第一章
00.突然の訪問者
平民街の一角にある小さな診療所の薬棚の前で、アルヴィス・クロフトは手元のリストと棚に並べられた薬瓶のラベルを交互に確認しながら、もくもくと在庫の確認をしていた。
ほっそりとした女性らしい繊細な指先が一つ一つの薬品を慈しむようにそっと触れる。
早朝の光が大きな窓から差し込み、彼女の端正な横顔を柔らかく照らしている。
後頭部で編み込んですっきりとまとめているアッシュブラウンの髪の毛はやわらかく、動く度にほっそりとした輪郭にはかなげに影を落とした。猫の毛のように細っこい前髪の隙間から緑がかった灰色の優しげな瞳がのぞく。
華美さはなくシンプルなブラウスの上に淡いモスグリーンのベストを合わせ、動きやすそうなロングスカートによく使いこまれたブーツを合わせている。重みのあるブーツなのか、歩く度に古びた床が少し沈んで音を立てる。
診療所は静かで、心地よいハーブと消毒液の香りが漂っていた。
「もう少しアーステリアの抽出液が必要ね……」と独り言を呟くその声は、彼女の慎重で几帳面な性格をそのまま表しているようだった。
その時、診療所のドアが大きな音を立てて開いた。
「エヴァンス、頼むから頭が割れる前に何とかしてください。君ときたら、ちっとも電話にでないんですから」
突然の声と近づいてくる足音に、アルヴィスはびくりと身を震わせて目を開き、うっかり落としそうになった小瓶を慌てて両手で捕まえた。
「エヴァンス?いますか?」
穏やかな声が彼女の背後から投げかけられる。
アルヴィスはハッとして振り返った。
そこに立っていたのは、見知らぬ男――、はだけたシャツから露になった首元をそのままに、顔や衣類や胸元など、さまざなところに紅色の口紅のマークを押され、酒気を漂わせた艶やかな黒髪の男性だった。
色香が目には見えなくても漂ってくるようで、自分の生活圏にはかなり縁遠いものであったため、アルヴィスはう、と無表情を装い一歩後退する。背中に薬品棚が当たり、カタカタと薬瓶が揺れる音がしたものの、棚から落ちる気配がなくてほっと息をつく。
「あの」
どうしたものか、と悩むアルヴィスの向かい側で、清潔で整っているとはいいがたい服装の青年が棒立ちになっている。
粗野な感じはなく、涼やかな水色の瞳が痛みをこらえるように揺れていた。
男は彼女と目が合った瞬間、二度ほど目を瞬いて足を止めた。それから軽く眉を上げ、上品な顔立ちに微笑みを浮かべた。
「ああ、これは失礼を。てっきりエヴァンスだと思って」
アルヴィスは驚きと戸惑いを隠しつつ、静かに小さな咳払いをした。
「あっ、え、いいえ、お気になさらず。…あの、エヴァンス先生は今外出中です。私はその、えっと頼まれていた薬品を補充していたところでして」
男は軽く頷いて一歩下がり、「なるほど」と微笑を深めた。
その表情は少しだけ驚いた風ではあったが、どこか安心感を与える穏やかさがあった。
「そうでしたか。ご挨拶が遅れました。私はセリウス・リヴェンティール・ヘイウッドと言います。この診療所の常連患者でしてね、特にエヴァンスとは長い付き合いです」
「…あ!エヴァンスがよく話している、ヘイウッド伯爵ですね」
「そうです。たぶん……、その、ヘイウッドです」
アルヴィスはその名前に聞き覚えがあった。エヴァンスがよく話していた「旧友というか悪友」の名前だったはずだ。ヘイウッド伯爵の正式な名前は確か、セリウス・クレイヴン・リヴェンティール・ヘイウッド。
彼女は記憶を手繰り寄せながら短く会釈した。
「クロフトと申します」
「クロフト?」
はて、と小首を傾げたセリウスが何かを確認するように上から下までアルヴィスを見つめる。
「名前は?」
やわらかい笑みで促すように視線を向けられて、アルヴィスはしまったと小さく息をのんで、気恥ずかしさから彼の水色の瞳から視線を逸らす。あまり人に見られるのは苦手なのだ。
「アルヴィス・クロフトです」
「クロフト嬢ですね。どうぞよろしく」
親し気に片手を差し出され、アルヴィスは少し迷ったものの柔らかく握り返して、はにかみながら「よろしくおねがいします」と小さく答えた。
短い握手が終わり、そっと手が離されるとセリウスは思い出したようにこめかみに手を当てて、痛みをこらえるように目を瞑った。
「あの、大丈夫ですか?お体の具合が悪いのですよね」
気づかわし気なアルヴィスの表情にセリウスは少し苦笑しながら答えた。
「昨夜、つい飲み過ぎてしまいましてね。エヴァンスの助けを借りようと思ったのですが、タイミングが悪かったようです」
さて、どうしたものかと困ったように片頬を指先で引っ掻く姿にアルヴィスは柔らかく微笑み、近くの棚からオレンジ色の小さな瓶を取り出した。
「お薬をお持ちしましょう。頭痛と胃のむかつきに効くものです」
セリウスはその心遣いに少し驚いた様子で礼を述べた。
「助かります。お優しい方ですね、クロフトさん。突然押しかけたのにこんなに親切にしていただけるとは」
「いいえ。仕事のついでですから」
ゆるやかに首を振って、アルヴィスは隣の部屋へ足を向けた。
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