第17話 決着は鬼ごっこ

 イブから提案された『鬼ごっこ』の意味がアンジーには分からない。


「は?」


「お前が鬼で俺を追いかける。タッチされて捕まったら俺の負け」


「勝手に決めるな……かけっこでの勝負だったはず」


「『かけっこ』って言ったろ? 勝負がつかないから鬼ごっこな」


「……!」


「このグラウンドで五分逃げ切ったら俺の勝ちでいいよな? じゃあ始めようぜ」


 ティセラが「よーい、ドン!」と合図し、茶髪の男子生徒がストップウォッチのボタンを押す。

 イブが「こっちだよ~」と自分の尻をたたき挑発する。


 アンジーの金色の右眼に再び火がともり、膨張した自身の風の加護衣ヴェーラが身体中を包む。満身創痍ではあるものの脚はまだ動く。体の痛みも五分程度なら我慢できる。


 避けられるたびにマットまで走って突っ込むのは時間の無駄。止まれる速さで追いかけ、加速するのはここぞのタイミングでいい――


「人間がわたしから逃げ切れるわけない」


 そう言いながら、三度深呼吸してその目に五十メートル先のイブをとらえる。


 明らかに抑えた速さであるが、ものの数秒でイブの傍まで距離を詰める。

 イブは追いつかれる寸前でひらりとかわし、右に左に逃げる方向を変え、ことごとくアンジーをやり過ごす。


「へへ、ヤンキー流『警察に追われた時の運転術おちょくり走行』ナメんな!」


 つい苛ついて速度を出し過ぎてしまうアンジーは、マットまで突っ込むほどではないにしろ、その都度イブとの距離が空いて時間をロスしてしまう。


 さらに、イブが生徒たちの集団に飛び込んだことでパニックが広がる。

 男女の生徒が入り乱れ、ハチの巣をつついたような阿鼻叫喚の光景にアンジーは呆然と立ち尽くしてしまう。


「あと三十秒!」


 タイムキーパーの無情な声で我に返るアンジー。

 よく見るとイブは生徒たちに小突かれながら袋小路に囲まれ、逃げ場を失い焦った顔をこちらに向けている。


 ラストチャンス。

 残り時間を考えてもこの距離なら十分届く。今までの動きから左右どちらに逃げるかも予測できる。


「これで終わり」


 アンジーが走り出し、加速するため姿勢を低くした瞬間、それまでの焦った表情を捨てイブがにやりと笑う。


(避ける気? ――右? 左?)


 ほんの一瞬泳いだ視線を戻すと、そこにいたはずのイブが忽然と姿を消していた。


 アンジーはイブが立っていた場所を走り抜け、奥で身構えていたティセラとエネシアの胸に飛び込む。

 アンジーを含むその場にいた生徒全てが見失ったイブは、最後の力を振り絞って


 体操選手を彷彿とさせるような伸身宙返りでアンジーをやり過ごしたイブだが、限界を超えた跳躍に悲鳴を上げた脚で着地の衝撃を支えられるわけもなく、尻もちをつく形で尾てい骨を痛打する。


「んごっ!」


 振り返ったアンジーが、その場にうずくまり尻の痛みに悶絶しているイブを確認する。タイムキーパーが「十、九……」とカウントダウンを進める中、アンジーは勝利を確信し絶体絶命のイブに歩み寄る。


 あと一歩、イブにタッチしようと手を伸ばすのと同時に、満面の笑みでイブが顔を上げる。


「よかった。男性オスアレルギーは治ったんだな?」


 アンジーは無表情のまま、ピタリと動きを止めた。


「…………」


(そうだった――わたしはこいつに! どうする? タッチしないと勝ったことにならない……でもさわったら気絶は確定――)


 気を失えば必ずうやむやにして、また難題を吹っ掛けるに違いない。

 それはイヤだ。でも自分からはさわれない! でも……でも……でも!


「……ゼロ! 終了~!」


「っしゃあ~~~っ! 俺の勝ちだぁぁ~~~っ!」


 タイムキーパーの無情な声に続き、イブの歓喜の勝利宣言が響く。

 意外な結末に声を失っていた周囲の生徒も大歓声でイブを称える。


 屈託のない笑顔でハイタッチを繰り出すイブに、ティセラやエネシア以外にもほんの数人ではあるが笑って応じるものが増えている。

 もちろん、苦々しい顔や無関心なそぶりで二人を眺める者もまだ多い。


 アンジーはぐちゃぐちゃな感情で頭の中が一杯になり、呆然とイブを見つめたままその場にへたりこんだ。戦闘ではないものの、人間に負けたという事実がアンジーの自尊心プライドを粉々に砕いていた。


 ひとしきり揉みくちゃにされたイブがその様子に気づき、アンジーに近づく。


(――ああ、またバカにされる――)


「悪かったなアンジー。ごめん、謝る」


 全く予想だにしなかった言葉。

 アンジーの目の前で、勝ったはずのイブが頭を下げ自分に謝罪している。

 何を言われているのか理解できず、アンジーはきょとんとしたままイブを見上げる。


「湖で見たときから思ってたんだけどさ……負けず嫌いだろ? だからこんな勝負に持って行った」


(湖? ――まさか最初のあの時?)


「自分でもズルかったと思ってる。正々堂々どころか反則ぎりぎりだったよな」


 ぎりぎりどころか正々堂々の反則である。

 だが、それに気づきながら勝負を受けたアンジー自身も「負けるはずがない」と、油断と慢心があったことを自覚している。


 しかし、口先だけで強引に巻き込まれたとはいえ、この人間にそこまで嫌悪感を抱いていないことにアンジー自身驚いていた。

 アンジーは初めて湧き上がる感情に戸惑いながら、それを押さえ込むように答える。


樹黎人ダークエルフは約束を守る高潔な種族」


 様々な思いが胸中を駆け巡る。

 一呼吸置き、アンジーは自分の気持ちに素直になることに決めた。


「……負けは負けだから……バディを組む」


「マジか!」


 その瞬間、イブの顔が満面の笑みに染まる。


「ありがとう! めっちゃ嬉しいぜ!」


 アンジーはそんな言葉を初めて耳にした。これまで耳に入る言葉は、全てが自分への憎悪であり、罵倒であり、嘲笑であり、差別だった。

 自分に対し謝罪はおろか感謝の言葉など口にした者は、ティセラやエネシアを除けばこれまでほとんどいなかったというのに。


 いま自分の目の前にいる人間は、心の底から喜んでいて……その感謝を言葉にしているのだと、素直にそう思えた。


(ああ、わたしがずっと欲しかった言葉をこの人間が――)


 湧き上がる感情に蓋をすることもできず、自分で気づかないうちにアンジーも笑顔になっていた。

 汗を拭い髪を掻き上げたその顔にイブもつい見とれてしまう。


「ほんと可愛いな……」


「え?」


 うっかり本音を漏らし、アンジーに凝視されるイブ。


「あ、いや、ほら……その耳! ティセラとエネシアが可愛いって言ってたから」


「あ! これは……!」


 真っ赤な顔で慌てて耳を髪で隠したアンジーが、気まずい沈黙の後、自ら口を開く。


樹黎人ダークエルフなのに獣人っぽい耳が嫌い……ずっと隠してた」


「そうか? 俺は気にならないし好きだぜ」


「す、好き!?」


「え、あ、いや、み、耳な! 耳のはなし!」


 イブは気まずい空気をごまかすように右手を差し出す。


「立てるか? ほら」


「う……うん」


 アンジーは完全に舞い上がったまま、イブの手をつかむ。


「「あっ!」」


 次の瞬間、頭の先から尻尾の先まで毛を逆立たせたアンジーが声にならない叫びを発し気を失う。

 仰向けに倒れたその口からは、エクトプラズム的な白いアンジーが旅立とうとしている。


「イブ! アンジーは男性オスアレルギーだって言ったよね!」


 ティセラとエネシアが慌ててアンジーを介抱する。


「あ、あれれ~? これ背中預けて大丈夫なのかな……?」

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