラー服を着た、老け顔の二十四歳の女性だった。
「私は、あの頃送るはずだった青春を取り返したい…」
内なる声が静かに響く。鏡の中で光を反射し、似合わない格好が鮮明に浮かび上がる。
日向は心の中で嘆きが込み上げる。手入れをする余裕もなく、痛んだ長い髪、目の下にはクマがある。取り戻せない時間の経過を叩きつけられた自分を、鏡越しに見るのが辛かった。
こんな自分でも制服を着れば女子高生に見えなくもないと期待した自分が馬鹿だった。
「やっぱり無理があるか…」
制服を脱ごうとした瞬間、鏡の中で、まるで別の誰かがそこにいるかのような錯覚に陥った。日向は鏡のガラスに手をつけ、愕然とする。鏡の中に不意に現れたのは、十代の頃の母親の姿だった。
自分と同じ制服を着た母は微笑んでいた。その微笑みは、すぐに悲しげな表情に変わり、まるで日向に何かを語りかけるように、亡霊のようにふっと消えていった。
「お母さん…」
涙はもう止まっていた。きっと母はこういう形で現れて、自分を励ましてくれたのだと感じた。赤いスカーフタイに手をかざし、日向の顔は、人生で何か大きな決断を下したかのように見えた。
●
――あれから一年の時が流れた。
日向は駅のホームに立ち、乗客たちの視線に怯えるように無意識に髪を触った。これは地毛ではなく、少しでも幼くみせるためのショートボブの黒髪ウィッグだ。自分がセーラー服を着た二十五歳だと気づかれはしないか――その思いが心臓を早鐘のように打たせていた。
通勤ラッシュで賑わう中、すれ違う大人たちの目が自分に刺さる気がして、鞄からお守り代わりに持ち歩いているマスクを取り出し、そっと顔に当てた。伊達メガネの縁を軽く抑えながら、短いスカートを風が揺らすのを感じる。心がざわつくたび、胸の中に押し込めた「ある約束」がちらつくのだった。
それは――十二年前、母と交わした最後の約束。
十二年前、日向が中学一年生の頃のことだった。
突然、母が職場で倒れたと連絡が来た。
「ちょっと疲れが溜まっていただけよ。大丈夫だから心配しないで」
母はそう笑っていたが、病院の診断は冷酷だった。余命わずか――治療をしても完治の見込みはないと告げられたのだ。
母はシングルマザーとして、日向と六歳の妹・風華を育てるために必死だった。その必死さゆえに、自分の体調を顧みる余裕すらなかったのだろう。
その後、母は「家族と一緒に過ごしたい」と自宅療養を選んだ。
ある日の午後、日向が風華とニンテンドーDSで遊んでいると、扉のノック音が響いた。母がふらふらと部屋に入ってくる。顔色は悪く、足取りは頼りなかった。
「お母さん! ダメだよ、寝てなきゃ!」
驚いた日向は慌てて母を支えようとしたが、母は小さく首を振る。
「今日は少しだけ調子がいいの……だから、大丈夫よ」
そう言いながらも、母の声は掠れており、時折咳き込む姿に、その言葉が嘘であることは明らかだった。
「日向、ちょっと一緒に来てくれる?」
母の瞳はどこか真剣で、日向は妹の頭を軽く撫でて「すぐ戻るから待っててね」と声をかけた。
母に連れられた先は、クローゼットの前だった。
母はその中から、時ヶ台高校のセーラー服をそっと取り出した。それは母自身が通っていた高校時代の制服だった。
母は制服を両手で包むように撫でながら、日向に言った。
「これ、着てみてくれる?」
「え……? なんで急に……」
驚いた日向は母の顔を見上げた。以前、小学校低学年の頃、「お母さんの制服、着てみたい!」とせがんだことがあった。だがその時、母は「まだあなたには早い。日向がもう少しお姉さんになったらね」と笑って受け流したのだ。
なぜ今――そんな疑問が心の中で膨らむ。
「お願い……」
母の声には、何か切実なものが込められていた。
言葉の意味を測りかねながらも、日向は母の手伝いを受け、セーラー服の袖を通した。
鏡に映った自分の姿を見ると、制服は少し大きめで、小柄な日向には少しブカブカだった。小学生の女の子が大人びた服を着ているような、不思議な違和感があった。
「まだ、私には似合わないよ……」
日向は制服の裾をそっとつまみながら、苦笑いした。
母はその姿をじっと見つめ、微笑みを浮かべた。
「そんなことないわ。すごく似合ってる……私の夢が、少し叶ったみたい」
「夢?」
首を傾げる日向の肩に、母は優しく手を置いた。
「娘である日向が、この制服を着て、高校に通う姿を見たかった……それが、母としての願いだったの」
その後に、「そう……ずっと見たかったのよ……」と絞り出すような声で続けた。
その言葉に、日向は困ったように笑った。
「やめてよ、そんな……なんか、お母さん死んじゃうみたいなこと言わないでよ」
冗談めかして笑ったつもりだったが、母は何も答えず、ただ静かに日向を後ろから抱きしめた。
「もしも私がいなくなっても、あなたにはこの制服を着て、自分の人生を生きてほしい」
囁く声が震えていた。
「……うん」
日向は小さく頷いた。その時、何かを約束した気がした。
その二年後に母はこの世を旅立った。
あれから十二年が経ち、母との約束は果たされなかった。
高校どころか、生きることに精一杯の日々が続いた。それでも今――駅のホームで立ち尽くしながら、自分の選択が間違いではなかったと思いたかった。
そう、今のこの選択だって。
「自分の人生を生きる」。その言葉だけを胸に刻み、日向は深呼吸をしてホームの電車へと足を踏み出した。
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