老人斑

佐々井 サイジ

第1話

 黒田美穂は年末年始休暇より先に実家に帰ることになった。母親から「大掃除に使う道具を買いに行きたいから」という理由だった。美穂の父は半年前に持病の心臓が悪化し、突然発作亡くなった。父が生きている頃は父の運転で、母は少々重たいものでも買いに行けたのだが、亡くなってからは美穂を頼るようになっている。とはいえ、母は達者で食材の買いものくらいなら、両手にパンパンに詰め込んだ袋があったとしても自転車で運べるくらいの余裕はあった。

 玄関に入ると母の声がリビングから聞こえた。端には亡くなった父が愛用していたゴルフシューズが置いたままになっていた。

「お帰り、悪いね」

 母はテーブルに皿を並べながら言った。リビングは父が亡くなる直前に張り替えた焦げ茶色の床が光を反射していた。ちょうど昼時。美穂の腹から鈍い音が響いてきた。

「大掃除、今年は辞めようと思ったけど、やっぱり落ち着かなくて」

「相変わらず几帳面だね。床、新しいから別にいいじゃん」

「なんだか落ち着かなくてね」

 向かい合う母に美穂は何か違和感を抱えた。そういえば向かって左のこめかみに茶色いものが付着している。母がテレビをつけて、美穂に横顔を向けたとき、こめかみにアーモンドサイズの老人斑ができていた。とはいえ、わざわざ指摘しても母が嫌がることは明白だった。美穂は母と同じようにテレビへと視線を集めた。

「美穂、もう独身でいるつもり?」

 突然母が訊いてきた。今年四十歳を迎えた美穂は今まで両親に結婚のことを言われたことはなかった。私はラッキーだと思った。過去に付き合ってきた男たちは皆、とことん浮気した。ついに男性不信になった美穂は十年以上交際せず、結婚の意欲もない。

「そうだね。その方が楽だし、子どもも欲しいと思わないし。まあ、お母さんには孫の顔を見せられなくて申し訳ないと思ってるけど。でも急になんでそんなこと聞くの?」

 母を責めるつもりはなかったが、棘のある言い方になってしまった。

「だって」母は老人斑を指先で擦った。「お父さんが死んじゃって寂しいんだもん。あんたもこんな感じなのかなって」

「お母さんはずっとお父さんと一緒に住んでたからそう思うんでしょ。私は大学からずっと一人暮らしだから、もう家に他人がいる方が不気味に感じるんだよ」

「そんなもんかねえ」

 テレビからはセンターマイクの前に立つコンビの芸人が軽妙な掛け合いを繰り広げている。数日後に開催される、大型の漫才コンテストで決勝に残ったメンバーだった。去年は準優勝で終わったものの、際立ったキャラクターがお茶の間に受け、テレビ番組に引っ張りだこになっていた。一方、コンビで運営しているYoutubeは更新頻度が減り、古参のファンから怒りの声が噴出しているという噂を会社の後輩が面白おかしく語っていた。

 とはいえ、コンビ掛け合いは耳に入って来なくなった。美穂は母親くらいの年齢になったときのことを想像した。結局私も後悔してしまうのだろうか。結婚せず、子どもを持たなかったということを。

 美穂はすぐに首を振った。何度も結婚しなければと思った時期はあった。でももうその頃には男に対して何の期待もしていなかった。美穂は家事も料理も仕事もあらゆることをそつなくこなすことができた。プライベートでは三十代を過ぎてから急速に遊ぶ友だちが減り、今では人と会うことがほとんどない。それでも趣味の読書があるので、寂しいと思うことはない。

 母はすぐに興味をなくしたのか、再びテレビに視線を注いでいた。

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