第2章:薄明の影喰い - 6「影に触れる勇気」
夕焼けの光が商店街を赤く染める中、航は自宅への道を急いだ。
(影がその人間そのものなら……俺は、どうすればいいんだろう。)
自宅のドアの前に着く手前、航の頭にカゲの声が響いた。
「おい!止まれ!!」カゲの声が急に鋭くなった。
航はぎょっとして足を止めた。
「中にヤバい奴がいる。俺の本体がずっと見てた。」
「……見てた?」
「俺の本体が部屋の中にいるからな。そいつの動きも全部見えてる。」
航は息を呑んだ。
(どういうことだ……?)
「俺の目の前にいるんだよ。棚をひっくり返して、中を物色してる。持ってるのはナイフだ。」
カゲの声はどこか冷静で、状況を見極めているようだった。
(……ナイフ持って歩き回ってる奴が中にいる?それってどういう――)
航の背中に冷たい汗が流れた。
「警察に連絡しよう!」
航がスマホを取り出そうとすると、カゲが遮った。
「待て。それじゃ間に合わねえ。今の状態だと、警察が来る前に何かしら起きるぞ。」
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ?」航の声は震えていた。
「俺が隙を作る。その間にお前はそいつの影に触れろ。」
航は眉をひそめた。
「影に触れる?そいつナイフ持ってるんだろ!」
「俺と一緒にやるんだよ、上手くいけばそいつを大人しくさせられる。お前の役目は触れるだけだ。」
カゲの声には迷いがなかったが、航の胸は重い不安に押しつぶされそうだった。
航は意を決してドアノブに手をかけた
(鍵が壊されてる?)
慎重にドアノブを回し、ゆっくりと...蟻が歩く方が速いくらいの動きでドアを開けた。
リビングに繋がる扉は開いたままだ.......
「奴は今、リビング中央でこちらに背中を向けている。大丈夫だ!ゆっくり進め」
中にいるカゲが的確な指示をくれる。
靴を履いたまま足音に最新の注意をはらい、物音がする方向から自身の姿が見えない角度で壁を背面にして進む...
足が震える...心臓の鼓動で胸が爆発しそうだ...
リビングは荒れ果てていた。
ソファのクッションは引き剥がされ、棚の引き出しは全て開けられ、中身が床に散乱している。航が愛用していたコーヒーテーブルには深い傷が入り、床には割れた陶器の破片が点々と落ちていた。
部屋の中央に、男が立っていた。
航の胸の中で鼓動が早鐘のように鳴り響く。
(俺が何か失敗したらどうなる……?この男が暴れ出したら?)
頭の中に浮かんだのは最悪の結末だった。
ナイフが振り下ろされる音、痛みの感覚、自分の体が動かなくなる未来
――それらが幻影のように押し寄せる。
「怖いのは当然だ。でも、やるしかねえんだよ。」
カゲの声が冷静に響く。
航は必死に手のひらを握りしめ、汗ばんだ指先を感じた。
男は三十代後半くらいで、髪は乱れ、額には汗が浮かんでいた。
目つきはギラギラと焦りに満ちており、無精髭が目立つ顔に、焦りと苛立ちの入り混じった表情が浮かんでいる。
ジャケットの裾は汚れ、左腕には薄汚れたリストバンドが巻かれている。
男の右手が握るナイフは小刻みに震え、彼が冷静さを失っていることを物語っていた。
航は思わず息を呑んだ。
その瞬間、男が振り返り、鋭い目で航を睨みつけた。
「ちっ...帰ってきやがったか……。おい!動くんじゃねえぞ!!」
男はナイフを手に握りしめ、ゆっくりと航に向かって歩み寄った。
(どうする……?逃げるか……?)航の頭の中で思考が渦巻く。
しかし、体は緊張で硬直し、一歩も動けない。
航の視線は男のナイフから足元へと落ちた。
だが、それを見た瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われる。
(なんだ、この影……普通じゃない。こんなものに触れたら……俺はどうなる?)
影の不規則な動きが、まるで自分に迫ってくるように見えた。
心臓が嫌な音を立て、胸の中に渦巻く恐怖が言葉を失わせる。
その影は普通ではなかった。
真っ黒で不規則な形を保ちながら、床の上を滑るように動いていた。
影の端からは、まるで毒液が滴るように小さな黒い滴が散らばり、床に染み込んでいくように見えた。
それは、ただの影ではなく、細い触手か何か生きているもののようで、時折航の方に向かって伸びるような動きを見せた。
(……何だ、この影は……!)
「こいつの影、やべえな。」カゲの声が低く響く。
航は恐怖と好奇心の狭間で動けなくなっていた。
「そいつの影は、自分の欲望と恐怖が混じり合ってるんだよ。」
カゲの声が冷静に響く。
「見ろ、影がまるで蛇みたいにウネウネしてるだろ?そいつ自身が制御できてねえ証拠だ。」
「混じり合ってる……制御できてない……」
航はその言葉を反芻した。
まるでその影が、自分の中の恐怖を増幅させるかのようだった。
(この影に触れる?失敗したら……何が起きる?もし影が暴れ出して、俺が巻き込まれたら……。)
思考がどんどん負の方向へと進むのを、航は止められなかった。
だが、カゲの次の言葉がその流れを断ち切った。
「いいか、航。考えるな。動け。失敗しても俺がどうにかしてやる!」
部屋の隅で、カゲのぬいぐるみが微かに揺れた。航は一瞬、風で動いたのかと思ったが、カーテンの隙間から何も風が入っていないことに気づいた。
カゲの目が不気味に光を反射してこちらを見つめているように感じた。
「おい、カゲ……大丈夫なのか?」
航は頭の中で問いかけた。
「問題ない。俺がそいつの隙を作る。いいか?お前はそいつの影に触れろ!」
航は震える声で言葉を絞り出した。
「俺の家で何してるんだ……?金が欲しいのか?」
男は苛立ち、ナイフを振り上げた。
「黙れ!何もするな!」
男の影がぴくりと反応したかのように、床を這い回る動きを強めた。
男がナイフを構える瞬間、部屋の奥でカゲが動いた。
倒れていたぬいぐるみが小さく揺れ、カーテンを軽く引っ張る。
「今だ!!影に触れ!!!」
カゲの声が頭の中に響いた。
航の心の中で一瞬の迷いが生じた。
(失敗するんじゃないか?ギリ間に合わないんじゃないか?)
――しかし、その答えが出る前に、体が勝手に動いた。
(失敗しても……それでも、やるしかない!)
男がそちらに気を取られたその隙に航は素早く足元の影に手を伸ばした。
震える指先が影に触れる瞬間、航の全身を冷たい電流のような感覚が貫いた。
その感覚が恐怖の最高潮を迎える中、カゲの声が響いた。
「……全影喰い!!!」
カゲが声を上げた瞬間、影が黒い煙となって男の足元から湧き上がった。
影が黒い煙となって男の足元から湧き上がる。
その瞬間、影がまるで生き物のように暴れだした。細い触手が空中を叩き、周囲に黒い粒子が飛び散る。
影は明らかに喰われることを拒むように抗い、床に這いつくばる男の体を這い上がろうとする。
「……こんなに抵抗する影は初めてだ。」
カゲの声が低く響いた。
影は抵抗するように暴れ出し、その動きは床を叩きつけるような鈍い音を響かせた。
触手のような影が空中で震えるたび、微かな低音が耳を掠める。
さらに、どこからともなく漂う鉄錆びたような臭いが、航の鼻を突き刺した。
航はその異様な光景に足をすくませたまま、ただ見つめるしかなかった。
しかし次の瞬間、カゲが強引に影を引き込む。
煙は急速に収束し、最後には一筋の黒い糸となってカゲの口元へと消えていった。
男の体が影を失った瞬間、虚ろな目から一筋の黒い涙のようなものが零れ落ちた。
それは、影が肉体から抜けた最後の痕跡のようだった。
目の焦点が完全に失われ、浅い呼吸だけが彼の生命の残り火を示している。
生命の兆しはそれだけだ。まるで人形がそこに放置されているような無機質さが漂う。
航はその異様な光景に背筋を凍らせた。
航は震える手を見つめた。
影に触れた瞬間の冷たさが、まるで皮膚の奥に染み込んでいるようだった。
指先には微かな痺れが残り、影が自分の中に何かを刻みつけたような感覚が消えない。
「死んだのか……?」
航は男を見下ろしながら、かすれる声で尋ねた。
カゲは冷静に答えた。
「いや、死んじゃいねえ。ただ……“空っぽ”だ。」
「空っぽ?」
「影を全部喰ったから、感情も記憶も消えちまった。」
航はその言葉に冷たい衝撃を覚えた。
「……じゃあ、こいつはもう……。」
「生きてるけど、魂の抜け殻みたいなもんだな。」
航は、男の虚ろな目を見つめた。
彼の中から感情が消え去り、ただ生命だけが残されている。
「……影はその人間そのものってのはこういうことだ。」
カゲが冷たく言い放った。
航は冷たい衝撃を覚えた。
「……そんなの、ありかよ……。」
男は地面に伏し、何かを呟いているようだったが、言葉にはならなかった。
その目は虚ろで、焦点が定まらない。
航はその様子を見て、思わず後ずさった。
「どちらにせよ影に飲み込まれた奴だ。遅かれ早かれ碌なことになりゃしねぇよ。」
カゲの声は淡々としていたが、その響きにはどこか冷酷さが滲んでいた。
航は、虚ろな目をした男を見下ろしながら、その言葉の重みを理解した。
(影を喰うって……ただ軽くするだけの行為じゃないんだ。)
胸の奥に重たい違和感が広がる。
これが「影喰い」の代償――
航は、目の前の男を見ながら、その現実を突きつけられる思いがした。
男の虚ろな目には、何の感情も映っていない。ただ生命だけが残る抜け殻のようだった。
「……これが、影が全部無くなるってことか。」
航の声はかすれ、力がなかった。
航は、虚ろな目をした男を見下ろしながら、自分の心がかすかに揺れているのを感じた。
(これが全影喰い……。楽になるどころか、取り返しのつかないことをした気がする。)
男の虚ろな目を見ていると、胸の奥から冷たい違和感がじわじわと広がっていく。
それは恐怖なのか、後悔なのか、自分でも言葉にできなかった。
「影を喰うって、こんなにも……残酷なものだったのか?」
航の言葉には、自分自身への問いかけが混じっていた。
カゲの声が低く響く。
「その通りだ。影はその人間そのものだ。それを全部喰っちまえば、感情も記憶も根こそぎ奪われる。」
航は男の様子から目をそらし、自分の震える手を見つめた。
影に触れた瞬間の冷たさ、湿り気、そして押し寄せる異様な感覚
――それは田辺や自分自身の影に触れたときとは明らかに違っていた。
「……俺に今までやってきた影喰いも、結局は同じことなんじゃないのか?」
航の言葉には、自分自身を否定する響きがあった。
「違うな。」カゲが即座に答えた。
「お前や田辺にやってきたのは、あくまで一部を軽くしてやるだけのことだ。全部喰うのとは違う。ただ、部分影喰いだって影を“奪う”ことには変わりねえ。」
「奪う……。」航は呟いた。
男の虚ろな表情が脳裏に焼きつく。
彼はナイフを落とし床に崩れ落ちた後も小刻みに震えていた。
その姿が、航には何かを訴えているように見えた。
「ただな、影を全部喰うか、一部を喰うか――どっちにしても影はまた溜まる。そいつ自身が変わらなければな。」
カゲの声には皮肉の響きがあった。
「じゃあ、影を喰う意味なんて……。」航は少しの安堵と共に言葉を途切らせた。
カゲは鼻で笑うように答えた。
「意味がないとは言わねえ。ただ、影を喰うだけじゃ何も解決しない。それが答えだよ。」
航は息を呑んだ。
(結局、影喰いはその場しのぎでしかない……。)
男を見下ろす航の胸に、田辺の影に触れたときの記憶が蘇る。
あの時も影を軽くしてやったはずだ。
しかし、田辺の背負うものが消えたわけではない。
それどころか、あの影の冷たさは自分の胸にも残り続けている。
「……影を喰っても、そいつがどう動くかでまた影は溜まる。」
カゲが静かに言葉を続けた。
「だから、本当の解決なんて簡単にはできねえんだよ。」
航はカゲの言葉に胸を刺された。
(影を喰うだけじゃ、何も変わらない……。)
ふと、自分の影について思いを巡らせた。
(俺の影はどうなんだ?)
薄く、存在感のない自分。
それを象徴する影は、カゲに喰われるたび軽くなっている気がした。
だが、本当に軽くなっただけなのか?それとも何かを失っているのか――。
「俺の影も……全部喰われたら、あの男みたいになるのか?」
航は低い声で呟いた。
カゲは一瞬黙った後、淡々と答えた。
「そうだな。お前が全てを差し出せば、感情も記憶もなくなるだろうよ。そしてそれは“お前”じゃなくなるってことだ。」
航は言葉を失った。
男が影を失った今、彼に残されたのはただの空っぽの器だ。
それは航の中に、明確な恐怖と疑問を呼び起こした。
(俺がしてきたことは、何だったんだ?)
(田辺さんの影を喰ったときとは、まるで違う……。)
航は震える手を見つめた。
田辺の影に触れたときは冷たさと重さを感じただけだったが、今は何かが自分の体に染み込んでくるような異様な感覚に包まれていた。
影そのものが生きていて、なおかつ自分を飲み込もうとしているような恐怖。
――それが胸の奥底で響いていた。
カゲはそんな航の心情を察したのか、飄々とした声を出した。
「ま、今は深く考えるな。お前にはもっと厄介な影が待ってるだろ。陽菜の影とかよ。」
陽菜の名前が出た瞬間、航は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
あの濃くて重たい影――。
陽菜の笑顔の裏に隠れているものが男の虚ろな姿と重なる。
(陽菜が空っぽに?......そしてもし陽菜のあの濃くて重たい影に触れてしまったら……俺はどうなる?)
その考えが頭をよぎるたびに恐怖と興味が交錯する。
航は拳を握りしめ、視線を床に落とした。
「……俺には、陽菜を救うなんて無理かもしれない。」
カゲは鼻で笑った。
「救う?お前は影喰いで誰かを救うつもりなのか?逃げるばかりのお前が?」
「……俺に何ができるんだ?」航は呟いた。
カゲは小さく笑い声を漏らした。
「どうしたいかは、俺じゃなくてお前が考えることだよ。」
航は部屋の静寂の中に立ち尽くしながら、自分の手に残る影の感覚をじっと見つめ続けた。
夜が明ける頃、航は疲れ切った体をソファに投げ出していた。
空っぽになった男は玄関先に座り込み、何も言わず、何も動かず、ただそこにいるだけだった。
航は何度か警察に電話をかけようとしたが、手が震えて番号を押すことすらできなかった。
結局カゲが淡々と告げた。
「放っときゃ、誰かが気づくだろ。それかお前が呼ぶか、どっちかだ。」
航は何も言えなかった。罪悪感とも違う、説明できない胸の重さだけが残った。
そして翌朝――。
茫然自失のまま玄関先にうずくまっていた男は、通報を受けた警察によって静かに連れ出されていった。
その姿を見つめながらも、航は何もする気になれなかった。
頭の片隅で、カゲの言葉がこだましていた。
「影を喰うってのは、そいつを少しだけ楽にすることだ。だがな、それだけじゃ救えねえんだよ。」
男が連れ出された後も、玄関先の隅に残った黒い染みのような影が航の視界にちらついていた。それが実際の汚れなのか、心の中に残ったものなのか、航には判断がつかなかった。
航は重い体を引きずるようにしてリビングに向かった。
荒らされた部屋は、昨日の出来事を嫌でも思い出させた。
床に散らばった陶器の破片を拾い上げながら、航はふと自分の手を見つめた。
(あの影の感覚……まだ残ってる気がする。)
指先に冷たく湿った感触がよみがえり思わず息を呑む。
カゲの言葉が再び頭に響いた。
「影を全部喰ったら、感情も記憶も根こそぎ奪われる。」
(俺は……これからどうすればいい?)
影を喰わせるたびに軽くなる感覚が癖になっていた。
けれど、全影喰いを目の当たりにして初めて、それがどれほど恐ろしいものかを知った。
「俺はただ……楽になりたかっただけなのに。」航の声はかすかに震えていた。
その呟きに、カゲが低い声で応えた。
「楽になりたいって気持ちは分かるさ。でも、その代わりに何かを失ってるかもしれないことを忘れんな。」
航は目を閉じ、胸の奥に湧き上がる矛盾した感情を抱えたまま立ち尽くしてしまった。
「おい、まだ終わらねえのか? 片付けが遅いと俺の本体が動けねえだろ。」
ぬいぐるみから響くカゲの声に、航はうんざりしたように肩をすくめた。
「お前はいいよな。影を喰って終わりだもんな……。」
航の低い呟きにカゲは鼻で笑うように答えた。
「お前もその恩恵に預かってんだろうが。ま、俺がいなきゃ昨日の奴に刺されてただろうよ。」
反論する気力もなく、航はひたすら手を動かした。
散乱した物を一つ一つ元に戻し、部屋の乱れが少しずつ整っていく。
しかし、部屋が綺麗になるにつれて、航の胸には得体の知れない虚無感が広がっていった。
片付けが終わり部屋が静まり返ると、航はふと窓の外を見つめた。
遠くに聞こえる電車の音が日常の喧騒を知らせていた。
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