思想家せんせいと思想家せんぱい
コーヒーの端
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「うえ〜ん。もうこの講義面白くなーい。」
机に広げた「政治学」のテキストを見た。数々の偉人達がちょっとコミカルに描かれた、その表紙。
私達がいるのは、大学、たくさんの机と椅子が並び、三百人は座れるであろう大教室。
そこでの四限目の講義前の事だった。
講義第一回目の授業の時は、「どんな講義なのかなぁ」とわくわくしながら黄色いテキストブックの表紙に印刷された、しかめ面をした偉人達を見つめていた。
わくわくしていた理由には、高校時代の得意科目が「政治・経済」であったというのも含まれている。
正直、大学に入って履修したいくつかの科目の中で最も期待を抱いていたのが、この「政治学」と言っても過言ではない。
話を戻して、「政治・経済」。とりわけその中の「政治」分野が好みということもあって、大学の履修要項の科目一覧で見かけた「政治学」は、私とベストマッチ。
そんな気がしていた。
そういうわけで、履修登録の日になって、この「政治学」を先陣切って登録した。
ちょっと名前の似たこの科目も、高校の時みたいにきっと好きになれるだろう。
そう推測して履修することにしたのが、一ヶ月前のこと。
が、現実は上手くいかないものだ。講義内容と、自身の想像とに大きなギャップを感じた。
そのギャップと言うのが、授業の進め方についてだ。
それが、ただただ偉人の名前とその思想を機械的に覚える、というもので、私にとってそのプロセスが大変味気の無いものに感じられた。
対照的に、高校での「政治・経済」における授業の特徴が、次のような魅力的なものであった。
担当教師が、時事ニュースと絡めて用語や偉人の説明をしてくれる。それにより、若い私達にはあまり馴染みの無い、政治やら経済を、自分達の身近に感じて、楽しく学べる。そういう特徴。
現在受講している「政治学」のそれとは大きく違って、楽しかった「あの授業」を思い出すとため息を止めることができなかった。
そういう訳で、どこか無感情に寂しく学ぶことを強要されるこの「政治学」という講義に、差し当たっては科目そのものにも、どうにも魅力を感じられずにいたのだ。
もう、講義トびたい。
まるで、信じていた仲間(政治学)が、当然牙を剥いたかのようなギャップを感じた。
そして私は、これから始まる第三回目の講義の前、机に突っ伏す事で、現実逃避に励んでいた。
うなだれる顔をほんの少しだけ上げて、隣の友人に話しかけた。
すると、自分の声が机に反響して、自分のそれじゃないみたいに聞こえて、少し愉快な気分になった。
「ねえ、ナー子。もうこの授業、トんじゃおうよ。」
三人掛け机の真ん中、私の右隣に、ちょこんと腰掛ける同じく新入生のナー子がいた。
「あんたさ〜。昨日もそう言って、授業トんでたじゃ〜ん。最初で見計らいなよ、授業情報、ちゃんと見てさ。」
じと、という目つきで見てくるナー子も、私のことをあまりとやかく言える訳では無いと思うのだが。
彼女も、入学早々にリベラルアーツ科目の「経済学」をトんだ。彼女曰く「必修じゃないからさ〜。じゃあ、トんじゃお。」とのことらしい。
「でも、ナー子もこの「政治学」、トびた〜い。つまらん。」
だよね〜。言いながら、考えた。
何でこうも、自分の好きな授業を見つけられないのだろうか。というか私は自分にぴったりとマッチする講義を、求めすぎているのかもしれない。
大学というのは、こういうものなのかも。
まだ、授業が始まるまで十分弱ある。正面の机に目を遣ると、食べ終わった弁当の空箱があった。
このごみ、早く捨てに行かなくちゃ。
あ、となると、その間に私のお気に入りのバッグが盗まれる危険があるな。よし、このバッグも持っていこう。
それで、そのまま駐輪場まで行って、ママチャリに乗って軽快に帰っちゃおう。
都合良く、自分に言い聞かせた。
そして木でできた、ずっと座っているとお尻が痛くなる、教室の椅子から腰を上げ、講義棟の外にある、ごみ箱へ向かおうとした。
と、その時。
「...ちなさ〜い。」
ん?
「ナー子。呼んだ?」
へ?呼んでないよ〜。との返答を受け、辺りを見回してみる。
この講義、ナー子以外に知り合いいたっけ。
もう三回目の講義だし、いたとしたら気づかないはずないんだけどな。
「お〜い。ここだよ〜。」
今度は明確に声が聞こえた。しかし、聞き覚えのない声に辺りを見回す。
...は?
まさかな、と思いながら何となく、本当に何となく政治学のテキストブックを見た。何やってるんだろう、私。とも思った。
すると、表紙を飾るプラトン、アリストテレス、ガンジー...。実際に顔を合わせたことは無いであろう思想家の面々が、一堂に会した、その表紙の隅で、私に手を振っている小さい男がいた。
目をごしごしと擦ってから、もう一度確認してみる。
表紙の中で手を振って、「気づいた〜」と、喜んでいる。何か、ちょっとカワイイじゃん、写真撮っとくか。と、いつもの癖でそう思った。
それから、数秒経って我に返った。
「ぎょえ〜‼︎」
三百人は収容できる、大教室に情けない声が響き渡った。
教室は、しーんと鎮まり返り、皆が私を見ている。そんな私の横で、ナー子がぽかーんとした顔で、大口を開けている。それから彼女は、はっとして、
「あ!す、すみません。鳩時計みたいなもんで、定期的に叫んじゃうんです、こいつ! えへへ。」
何やってんだよ、意味分かんねえ!怖すぎるわ!
小さな声でそう言いながら、よく分からないフォローを入れてくれている。ああ、これじゃあ私のあだ名が、「大きなのっぽの古時計」とか「時報」とかになってもおかしくない。できれば、カワイイから前者がいい。
しかし、今そんなことはどうでもいい。例え「時報」でも、「目覚まし時計」でも何でも来い。
自身の名誉と、興味とを天秤に掛け、瞬時に後者を選び取る。いや、選んだというよりは、最初から答えは決まり切っていた。
テキストに慎重に向き直ると、やっぱりそこに彼はいた。
「大丈夫!私は君にしか見えていないよ〜!」
声を出さなくても、「心」で話してくれれば、通じるよ。絵の中の妖精にそう言われた。
もう一度、驚きで吹き出しそうになるのを堪える。
しかし、相変わらず驚きで沸騰する頭と違って、心は妙に冷静であった。
こんなメルヘンチックな、夢の中みたいな状況なのに、不思議と事態をすんなり受け入れられている自分に、驚いた。
「夢じゃないよな...?」と、周りをきょろきょろ、と確認する。さっきと特段変わりはない。ついでに、ほっぺをつねってみた。視界の隅、ギリギリ見える左端にナー子が変な顔をして、
「講義嫌すぎて、おかしくなったのかな?こいつ...。」
と、こっちを怪訝そうに窺っているのが見えた。
「あなた、いったい誰なんですか。もしかして、『単位』の精とかですか。」
心の中で呟く。
「何言ってるんだよ。わたしは、前回の講義で登場したはずだがな〜。」
『登場』? と思ってから、まさか。
一応持ってきていた、前回のレジュメをファイルから引っ張り出す。
ちょっとジュースで染みになったA4サイズのそれを、隅々まで舐め回してみる。
その間も、「まだかな〜まだかな〜」と、そのA4の中で、何やらダンスを始める。気が散る。
「も、もしや。ミル様でいらっしゃいますか?」
約二十秒かかって、尋ねる。
「正解!仰る通り、わたしはJ・S・ミルだよ。」
じゃあわたしの『思想』何か分かるかな。
そう聞かれて、もう一度レジュメを探してみる。すると、
「おっと、今度の質問はカンニング禁止さ。頭の中の記憶を探ってみてご覧。」
えぇ。
中々に手厳しい、黄色いテキストの精。
質問に答えるべく、少しだけ考える。
「えと、...最大多数の...最大幸福?」
「惜しい!それは量的功利主義、『ベンサム』の思想だね。」
「わたしの考えていたことはね。彼と似ているようで、少し違ったんだよ。」
例えば...と、講義五分前に、私専属、小さな「教授」による授業が幕を開けてしまった。
先ほどまでは「授業トんじゃおかな」とか言ってたやつが、熱心にその講義のテキストを読み始めたのだから、ナー子は驚きだろう。
現に、ナー子は口をあんぐり開けて、奇妙な私を見ていた。しかし、未知の体験に夢中になる私は、その様子に気づくことはなかった。
「こいつ、意味分かんねえ...。とりあえず講義の準備するか...」
いけね、先生来たわ。と、同じ黄色のテキストを準備し始めた。えっと、どれだっけか...あった! と、机に筆記用具一式も揃えている。
下手な口笛を「ぷっぷー」と吹きながら、陽気にテキストを裏表紙からパラパラめくる。ついに、表紙に辿り着いた。
その時のことだった。
「ぷっぷぷ〜...」
「...ぷううううう!」
ナー子までもが、両手をバン!と机に叩きつけて、立ち上がった。しかも、口笛の余韻で、おかしな音が大教室に、響き渡る。
またか、こいつら。とでも言いたげな、冷たい視線がナー子に、ついでに私にも突き刺さる。
「す、すみません。授業前、三分です...。時報をお届けします...。」
と言って、ちょこん、と座り直す。
首を傾げる、彼女の不思議そうな目が見つめるのは、黄色の「政治学」テキストの表紙。
まさか、ナー子にも同じことが起きているのか...? 見たところ、明らかに私のした反応と、同じそれだった。
と、ナー子に気を取られている間にも、J・S・ミルは、構わず私に話しかけ続けていた。
慌てて、その話に耳を傾ける。
「君たちの身の回りの例から行こうか。まず、ベンサムの思想である、『最大多数の最大幸福』は...。」
「まあ、簡単に言えば、多数決を思い浮かべてみよう。多数決のシチュエーションで...。
何かしら...まあ、選挙でも、委員長決めでも、何でもいい。そういった場面を頭に浮かべて。ある意見に賛成する人が多いと、その人達の意見が採用されるだろ? 平たく言えば、それを肯定するのが、ベンサムの思想だ。」
何とか、本人?からのマンツーマン講義にしがみついて、うんうん、と頷く。
「で、わたしの思想はね。多数決の時の少数派。所謂、多数派に負けて、考慮されなかった人達について、配慮だったりをした方がいいよね〜。っていうものなんだよ...それでね...。」
おわ〜。何か、凄い分かりやすい。
結構、ラフな感じで話しているけれど、芯を食った発言が連続されている。そりゃそうか、本人?だもんね。
まだ、この状況に慣れておらず(慣れる訳がない)、完全に集中して、説明を聞けた訳じゃないのにすーっと頭に入ってくる。
そんな心地良い感覚を実感しながら、その後も本人直伝の講義を受講することとなった。
「...と、言う訳だよ。どうかな? 講義、トぶ気は失せたかな?」
ミルの説明ページの隅で、にっこりと笑う、J・S・ミルその人。
その黄色いテキストの住人がマンツーマンで施してくれた講義は、分かりやすく、面白かった。つまらなかった前回の講義と、内容はほとんど同じなのに、ユーモアを交えたり、趣向が凝らされた、魅力あるそれであった。
「このページが、わたしの思想だよ! もう、ベンサムと間違えないでね。」
とか言って、『J・S・ミルの思想』というページに、私の赤ペンで、何とご本人からの、サインをいただいてしまった。
こ、これ結構凄いことなのではないか?
そんな不思議な体験の中で、私の「政治学」に対する印象は、良い意味で、大きく変わっていた。
学習する、その科目の面白さ、理解のしやすさは、担当教師の講義に大きく依存する。
しかし、それはあくまで、学習を支える補助的なものである。受け身になって、何となく、講義を聞いているのでは、何も面白くない。
この「政治学」での講義中、私は、完全に受動態になっていたのだ、と遅れて気がついた。
J・S・ミルとのマンツーマンで、何度も質問され、何度も自分自身で思考した。
こうやって、自分で考え、自分に問いかけてこそ、勉強は楽しいのだ。
高校の時、「政治・経済」がやけに楽しかったのは、先生が、「考える時間」をたくさんくれていたからだ、ということに気づいた。
自分の気づきを伝えようと、心の中でJ・S・ミルに向かって、念じる。
「すっごく、楽しかったです。ミル先生!こんなに面白い思想が沢山詰まった、素敵な科目。トぶ訳ないです!」
しかし、目を合わせたはずの、小さな彼の瞳は、その姿は、そのページには無かった。
あれ...?
はっ、として時計を見た。もう時間は、実際の講義終了五分前まで迫っていた。
「ミルせんせ〜い‼︎」
机からがばっ、と顔を上げた。
ありゃ...? 周りを見回すと、やっぱりあの大教室。
夢を見ていたのか...?
よだれを腕で拭いながら、周りを見回してみると、頬杖をついたまま眠るナー子と、もはや恒例と見られたか、「またこいつらかよ」という目で私達を睨む生徒達。
と、そのタイミングで、
「ベンサムせんぱーい! ...あれ?量的功利主義は? 選挙法改正は? ここはどこ?」
と飛び起きるナー子。
まさか、あんたも...? しかも、ベンサムかよ...と言いかけた時のことだった。
「あなたたち、ずっと眠ってたみたいね。
ところで、前回に引き続いて、今回も勉強したJ・S・ミルと、ベンサムについて、説明してもらおうかしら。」
と、教授が言う。
うわぁ。この教授、イジワルだな〜とか、くすくす、と笑う声が聞こえてくる。しかし、私は臆する事なく、立ち上がった。
「はい、まず、J・S・ミル『先生』については...」
「先生...?」という教授の呟きを無視して、三分弱話し続けて、ついに全ての説明を終えた私に、教授がわなわな、と震えながら言う。
「す、全て、正しい説明でした。それどころか、私が講義で説明した以外のことまで...。」
と、少し不満そうにメガネを触る。
「で、では。次はあなた。」
と、ナー子を指差す。こいつも、私と同じ反応して飛び起きてたよな...と思いながら、不安な面持ちで、ナー子を見る。
私と同じく、よだれをほっぺにつけたまま、果敢に立ち上がった、ナー子。
「えと、ベンサム『先輩』は...。」
今度は、「先輩...?」と首を傾げる教授。結局、ナー子もベンサムについて、完璧な説明を披露した。
しかも、こいつと来たら、チャイムが鳴っても話し続けたことで、「ちょ、ストップ。ストーップ!」と、教授に中断されてしまった。
「二人とも、完璧な説明でした。私からは、居眠りしていたように見えたのですが、勘違いしてしまっていたようです。すみませんでした。」
講義の後、ちょっと。と私達を呼び出した先生から言われ、「いやぁ〜。睡眠学習みたいなもんすよ。はは。」と、二人で台詞が揃う。
それから、顔を見合わせて、しかめ面で、ん〜?と互いに不思議そうな顔をする。
その後、四両編成の帰りの電車の中で、ナー子と話した。
「ねえ、何であんたあんなに『ベンサム』のこと答えられたの?」
「口には気をつけろよ。『ベンサム先輩』と言え。」
何か変な夢、見たんだよなぁ。
むむと考え込みながら言うナー子。
「え、私もそうなんだよな。もしかして何かこれ、凄くない?」
初めて、互いの体験した不思議な出来事について話し合う。
「何かさ、そういう夢。あるらしいね。科学でも、説明が徐々につき始めてるみたいだよ。明晰夢?とか言うの?分かんないけど。」
ははっ。と軽く笑いながら言う。
へぇ、そうなのか、と思った。と、同時に、ちょっとがっかりもした。
あの不思議な夢が、「J・S・ミル」が、科学で説明できてしまうのは、何だか悔しいな、と思ったからだ。
「じゃあさ、テキストブック確認してみようぜ。もしかしたら、まだここに『いる』かもしれないじゃん。」
あ、確かに。そう思って、リュックから黄色のテキストを取り出し、科学への反抗と洒落込む。
「よっしゃ。じゃあ、見てみよう。」
せーの、と、表紙を見てみた。
しかし、表紙の端っこにいる「J・S・ミル」は、しかめ面を...いや、威厳ある顔をして、動かない。どうやら、ナー子の「ベンサム」の方も同じだったようだ。
「ぷっ。はははは!」
電車の中だというのに、二人して大きな声で笑い出してしまった。
「私達、二人して面白い夢、見てたみたいだね。」
だね〜。と、テキストを膝の上に置いた。
「でもさ。」
と、私は続けて切り出した。
「私、『政治学』、トぶのやめとく。」
そう言うと、
「ナー子もこれ受けるわ〜。面白いね、ベンサム『先輩』。」
二人でふふっ、と笑ってスマホを出し、ナー子が電車を降りるまでの三駅の間、時間ぴったりいっしょに遊べそうなアプリゲームを探し始めた。
膝に置かれた、「黄色のテキストブック」の「ミルの思想」のページには、達筆な筆記体で、『J・S・ミル』というサインがはっきりと、残っていた。
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