ほぼ実話
墓太郎
城壁と残響
トスカーナの田舎には古びた城があった。灰褐色の石積みに苔が張り付き、風化した尖塔は夕焼けに包まれて陰影を落とす。その城は、私の祖父、そして彼の祖父、そのまた先祖が代々守り続けたとされる旧い家系の拠点であり、私は幼き日々、この静謐で朽ちかけた要塞の中庭で遊んだ。風はオリーヴ畑を渡り、乾いた土の埃が舞い、茨に覆われた小径には、遠い時代の巡礼者の足跡が眠っている。
私はこの城で育ったと言ってもいい。幼少期、祖父は私を厚い石壁の影に隠された小さな庭へと連れて行き、荒れ果てた泉の縁でトスカーナの古い伝承を語った。かつて、この地には恵み深い収穫があり、人々は葡萄酒とオリーヴ油を惜しみなく味わい、大地は甘やかな緑に覆われていた。だが、ある年、若き娘が井戸に落ちて命を落とす悲劇が起きた。村人たちはその真相を闇へと沈め、城はその日から、誰もが避ける暗い目印となったという。
成長するにつれ、私は都市へ出て、やがてこの城を離れた。アスファルトの道、華やかな人声、機械音。そこで得た知識や生活が私を変えたが、なぜか定期的にこの城へ戻らずにはいられなかった。祖父は数年前に永眠し、城は私をただ静かに迎え入れる。荒廃した中庭に佇めば、草むらから虫が微かな声で囁き、ひび割れた石壁を這う蔦が、古い文字をなぞるように揺れている。語る者なき伝承が、空洞のごとく、その場を占めていた。
今宵、私は再びここへ戻ってきた。黄昏が、老いた壁面に淡紅の色彩を投げかけると、レオポルドと呼ばれた曾祖父の名が微かに記録された石板を見つける。曾祖父は、墓守のようにこの城を守り、村の声なき声を聞き取ろうとしていた男だと聞く。祖父が語った伝承の中で、その名はしばしば現れた。彼はトスカーナの夜風が紡ぐ呪文を理解した、奇妙な洞察力を持っていたらしい。
中庭の片隅に、崩れかけた井戸がある。かつて娘を呑み込んだとされるその井戸は、闇の瞳のように底知れぬ深黒を湛えている。私はその縁に触れ、石の冷たさを手のひらで感じた。曾祖父レオポルドが幼き頃、その井戸の脇で何を見、何を感じたのかは、もう誰にもわからない。だが、私は微かな震えを覚え、耳を澄ます。すると、遠くで梟が鳴く声が、何かを告げるかのように揺らめいた。
井戸の周りには、よく見ればオリーヴの木が何本か残されている。葉は乾き、幹は苔むし、実をつける気配もない。それでも、頑なに生き長らえたその樹々は、この城と村とを繋ぐ証人のように思えた。私が枝先を撫でると、ザラリとした感触が指先に残る。果実なきオリーヴ、行く宛なき祈り、報われぬ死者の魂。それらが溶け合い、夜の帳に包まれながら、この地に棲み続けている。
風が強まり、垣間見える月光が井戸の縁を照らした。私は石段を下り、かつて倉庫であった地下室へと足を運ぶ。薄暗く、黴と土の匂いが充満するその空間で、古い木箱を開ける。中には、黄ばんだ手紙と擦り切れた装丁の祈祷書が残されていた。手紙には曾祖父レオポルドの名で綴られた文章がある。彼はこの城に霊が彷徨うこと、井戸が深い苦悶を孕んでいること、そして遠い昔、その娘の死によってこの地が呪われたと記していた。
だが、レオポルドはただ嘆くのではなく、そこに秘められた光を求めていた。井戸の底には清冽な水が残っているはずだ、彼はそう信じていた。大地の鼓動が途絶えぬ限り、オリーヴ畑も、葡萄園も、再び蘇る日が来るだろう、と。彼は夜な夜な井戸を覗き込み、風が紡ぐ囁きを拾い上げ、失われた声を結び合わせようとしていたらしい。
私は手紙を胸に抱え、地下室を出る。中庭に戻ると、星空がすでに闇の天蓋を張っている。井戸の縁に腰を下ろし、そっと目を閉じる。深く呼吸をすると、土の匂いと苔むした石、遠くのオリーヴの樹皮の息遣い、そしてかすかな潮解するような水気が、私を包み込む。
その時、不意に足元から微かな滴る音が聞こえる。井戸の底から立ち上る冷気が、私の首筋を撫でる。目を開けば、月光が井戸の内壁に染み、淡い輝きを帯びている。その中に人影が揺らめいた気がして、私は息を呑む。若き娘の幻だろうか、それともレオポルドが追い求めた声なき声が、視覚に化けたのか。
私は声には出さず、心の中で問いかける。「あなたは、何を伝えたいのか」。すると、風が揺れ、オリーヴの枝が微かに軋んだ。井戸の奥から何かが応えるような気がした。言葉にはならぬが、深い静けさの中で、甘やかな苦味が舌先に甦る。オリーヴのオイルが、かつてここに満ちていた生命を思い起こさせる。
こうして、私はこのトスカーナの田舎の城に戻り、レオポルドの魂が刻んだ痕跡を辿った。村は廃れ、娘は声を失い、収穫は絶え果てたかに見える。だが、大地は呼吸を続け、水脈は井戸の底で煌めきを潜ませている。
私が離れた後、この城は再び静寂に包まれるだろう。けれども、かつてここで生きた者たちの意志は、石壁に染み込み、落ち葉の下で腐葉土となり、いつの日か新たな芽を吹かせるかもしれない。私がその光景を見ることはないだろう。しかし、この城と井戸と畑が編んできた物語は、私を通り抜け、未来へと影を落とす。
オリーヴの実が再び実る日は来るのか。その答えは、秋の風が運ぶ囁きの中、黄ばんだ手紙のインクの滲みの中、そして井戸の底に隠れた清冽な水の中に潜んでいる。
私は立ち上がり、石段を昇る。城壁の残響は、まだ耳元で微かに響く。微笑むことなき聖母像、黙したレオポルド、消えた娘、荒れ果てたオリーヴ畑。それらは深い夜空へと溶け込み、私が去った後も、トスカーナの地中で揺籃のように揺らめくだろう。
ほぼ実話 墓太郎 @haka_taro
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