診察台の上で処女膜を失った話

深山恐竜

第1話

結婚していますか? → YES

性交渉の経験はありますか? → NO


 私は泣きたい気持ちで産婦人科の問診票に記入した。

 はじめて行く産婦人科だった。壁にはたくさんのポスターが貼ってあって、『葉酸』や『臍帯血』など、これまでの人生で産婦人科にかかったことがなかった私には耳慣れない言葉が並んでいる。

 異世界に迷い込んだような気分だった。落ち着かない感じ。こんなはずではなかった、という思いが何度か沸き上がってきた。


 問診票を受付に戻すとすぐに診察室に呼ばれた。

 医師は私が書いた問診票を二度見して尋ねた。


「結婚されているのに性交渉されたことがない?」

 私は言葉を絞り出した。

「……どうしても入らないんです」


 27歳、夫と結婚して1年目の夏だった。



*****



 私のいわゆる”初体験”は夜景が見えるちょっといい感じのホテルで執り行われた。

 私も相手も24歳、社会人1年目のことだった。

 彼は会社の同期で、入社してすぐの新人研修で仲良くなった人だった。私のはじめての恋人でもあった。

 親にかなりの経済的負担をかけて大学そして大学院に進学した私はなんとなく学生期間に恋人をつくるのは親に対する裏切りだと思っていて、恋人をつくっていなかったのだ。


 はじめての恋人と、初体験。

 私は人生24年かけてこの行為に対して多大な幻想をうみだしていた。

 初体験はきらきらしていて幸せなものだという幻想だ。


 幸か不幸か彼は恋愛経験もじゅうぶんにある人で、彼にリードされるままホテルに入り、いい雰囲気になって、そして――。


「ひいいいいんぎゃああああ!」


 あのときの情けない自分の悲鳴を、私は一生忘れないと思う。

 彼は「え? まだ触っただけだよ」と驚いていた。事実、ほんとうに指先が触れたくらいだった。


 それでも痛かった。目の前が白くなった。汗が噴き出したし、全身強張って、彼が「落ち着いて」と言いながら差し出してくれたペットボトルの蓋すら自力であけられない状態になっていた。


 ――痛い痛い痛い!


 頭の中はそれでいっぱいだった。包丁か何か鋭利なものを突き立てられたような感覚だった。

 それがふつうのことなのかどうか私に判断できる知識はなかった。

 しかし彼が「もうやめとこうか」というのでそれに従った。


 その日は結局ただ時間が来るまでベッドの上でごろごろして過ごした。

 帰りの車内では彼が「まあ、そういうこともあるよね。緊張しちゃったかな」とずっと励ましてくれていた。


 その彼とはその日から気まずくなってすぐに別れてしまった。

 ――私のきらきら初体験の夢はこうして頓挫したわけである。



 その次の恋人とは何度かトライしたが指を入れることさえできなかった。

 トライするたびに私は激しい痛みを感じて「ギャァァァ」と壮絶な悲鳴をあげていた。彼も性交渉の経験がなく、私の痛がりように首を傾げるしかなかった。


 1年ほど付き合ったころ、彼と京都へ行った。

 確か、清水寺だったと思う。そこでふとした会話の流れから彼が性交渉の最中に痛がる私の様子のものまねをした。

 彼としてはほんの冗談のつもりだったのだろうが、私はその場でブチギレた。


「誰のせいでこんな痛い思いを!」


 この頃、私は性交渉がうまくできないと女友達に相談していた。経験豊富な友人は「それは男が下手なんだ!」と断言していた。

 そういうこともあって、私としてはこの痛みの原因は彼にあると思っていた。

 そして私はその場で別れを叩きつけ、一人淋しく京都から帰った。

 (今思うとなかなか私は傲慢だ…)

 


 その次の恋人は学生時代の友人で、付き合ったその日にトライして強引に押し込んだ結果痛みに嘔吐するはめになった。彼とはその日のうちに別れ、人生最短の恋人となった。


 正直なことをいうと、彼のことはそれほど好きではなかった。彼に告白されて付き合ったが、決め手は彼が学生時代にそれなりに女の子と付き合っていたことだった。

 前の恋人と別れた反省として、次は経験豊富な人と付き合いたかったのだ。 

 とはいえ、やはりきらきら初体験には心が必要だった。

 今回も初体験は成功しなかったが、「まぁやっぱり心から好きな人じゃないとできないよね」と新しい教訓を得た。

 

 相手には技術。私には心。

 これが両方備わっていないとできないのだ。

 私は勝手にそう納得していた。


 ちなみに3人目の恋人には別れたあとに「はじめての子でもそんなに痛がらないよ。ひとりで練習した方がいいかもよ」と言われた。

 しかし、私は自分で触ることには抵抗があって確認はしなかった。私はもともと性欲の発散に自分で触るということをしないタイプだったのだ。


 それに、そういうシーンを含む漫画や小説のなかでは「はじめての子」が痛がっている様子がよく描かれていたので、そういうものなのだろうというふんわりとした思い込みと、そんななかやさしく運命の相手にリードされてはじめての瞬間を迎えたいという幻想がまだ残っていた。

(ちなみに私はBLしか読まないのでたぶん世間より偏っていたと思う)





 そんな私が将来夫となる人に出会ったのは、はじめての失敗から2年後のことだった。

 彼は誠実な人だった。そして行動力もある人で、出会って2週間で交際をはじめ、3か月でプロポーズをしてくれた。

 私の家族はそれまで恋人の気配を見せなかった私が唐突に結婚相手を連れてきたことで目を白黒させていた。


 彼はほんとうに誠実だった。

 彼は私が大学院を修了してお堅いと形容されるような職業に就いていたことで、私のことを純潔だと信じて疑わなかった。

 交際がはじまってすぐに彼は「結婚するまでそういうのはしないよ」と言い、私もうなずいた。


 不安はあったが、夫に対して「元カレに触られたときにね」と切り出す勇気がなかった。

 それに、これまでの恋人とできなかったのは運命の相手ではなかったからで、夫はそこにあらわれた白馬の王子様なので、できるに決まっているというきらきらな幻想をもっていた。

 おまけに夫は7歳歳上で経験豊富だった。

 相手には技術、私には心。

 私が考えたきらきら初体験成功の鍵はどちらも完璧に備わっている。きっと大丈夫。


 そんな私の卑怯または夢見がちな沈黙によって、私たちは性交渉をもたないまま婚約し、結婚した。


 ――そして私たち夫婦は結婚1周年目を迎えても性交渉が成功しないままであった。






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