第16話 生贄の種馬は学園最速とかけっこする
「絶対にイヤ……あとそれ以上近寄るな」
三日目の朝も玉砕。
学食での決意表明以降イブはことあるごとにアンジーに声をかけ、断られ続けている。
屋外だと一瞬で見えなくなるため狙い目は校内なのだが……あの無表情で汚物を見るような目にも慣れてきたし、むしろクセになりつつあった。
彼女の本名はアンジー・V・ゲラーロ。
父方の
それを象徴するような短く黒い尻尾は、狼というより猫のそれに近い。
右目が金色、左目が碧色のオッドアイが特徴的だ。
ちなみに、獣人のケモ耳は頭の上ではなく人間やエルフと同じ目の横位置にある。
耳の大きさは人間より大きくフサフサで、種族ごとの特徴がある。
しかしアンジーの耳は
らしいというのは、彼女が普段から黒髪で耳を覆っていて見せないためだ。
「アンジーの耳はほんとに可愛い」と、ティセラとエネシアが鼻息荒く熱弁していたが、エルフの性癖に刺さる程度には可愛いのだろう。
午後の体育にアンジーが参加すると聞き、イブも参加することにした。
数学だの経済学だのはサボる気しか起きないのでむしろありがたい。
この国でも体操服と短パンに着替えるというスタイルは人間と変わらない。
ただし服装は自由なので、大和では見なくなった『ブルマ』なんかもチラホラいる。
ブルマ派であるティセラとエネシアを見たイブが「眼福眼福」と拝む。
集団から少し離れたところに、長袖のTシャツと七分丈の短パンのアンジーを見つけ、イブが声をかける。
「しつこい男は嫌い。むしろ男が嫌い。そもそもわたしより弱い者とバディは組まない」
「いつから俺より強いと錯覚してた? じゃあ俺と
湖で『売られたケンカは正々堂々買うのが
案の定、
「俺が勝ったらその瞬間にバディ確定な。負けを認めたら諦めるよ」
「わかった……どうせわたしが勝つから二度と近寄るな」
突然の展開に、イブとアンジーに注目が集まる。
「勝負の方法は?」
「とりあえずかけっこはどうだ?」
周囲からどよめきが起こる。
「ちょ、ちょっとイブ! フラれ過ぎておかしくなった?」
「ダメなのです。アンジーの脚はこの学園最速なのですよ?」
イブがティセラとエネシアに引っ張られ説教を喰らう。
速いことは百も承知だが、学園最速と聞いて納得した。
「なにか作戦があるのです?」
「おう、ヤンキー流のド根性作戦で絶対勝つからな」
「それ作戦とは言わないのです」
まあ見てろと、イブは自信満々に親指を立てティセラに耳打ちする。
「え、それだけ?」と言いながら、ティセラも親指を立てて了解する。
勝負は百メートルのかけっこ。
ティセラがスターター役を買って出る。
「それじゃあいい? よーい、ドン! って言ったら走――」
よくあるギャグだ。「ドン!っていったら走るんだよ!」「スタートじゃないんかーい!」ってツッコむやつだ。
ティセラ渾身のギャグを潰すように、今まさにアンジーがゴールのはるか先、陸上競技で使う大型のマットに突っ込んでいる。
ツッコミ間違いとは修業が足らんな。
イブは、授業の前にティセラが教えてくれた情報を思い出していた。
「アンジー、脚は速いんだけど止まれないし曲がれないんだよね」
情報通りトップスピードにステータス全振りの直線番長。
最初に会った時、湖に突っ込んだのはそのせいだったようだ。
「わたしの勝ち」
マットに衝突したダメージを我慢しながらアンジーが戻ってくる。
「……何言ってんだ? 今のはフライングだぜ?」
「な……!」
アンジーが振り返ると、ティセラがペロッと舌を出して「ごめんちゃい」と謝る。
「スターターの合図はちゃんと聞かなきゃ。てことでもう一回」
「……わかった、次は失敗しない」
再スタート。今度はちゃんと「ドン!」で走り出したイブを見て、アンジーが後から追いかけてくる。
五十メートル走6秒台のイブを置きざりにして、アンジーが再びマットに突き刺さる。
さらにダメージを重ねたアンジーが、若干よろけながらイブのところに戻ってくる。
「めちゃめちゃ速いな! ほんとにすげーよ」
「わたしの勝ち」
「よし、気を取り直して二本目は俺が勝つぜ」
「は?」
「ん?」
「いや、わたしの勝ちで終わり」
「何言ってんだ? こんな大事なこと一発勝負で決めるわけないじゃん?」
「な……そんな取り決めしてない」
「じゃあ一発勝負でもいいけど、一回目はフライングだから反則負けでいいんだな?」
「!」
普段は全く動かないアンジーの表情筋が引きつっている。
「じゃあ二本目いくぜ。ティセラ!」
「オッケー! よーい、ドン!」
「まっ……」
速攻のリスタート。かなり出遅れたアンジーだが、さすがは学園最速。
ゴール手前十メートルほどのところでイブを抜き去り、三たびマットに突き刺さる。
「やっぱはえーな! ちょっと本気出すか。んじゃ次な!」
「ちょ……ちょっと」
繰り返される茶番に、いつしかコース脇に人だかりができる。
タイムを計測するものや賭けの胴元まで現れる始末。
フェイント、変顔、パンツ一丁などあらゆる妨害にたじろぎ、ボロボロになりながらも勝ち続けるアンジー。
さすがに三十回を超えた辺りから、二人とも汗だくでフラフラになっている。
「……よぅひ……五十二本目は……本気でいく……きゃら負けにゃいぜ……」
「……にゃんどやって……も……ムダ……わらひが……勝ちゅ……」
息も絶え絶えに、よろよろとスタートラインに戻る二人。
最初ははやし立てていたギャラリーも、目の前で繰り返される狂気じみた勝負に声を失っている。
タイムを計測していた茶髪の男子生徒が、震えながら周囲の生徒に質問する。
「なぁ……あいつら百メートルダッシュを五十本以上やってるんだよな?」
「そうよ。それが?」
「タイムがおかしい」
「あー、そういえばあんまり差が開かなくなったな」
「そりゃいくら黒猫だって、五十回も全力疾走すればタイム落ちるでしょ」
「雑種じゃない。人間のほう」
「絶滅危惧種か。あいつもヘロヘロじゃん」
「でもあいつ……タイムが落ちてない」
スタートラインまでは溶けかけのスライムみたいな動きのイブだが、いざ走り出すと風圧まかせで変形した顔のまま、これまでと変わらない速度で全力疾走している。
「うそ……あり得ないでしょ」
「風の
「バカ。あいつ全然持ってないのよ?」
「どうなってんだよこれ……」
そして五十四本目。
明らかに満身創痍でタイムが落ちているアンジーの後ろに、イブがピタリと喰らいつく。
アンジーは、コースの終盤までイブと距離が開かないことに驚きながら、しかし「ここで決める」と言わんばかりに軸足を踏み込む。
一気に振り切れ――ず、逆に後ろにいたはずのイブの「
(なんなんだ、こいつ――)
戸惑いを隠せないまま二人並んでゴールする。
アンジーはマットに五十五回目のダイブを敢行。イブは大の字で仰向けに転がっている。
タイムを計測していた男子学生が、困惑したような半笑いでストップウォッチをかかげる。
「……ウソだろ、ここでベストタイム更新って」
よろよろとアンジーが戻ってくる。イブも起き上がるが、足は生まれたての小鹿のようにぷるぷる震えている。
「今にょは……俺にょ勝ちだにゃ……」
「そんにゃわけ……にゃい……わたしにょが先……だった」
「は? 俺にょ前髪にょほうが……前だっちゃんやが?」
「いや、わたしにょ
「よぅし、じゃあ次にょ勝負で
「わかっちゃ、受けちぇ立ちゅ」
スタートラインに向かうべく歩き始めたアンジーに、イブが息を整え後ろから声をかける。
「じゃあ次は鬼ごっこな!」
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