第2章:薄明の影喰い - 7「揺れる影、陽菜」
週明け、航はいつものように通勤電車に揺られていた。
車窓から差し込む陽光が、乗客たちの影を長く伸ばしている。
その影が、週末の光景を否応なく思い出させた。
強盗の影の異様さと、喰われた後の抜け殻のような姿
――その残像が、航の胸に鈍い痛みを残している。
(影を喰うだけじゃ解決にならない……。)
カゲの言葉が繰り返し頭に浮かぶ。
これまで航は、影を「軽くする」ことで一時的に救えると思っていた。
しかし、影を全部喰う行為がどれだけの代償を伴うかを目の当たりにした今、その考えが揺らぎ始めている。
目の前に座る中年男性の影が、足元で不規則に揺れているのが目に入った。
背中を丸めたその姿と小さく縮こまる影からは、彼が背負う重荷が透けて見えるようだった。
(……結局、人の影はその人自身だ。)
航は目を閉じ、深く息を吐いた。
会社に到着し、デスクに座った航は、一昨日の出来事を振り払うように資料に目を落とした。
(仕事に集中するしかない……。)
そう自分に言い聞かせながらも、視界の端に映る陽菜の姿が気になって仕方がなかった。
彼女は同僚たちと軽口を交わしながらも、どこか過剰な明るさを纏っているように見えた。
(陽菜……。あの笑顔の裏にある影は何だ?)
航は一昨日感じた影喰いの代償を思い出し、彼女の影に手を伸ばすことへの躊躇を覚えた。
しかし、その一方で、彼女の影がどれだけ深いものかを知りたいという好奇心も消えない。
「クロ先輩、大丈夫ですか?」
陽菜の声に現実に引き戻された航は、ハッとして顔を上げた。
「え? ああ……大丈夫だよ。」
陽菜は笑顔でうなずき、手に持っていた資料を航のデスクに置いた。
「次のクライアントとの会議、よろしくお願いしますね!」
陽菜の去り際、その影が一瞬だけ歪んだように見えた。
航は自分の胸がざわつくのを感じながら、深く息を吐いた。
午後四時、クライアントとの会議室。
航と陽菜は新規プロジェクトの提案を進めていた。
航が主導権を握り、資料をもとにプロジェクトの概要や進行スケジュールを説明していく。
彼の語り口は簡潔で落ち着いており、クライアントの質問にも的確に答える。
その様子を横で見守っていた陽菜は、要所要所でサポートを入れていた。
「今の段階で不明点があれば、どんどんご質問ください。」
航がクライアントに向けて問いかけると、担当者の一人が軽く手を挙げた。
「この項目について、もう少し具体的に知りたいのですが……」
航が一瞬資料に目を落とし、答えを考える間に陽菜が間髪入れずにフォローを入れる。
「あ、こちらはですね、具体的にはこのような手法を取り入れて進行する予定です!」
陽菜は朗らかな笑顔を浮かべ、立ち上がりながら資料を指差す。
その説明は簡潔でわかりやすく、クライアントも頷いている。
航は内心でほっとしながら、その場を引き取った。
「そうです。それに加えて、こちらの対応策も用意してありますので、必要に応じて柔軟に進めていけます。」
打ち合わせは順調に進んだ。
クライアントの反応も上々で、最後には担当者が笑顔で手を差し出した。
「今日は非常にわかりやすい説明をありがとうございました。プロジェクト、ぜひ一緒に進めていきましょう。」
航と陽菜は深々と頭を下げた。
会議室を後にするとき陽菜が小声で言った。
「クロ先輩、完璧でしたね! さすがです!」
「いや、俺だけじゃない。お前のフォローがなかったら、こんなにうまくいかなかった。」
航は素直に陽菜を褒めたが、その言葉に陽菜は少しだけ驚いた表情を見せた。
「え、そんな……私、ただ補足しただけですよ?」
彼女は笑顔でそう答えたが、その顔にはわずかに不安げな影が浮かんでいるように見えた。
打ち合わせを終えた航と陽菜は駅近くの居酒屋に立ち寄った。
薄暗い照明に温かみのある木目調の内装。
テーブルを囲む人々の談笑やジョッキをぶつけ合う音が店内に響いている。
「いやー、クロ先輩、今日はお疲れ様でした!」
陽菜が満面の笑みを浮かべ勢いよくジョッキを掲げる。
航は少し照れながらも、乾杯の音頭に応じた。
「お疲れさま。まあ、なんとか乗り切ったな。」
グラスが軽く触れ合う音が響き二人は一口ずつビールを飲んだ。
航は喉を潤した後、ふと息を吐いた。
「いや、正直、緊張したよ。クライアントの反応が良かったのは、お前のフォローのおかげだ。」
陽菜は驚いた顔を見せ「そんなことないですよ!」と手を振る。
「私なんてただ横でペラペラ喋ってただけですし……先輩がちゃんと仕切ってくれたから、私も安心して動けたんです。」
「……そうか?」 航は軽く笑いながらジョッキを置いた。
心のどこかで後輩相手ではあるけど「珍しく褒められたな」と少しだけ嬉しく思う。
「でも、クロ先輩って意外と頼りになるんですね!」
陽菜が冗談めかした口調で言うと、航は肩をすくめた。
「意外、ってなんだよ。まあ期待されないのはいつもだけどな」
「そんなことないですよ。でも、普段はもっと控えめっていうか……あんまり前に出るタイプじゃないから。」
「まあ、そうかもしれないな。」
航はあっさりと認めた。その一言に、陽菜は少し驚いたようだった。
「え、普通そこは否定するとこじゃないですか?」
「俺、別に前に出たいタイプじゃないからな。むしろ、目立たずに黙々とやる方が向いてると思うよ。」
陽菜は小さく首を傾げた。
「でも、今日みたいに前に出ると、ちゃんとできるじゃないですか?」
「それは、たまたまだ。」
航はジョッキを手に取りながら言ったが、陽菜は少し納得がいかない様子だった。
話題は次第に仕事から離れプライベートな方向に移っていく。
陽菜がポテトをつまみながら、さらりと尋ねた。
「そういえば、クロ先輩って趣味とかあるんですか?」
「趣味……か。特にないな。」
「え、ないんですか?」
陽菜が少し驚いたように言う。
「強いて言えば、読書とか映画とかかな。でも、最近は忙しくてあんまりやってない。」
「へぇ、本とか読むんですね。どんなジャンルが好きなんですか?」
「特に決まってないけど、ミステリーとかが多いかな。」
「意外ですね。クロ先輩って、もっとアクティブな趣味があるかと思ってました。」
「俺にそんなイメージあったか?」
「いえ、ないです。」
陽菜は屈託のない笑顔を見せ、二人は軽い笑い声を交わした。
しばらくして航が少し真剣な表情で陽菜に問いかけた。
「そういえば、陽菜、お前は何か夢とか目標があるのか?」
陽菜は箸を止め、少し考える素振りを見せた後、笑顔で答えた。
「夢……か。私は、もっと大きな人間になりたいんです。」
「大きな人間?」
「そうです。もっと人に頼られる存在になりたいっていうか……誰かの役に立てる人間でいたいんです。」
その言葉には、どこか切実な響きがあった。
航はふと、以前カゲが言っていた『笑顔が大きいほど影も大きい』という言葉を思い出した。
「誰かの役に立ちたい、か。立派な夢だな。」
「そうですかね……」 陽菜は少し視線を落としジョッキの中の残り少ないビールを見つめた。
「でも、それって大変だろ?」
航がそう言うと、陽菜は笑顔で応じた。
「大変でも、それくらいやらないと意味がないんです。私、昔からそう思ってきましたから。」
「……無理はするなよ。」
「無理なんてしてませんよ!」
陽菜の声は明るいが、その裏に微かな緊張が隠れているように聞こえた。
居酒屋を出て夜風に当たりながら二人は駅に向かって歩いていた。
航は、陽菜の言葉が頭の中で繰り返されるのを感じていた。
(もっと人に頼られる存在になりたい……か。)
カゲの言葉が胸に引っかかる。
陽菜の太陽のような笑顔が、次第に心に影を落としていく。
夜風が二人の間を吹き抜けた。
駅へ向かう道は薄暗いが、ぽつぽつと灯る街灯の明かりが二人の影を長く伸ばしていた。
昼間の打ち合わせと中打ち上げを終えたばかりのはずなのに、陽菜の足取りにはどこか落ち着かないものがあった。
「クロ先輩、本当にお疲れさまでした!」
陽菜が明るい声で言うが、航はなんとなくその声に違和感を覚えた。
彼女の笑顔が、少し張り詰めたものに見えたからだ。
「お前は本当に元気だな。」 航は軽く笑いながら言ったが、その言葉の裏に「無理してるんじゃないか?」という疑問が混じっていた。
陽菜は軽く振り返り、「そりゃ元気ですよ!」と笑顔で答えた。
だが、その笑顔を見た瞬間、航の中でカゲの言葉が蘇った。
『笑顔が大きければ大きいほど、影も大きいもんだ。』
「なあ、陽菜……」 航が不意に声を低くすると陽菜が足を止めて振り返った。
「どうしました?」
「お前、無理してるだろ?」
その一言に、陽菜の顔から一瞬だけ笑みが消えた。
彼女はその表情を隠すように、少しだけ目を伏せてから再び笑顔を浮かべた。
「無理なんてしてませんよ! どうしてそんなこと言うんですか?」
「いや、今日の打ち合わせでも思ったんだ。お前、必要以上に完璧を求めてる気がして……そんなに頑張らなくても、十分ちゃんとやれてるのに。」
「そんなことないです!」 陽菜の声が少し大きくなる。
「私がちゃんとやらなかったら、誰がやるんですか? プロジェクトだって、クライアントだって、私がしっかりしてないと迷惑をかけることになるじゃないですか!」
「でも、お前がそこまで自分を追い込む必要はないだろ。」
「追い込む? そんなことしてません!」
陽菜は明るい声を保とうとするが、その声にはどこか苛立ちが混じっている。
「俺にはそう見える。頑張りすぎて、自分を犠牲にしてるみたいに。」
その言葉に、陽菜の足が再び止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、航を真っ直ぐ見つめた。
その目には、明らかな怒りと戸惑いが混じっている。
「クロ先輩にはわからないんですよ。」 陽菜の声は低く、感情が滲んでいた。
「わからない、って……」
「クロ先輩みたいに、目立たなくても許される人には、私の気持ちなんてわからないです! 私みたいに、ちゃんと頑張らないと認めてもらえない人の気持ちなんて!」
その言葉は、鋭利な刃物のように航の胸を突き刺した。
『目立たなくても許される』という言葉が、航の中でずっと燻っていた自分の影を刺激した。
「……俺だって、別に楽をしてるわけじゃない。」 航は絞り出すように言った。
「ただ、俺みたいな奴が目立っても仕方ないから、できる範囲でやってるだけだ。」
「でも、私は違うんです!」
陽菜の声が大きくなる。
「私が頑張らなかったら、私は必要とされないんです! 誰からも見向きもされないんです!」
その言葉に、航は言葉を失った。陽菜の声には、どこか自分を守るための必死さが滲んでいた。それは航自身が抱えていた『誰にも期待されない』という影とは正反対の形をしているように見えた。
「陽菜、お前……」
航が何かを言いかけたが、その言葉は陽菜の次の一言にかき消された。
「……クロ先輩には関係ないですよね。私がどう思ってても。」
その一言が、二人の間に冷たい空気を漂わせた。
航は返す言葉が見つからず、ただ陽菜を見つめることしかできなかった。
駅に着くと、陽菜は一言だけ「お疲れさまでした」と言い、ホームに向かって歩き出した。
航はその背中を追うことなく、改札を通り過ぎた。
(……俺には関係ない、か。)
その言葉が航の胸にずっしりと残り、夜風がそれをさらに冷たくする。
家に帰ったら、きっとカゲが何か辛辣なことを言ってくるだろう。
それでも、今夜だけはその声に耳を傾けたくない気がしていた。
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