花言葉と共に
杉本
後悔
「9月4日火曜日、現在の時刻は9時半になります。今日は関東地方で線状降水帯が発生し、昼過ぎから雨が降るでしょう。これから出勤、出かける方は雨具を持つといいでし——」
女性アナウンサーの声が部屋に広がる中、渡会海斗はソファの下に転がっていたテレビのリモコンを手に取って電源ボタンを押し、テレビの電源を切った。テレビの画面が真っ黒になると、テーブルとソファに寄りかかる自分の姿が画面に微かに反射して見えた。
静けさを纏い、時計の秒針の音だけが聞こえる部屋で、海斗は1人座りながら上を見上げて無地の天井を見つめる。いつ出来たのかわからないシミのような黒い点々が目、鼻、口のように見えて、いくつもの顔を形成し始める。
天井にいるそいつらがジロリと自分を監視しているような気がして視線を前に戻した。
海斗は、おもむろに立ち上がるとリビングからキッチンへ向かった。キッチンに着くと、シンクの横にある水切りラックに置かれているジョウロを手に取り、水を入れた。ジョウロの蓋を閉めながら、リビングにある窓の窓台にポツンと置かれている花に目をやった。その花は、孤独ながらも陽の光に照らされながら、元ある鮮やかな黄色の色彩を一層際立てて凛と咲いている。
「キレイでしょ、このひまわり」
「うん。すごい大きくてきれい」
花を見ていると、窓際でひまわりに水をやる優と会話をする記憶が海斗の脳内に映し出された。
あの日は、小鳥のさえずりが心地よく耳に入ってくる朝だった。
「ねえねえ、ひまわりの花言葉って知ってる?」
優がジョウロで水をやりながら海斗に聞いた。
「え、全然わかんないけど」
「クイズ。なんでしょうか」
「元気……とか?」
「違う違う。ひまわりの花言葉はあなただけを見つめる」
「あなただけを見つめる……すげえロマンチック」
海斗が笑いながら答えると、優は水をやるのをやめて海斗の目を見ながら言った。
「だからこの花を買ったの。私は、穏やかでたくさんの幸せと、一緒に暮らしていきたい」
そう話す優の目はとても透き通っていた。
このまま、いろんなことを経験して、いろんな幸せを享受しながら生きていけたらどれだけ幸せなんだろうかとあの時は思っていたのかもしれない。
海斗はジョウロを持ってひまわりに水をかけていく。
海斗がかけた水が土に浸透して無くなっていき、やがて土が吸収しきれなかった水が、表面に溢れ出た。水の表面にひまわりが反射して、黄色く濁らせる。
「でもね、ひまわりにはまだ別の意味の花言葉があるの」
「なに?」
「偽りの愛」
優はそう言って、少し微笑んだ。
「なにそれ、めちゃめちゃ不吉じゃん。返してこようよ」
「大丈夫。良い方の花言葉をいっしょに育てていけばいいでしょ?」
「まあ、そうだね」
あの時、なぜ優が悪い方の花言葉を言ったのかはわからない。
自分への注意喚起だったのか、ただただ伝えただけだったのか。今になってはもうわからない。一つだけの揺るがない事実は、優はこの家を出て行ってしまったということ。
2週間前、休日に遅く起きると携帯にメッセージが入っていた。
『ごめんなさい』
たった1行ではあるが、文面から滲み出る悲哀をすぐに察することができた。優の部屋に、何も荷物は残っていなかった。
優が出ていく前日の、あの表情に何故気づけなかったのか。
「仕事ばっかで……家のことも、私との時間のこともちょっとは考えてよ」
「分かってるよ。でもごめん、疲れてるんだよ」
優との最後の会話を思い出しながら、リビングを見渡す。
リビングで食事をして笑い合う姿、ゲームをしている姿、抱き合う姿が幻影のように目の前に広がった。
悪い方の花言葉を育ててしまったのかな。
そんなことを考えている時、寝室のドアが開く音がした。小さい足音がリビングに向かって近づいてきて、足音の主が姿を現した。
「おはよう。翔太」
「おはよう」
まだ半開きの目を擦りながら、か細い声で翔太が言った。
「朝ごはんできてるよ。食べよっか」
「うん」
海斗は自分の3分の2にも満たない体を抱え上げて、自分と反対の席に座らせた。
「食パンにジャム塗る?」
「塗る」
「わかったよ」
お互いに言葉を発することなく朝食を食べすすめていく。翔太はぎこちない箸使いで野菜を食べていた。
「右腕の
「痛くない」
「よかった」
短い会話が終わるとすぐに沈黙が続く。
優だったらどんなこと話してるんだろう。
頭の中ではこの考えがぐるぐる回り、頬張っている食パンはまるでスポンジのように味がしなかった。
海斗は思う。翔太は自分に心を開き切っていない。
それもそうだ。
「いつも自分のことばっかり。私もう嫌なの」
優が言っていた。仕事にかかりっきりで家のことなんて何もしなかった。
初めて約束をすっぽかしたのは、上司との飲み会を断りきれなかった時だった。パワハラ気質の上司で、「これだから若い奴は」というのが口癖だった。半ば強引に飲み会に誘われ、一度は断ったのだが、後ろに従えた部下の先頭に立ち、乾いた目をしながら「上司との飲み会も、仕事の一環なんだけどねえ」と吐き捨てる上司を前に、「行きます」としか返しようがなかった。
帰るの遅くなる、と一通メールを送ったが既読にならず、家に帰ると寂しさだけを残した暗いリビングがあった。
帰ったら一緒にピザを食べて、好きな映画シリーズの最新作を見る約束だった。リビングの電気をつけると、冷え切ったピザがテーブルの上に置かれていた。
それからというもの、残業や飲み会などで帰るのが遅くなり、朝帰りすることもしばしばあったかもしれない。そしていつしか、報告メールも送らなくなっていた。このことを後悔する頃にはもう優はいなかった。自分のこの姿勢が、やっぱり翔太にも伝わっているのだろうか。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせ、一斉に声を出した。
翔太の食器を自分のに重ねてキッチンに持って行こうとした時、翔太が口を開いた。
「……っしたい」
こぼれ落ちた言葉尻を拾うように海斗は答えた。
「ん?何したいって?」
「サッカー……したい…」
初めて翔太から何かを発してくれた嬉しさをよそに、迷いが海斗の中に生じた。
「確か昼から雨降るって言ってたな………」
そう言って翔太の方をチラリと見ると下を向いている。
がっかりしたような翔太の反応を見て、海斗は心の中で自問自答しながら、決心した。
「じゃあ、近くの公園でやろうか。昼には雨が降るから、食器洗ったらすぐ行こう」
「うん!」
翔太は顔を上げて笑った。翔太の笑顔を見たのは初めてだったかもしれない。そしてふと思い出す。休みを取ったから明日はどこかへ出かけようと言った時の、優の笑顔を。
もう、誰も失いたくない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます