デミスノー・デミエンジェル
狐
第1話
5年前から、コウロ地区に雪は降らない。人工降雨システムによって天候は管理され、人々が望まない天気は淘汰された。公共交通機関の麻痺や自動車のスリップ事故は、そのおかげで極端に減ったとされている。
「メリー・クリスマス、オーリャ!」
「メリー・クリスマス、ワンさん。年越し向けにモチも用意しておくわね!」
通りに並ぶ店々がクリスマスに向けた装いに染まっている12月初旬。小さな商店の店主であるオリガもまたショーウィンドウを飾り付け、品揃えにクリスマスギフトを追加する。地元住民しか客が来ないような小さな店だからこそ、ホリデー商戦のチャンスは大きい。それがクリスマスなら、尚更だ。
コウロ地区はサン・ヴァルド市の中でも大陸系の移民が多い地区だ。少し離れた国にルーツを持つオリガにとって、“シンリエ宗”のブディスト的な信仰が主流の価値観に飛び込むのは挑戦だった。
古びたスピーカーから流れるクリスマスソングは彼女の幼少期から流れている定番曲で、オリガは鼻歌を歌いながら注文品のラッピングを進める。営業時間はとうに過ぎ、『CLOSED』の看板が扉の前に立て掛けられている。
時刻は午後11時。ざらついた音質の讃美歌を流していたスピーカーが、突如としてノイズを含んだ異音を奏でた。カウンターで微睡んでいたオリガは身体をぴくりと震わせ、音のした場所を注視する。ザリザリとしたノイズの中に、少女の声が混じっているように聞こえたのだ。
「……アイラ?」
声に出し、オリガは悟ったように静かに首を振る。きっと幻聴だ。アイラは、もう帰ってこないのに。
「——は売ってないかぁ、流石に……」
次はスピーカーではなく、扉の外だ。オリガは反射的に起き上がり、閉め切ったカーテンの隙間から外の様子を伺う。吐く息も白い冬の夜、店の傍のドリンク自販機に寄り添って寒さを凌ぐ黄色いレインコートの少女がそこにいた。
「アンタ、こんな時間に何やってんの?」
「……おばちゃん、誰?」
「いいから入りな。寒いでしょ?」
思わず扉を開け、店に招き入れる。アイラではない、見ず知らずの少女だ。細い身体にレインコートを羽織り、寒空に立つ姿は震えていた。
「こんなのしかないけど、飲んで身体を温めて。口に合わないなら捨てちゃっていいから!」
「いいの? いい香りだ。いただくね」
マグカップに入れたホットチョコレートを味わい、少女は安堵の息を吐く。年の頃は15歳くらいだろうか。アイラが今も元気なら、これくらいの年齢だったのだろう。オリガは記憶の蓋を開けようとする自分を制し、彼女に声を掛ける。
「ここら一帯は女の子が一人で出歩くには危ないのよ。ストリートギャングの子だっているし、ヤクザも我が物顔で街を歩いてる。なんでこんな時間まで外にいたの?」
「……質問なんだけど、自販機に風邪薬って売ってないの?」
「売ってないねぇ、流石に」
「じゃあ、今日のおつかい全部無駄足じゃん」
ルーくんは自販機になんでもあるって言ってたのに、と文句を言う彼女は、普段の生活用品の調達を“ルーくん”という同居人に委ねているという。今回はその同居人が体調を崩したので、初めて買い物に飛び出したのだ。
「ルーくんが『あまり店員と顔を合わせない方がいい』って言うからだよ……!」
「……家出かい?」
「んー、まぁそんなとこ。ホントはおばちゃんに顔を見られるのもダメなんだけどね」
オリガはそれ以上の詳しい事情を聞かなかった。代わりに店の在庫から市販薬を取り出し、少女に手渡す。
「安くしとくね。おつかい、がんばりなよ」
「ありがとう。……これで足りる?」
「ちょっと待って。薬だけじゃ、治るものも治らないだろ?」
スープ缶、林檎、チョコレート、ブランケットやキャンドルを袋に詰め、オリガは少女に微笑む。風邪薬の代金には含んでいない、サービスだ。
「こんなに貰っていいの?」
「在庫処分だ。使ってくれた方が楽さね。要するに、私がやりたいから渡してんのよ」
大きく頷くオリガを眺め、少女は目を細めて笑う。
「ちょっと重いけど、持って帰れる?」
「まかせて。あたし、なんでも出来るから」
袋に詰め込んだ商品を軽々と持ち上げ、少女は得意げな顔でオリガを見る。ショートボブの黒髪に、前髪の一部だけが白い特徴的な髪型だ。猫のように大きな桜色の瞳が記憶に残る顔立ちをしている。
「また来るね、おばちゃん。ありがと!」
「帰りに気をつけるんだよ、えぇと……」
「ユガミだよ、ユガミ。ちゃんと覚えててね、あたしの名前」
彼女はアイラではない。噛んで含むように少女の名前を暗唱しながら、オリガはユガミの後ろ姿が見えなくなるまで眺め続ける。
気付けば、ノイズ混じりの讃美歌は止まっていた。
* * *
翌日の夕方、ユガミは客の居ない時間を見計らって現れた。元々賑わっている店ではないが、それでも人の目は避けたいようだ。
入店するユガミに、オリガはカウンター越しに手を振った。
「いらっしゃい、ユガミちゃん。お友達の具合はどう?」
「昨日はありがとね。おかげでルーくんの体調もかなり良くなったよ。昨日の話をしたら『金額以上に貰いすぎだ』って言われちゃってさぁ」
「じゃあ、今日は何か買っていってよ。その子へのクリスマスギフトとか、どうかな?」
「いいねぇ。ルーくん、あたしがなに渡しても喜びそうだし!」
ユガミは懐から取り出した財布を片手に、店の品揃えをチェックすべく見回りを始める。その財布が機能性を重視したシンプルなデザインなのは、同居人の物を借りているからだろうか。頬杖をついて彼女の行動を眺めるオリガは、ユガミが興味を示した商品に目を遣る。
「おばちゃん、これ何?」
「あー……それか。売れ残り品だよ」
それは、なんの変哲もないスノードームだ。透明の球体の中にミニチュアの家屋と人形が置かれ、細やかな白い粒子が雪のように降り注いでいる。
棚の上段で他の商品に紛れているその球体を、オリガは入荷日まで確実に覚えている。現在店頭に並んでるどの商品よりも前に入荷した商品で、どの商品よりも長く売れ残っている。常連客からは売っていることさえ忘れ去られて、もはやインテリアの一部と化していた。
「気になる? 手に取っていいよ」
「これが“サンタ”、だっけ?」
「そうだよ、サンタクロース。おばちゃんの故郷では別の名前だったけど、みんな知ってる有名人だったんだ」
信仰の多様化に伴い、この街の若者にはクリスマスの文化を詳しく知らない者が多い。“聖教会”の信徒が多い地域だと教会のイベントでそれに触れるが、コウロ地区は特に希薄だ。オリガの店でクリスマスギフトを買うのも年配客ばかりで、ストリートチルドレンたちはそもそも親に捨てられた者ばかりだ。クリスマスの意識が希薄でも、無理はない。
おそらく、ユガミもその中の一人なのだろう。オリガの脳裏に浮かぶのは、彼女の故郷で生まれ、この街で育ったアイラの記憶だ。
「サンタクロースはねぇ、その年よく頑張った子に、その子が欲しいものをプレゼントするの。一生懸命生きてるね、頑張ってるね、って」
「……それって、神さまみたいだね」
「そうかも。ユガミちゃんは神さまを信じてるの?」
その瞬間、オリガはユガミの目が微かに輝く様子を目撃した。表情豊かだが声色だけでは何を考えているか掴めない彼女が、感情を隠しきれない様子で口を開く。
「信じてるんじゃない。神さまになるんだよ、あたしは」
その瞬間、店内スピーカーのノイズが激しくなり、オリガは眉間に皺を寄せる。明滅する視界の中で、対面する少女の背中に無機質な翼が生えているように見えた。
「おばちゃん、大丈夫?」
「……あぁ、ごめん。少し疲れてるのかも」
ノイズが止んだ。数秒にも満たない一瞬の間に、ユガミの表情は元に戻っている。背中の翼もきっと疲れからくる見間違いだろう。オリガはそう結論付け、改めてスノードームを眺める。
「ユガミちゃんはさ、雪って見たことある?」
「あたしはない。この街じゃ、雪なんて降らないんでしょ?」
「おばちゃんがこの街に来てからは、一度も降ってないね。故郷だと道も家もみんな真っ白になったものだけど。……この中にしか、雪はないのかもね」
このスノードームを入荷した頃は、この店をオリガひとりで切り盛りしていたわけではない。いつも傍らにはアイラがいて、二人なら知らない土地でも平気で暮らせた。
物心ついてから故郷に一度も帰れていないアイラは、スノードームの白い粒子を見て「雪を閉じ込めた」と笑う。「お金を貯めて、いつか故郷の雪を見に行こう」と話す彼女らに、“いつか”は来なかった。
「雪、降るといいねぇ……」
「それ、サンタに願ってみたら?」
口を衝いて出た言葉に対する応答を何度か反芻し、オリガはユガミと眼を合わせる。冗談を言っているようには見えない。
「おばちゃんはね、サンタが来るような歳じゃないよ…….」
「でも、一生懸命頑張ってたんだよね? 祈った願いは報われるべきだ。あたしがサンタなら、絶対そうしてるよ」
鮮やかな桜色の虹彩が、赤い色に変わっている。その深さに吸い込まれそうになりながら、オリガは自らの足元が沼のように沈んでいく錯覚を覚える。
「願いを言って。今も抱いてる、心からの願いを」
オリガの視界が歪む。色彩を失った世界の中で、傍らにはノイズパターンで全身を覆われた少女が座っている。
アイラ。表情の見えない少女に声をかけても、答えは返ってこない。触れようと手を伸ばしても、抱きしめようと身体を近づけても、その距離が縮まることはない。
アイラの最期は、オリガが看取ったのだから。
「私の願いは……クリスマスに、雪を見ることだよ」
「本当にそれでいいの? 願いを祈れば、なんだって叶うとしても……?」
オリガは眼を瞑り、首を横に振る。別れはとっくに終えた。今更「帰ってきてほしい」と願っても、天国でアイラが困るだけだ。
「そっかぁ。じゃあ仕方ないね……」
ユガミが残念そうに息を吐くと、オリガの視界は色を取り戻す。傍らの少女は幻のように消え、“母親”は反射的に涙を流していた。
「おばちゃん、このスノードーム買うね?」
代金を支払って店を出ようとするユガミの後ろ姿を目で追い、オリザは息も絶え絶えに声を掛ける。思考は鈍く、混乱している。それでも、彼女の放つ雰囲気が人智を超えていることはわかった。
「ま、待って。ユガミちゃん……アンタは何者なの?」
レインコートの少女は振り向くことなく右手を挙げる。冬の風は強いが、彼女の周囲だけ凪を作っているかのようだ。
「言ったでしょ、“神さま候補”だよ」
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