咎人狩のお仕事です。

野々村鴉蚣

熱不知

1話 プロローグ

 ――この世界には罪がある。

 ――傲慢、嫉妬、強欲、暴食、色欲、怠惰、憤怒、執着、憂鬱、虚飾、邪推、狂愛、正義。

 ――十三の罪を犯してはならない。それは禁忌である。

 ――罪人には天罰を。清く正しき者には救いを。

 ――神は仰せられた。来たる約束の日に、世界は罪を浄化する。善のみが全。全てが洗い流され許される日が来るだろうと。

 ――神は仰せられた。罪人たちよ、その罪を悔い改め、神を信じよ。

 ――この世界はその日、純白となる。


 十二月二十五日、世間はクリスマス一色に染め上げられていた。その日東京では珍しく、雪が降り積もっていた。クラスメイトは十数年ぶりのホワイトクリスマスに浮かれ、教室中を飾り立てている。


「お前らが死ねよ……」


 ズタボロの制服で涙を拭ってから、俺は人気の少ない外階段を上った。今の今まで耐え抜いてきた努力は無駄だったのだ。これ以上振り回されたくない。屋上に通じる最上階に辿り着いた俺は、職員室でこっそり盗んできた鍵をポケットから取り出した。


「糞ったれが」


 その日俺は、覚悟を決めてドアノブに手をかける。金属の無慈悲な冷たさが右手に伝わってきた。しびれるような感覚を我慢して、そっと扉を押してみる。突如、真冬の冷たい風がドアを強引に開いた。まるで俺の手を引くかのように。思わず転びそうになりながら、俺は右足を踏みしめてバランスを取る。どんよりとした雲からは、銀に光る雪がホウワホウワと降り注ぐ。


 俺は一つ深呼吸をした。真っ白な息が口から零れ、胸の奥がチクリと冷たさで痛んだ。


 あぁ、引き返すなら今の内だぞ。自分に向けてそんな言葉をかけてみる。それでも、俺の体は一歩、また一歩とフェンスに向かって進み続けた。


 ふと、右目からポツリ、涙が零れた。なぜだろう、視界が歪んでくる。俺は雪の積もったフェンスに手をかけた。そこでもう一つ、深呼吸してみる。冷静になれと自分に言い聞かせる。思い残すことは無いかと自分に問いかける。今日じゃなくてもいいんじゃないかと自分に提案してみる。


 そっと振り返ってみれば、屋上の扉は閉まっていた。きっと、風の悪戯だろう。まるで俺の帰り道を塞ぐかのような偶然に、決意を固める。両親に合わせる顔が無い。上靴を脱いで、ズボンから手紙を取り出した。靴の中にそれを捻じ込んで、フェンスを登る。手紙には、俺が今日を決意した理由がつらつらと書き記されている。


「さよなら、父さん、母さん」


 俺は届かない言葉を不気味な空に伝えた。


 全てのキッカケは中学一年の夏休み明けだった。本当に些細なことだ。俺の髪は昔からかなりの直毛で、毎朝ヘアアイロンで落ち着かせる必要があったのだが、夏休み期間中にイメチェンと称して散髪をしたのだ。美容師に相談し、直毛を活かした髪型に変えてみた。ワックスの使い方も教わって、髪の毛を遊ばせてみて、夏休み明けに学校へ向かった。そこで、馬鹿にされたのだ。似合わないだの、寝ぐせみたいだの。正直俺はこの髪型が気に入っていた。だからムッとしたことは事実だ。馬鹿にされたという事実がどうしても許せなくて、その場で言い返してしまった。


「お前はダッセぇ髪型してるもんな。ファッションの良さが分かんねえか」


 売り言葉に買い言葉だった。言う必要もないことを言ってしまったなと、すぐに反省した。でも遅かった。


「は? 何お前調子乗ってんの?」


 相手が悪かった。スポーツ部の集団はその日の放課後俺を空き教室に呼び出して、報復に出た。とはいえ、可愛いものだった。ワックスを使って俺の髪形をめちゃくちゃにして、その写真をグループチャットに乗せる程度の些細な報復。でも、俺の負けず嫌いが悪い結果をもたらしてしまった。


 翌日、俺はジェルタイプのワックスを買ってきて、復讐とばかりにそいつの髪の毛をグチョグチョにしてやったのだ。その瞬間は最高に気持ちよかった。竜巻に巻き込まれてしまったかのような髪の毛でぽかんと口を開いた男をあざけ笑って、その写真をグループチャットに掲載する。昨日と同じようにみんな笑ってくれれば俺の勝ちだとすら思っていた。だが、最初から最後まで相手が悪かったことに気づけなかったのだ。


「え。なにこれ酷い」

「うわぁ、笑えないよ」

「悪趣味、最低」


 チャットは瞬く間に拡散され、生徒をいじめている存在としてSNSでも拡散されてしまった。もちろん、そんなことになるだなんてこれっぽっちも考えていなかった。俺はただやられたからやり返しただけなのに、まるで俺だけが悪いことをしたかのようにネットでは散々叩かれ、匿名掲示板には住所や電話番号なんかも晒されてしまった。


 俺の両親は昔から酷く過保護で、それを愛情だと理解こそしていたのだが、今回に限って言えばそれは悪い方に向かった。


 俺がインターネットを通して深刻ないじめにあっていると、父は即座に学校側へクレームを入れたのだ。学校はそれを校外でのトラブルとして取り入ってくれなかった。父は翌日会社をわざわざ休んで学校に足を運んでくれた。保育園で働いている母も、父に同伴するため仕事を早めに切り上げてくれた。そうして校長を引きずり出し、わざわざ俺のために抗議してくれたのだ。


 もちろんそんなことをしてただで済むはずがなく、翌日から俺は学校で完全に疎まれる存在に成り下がってしまった。先生までもが俺のことを腫物みたいに扱って、それが免罪符となっていじめは加速する。髪の毛だけだった弄りも、次第にエスカレートして暴力に変っていった。俺は毎日殴られ、シャツを脱がされ、全裸の写真をネットに投稿され、その度に差出人不明の手紙が家に届く。気味の悪い小包には、意味ありげな藁人形だとか、カビの生えたミカンだとかが入っていた。


 それでも俺は、高校に入ればなんとかなると信じて学校に通い続けてきた。もう両親を不安にしてはいけないと気づいてから、俺は積極的に学校での楽しかった出来事をでっち上げるようにもなった。中学三年に上がった頃、ようやくネットでの騒ぎは落ち着いた。いじめは無くならないものの、家に届く陰湿な嫌がらせは止まった。これでようやく両親も安心できるだろう、そう思っていた。ところが、進路相談の時期になって担任に言われたのだ。


牧氏時光まきしときみつ君、残念だけど君はちょっと、悪いうわさが絶えないからね。いい高校には入れないと思うよ」


 どうして俺がそんな目に合わなければならないのか理解できなかった。と言うかそもそも、今までどれだけ努力して勉強し続けたのかこの人は分かっているのだろうか。俺はただひたすらに、この地獄から抜け出したくて学問に集中してきたのだ。どんなに殴られようと、どんなに蔑まれようと、どんなに私物を壊されようと、いい高校に行って、いい大学を出て、いい会社に入れば両親を安心させられる。そう思ってきたのに。


「そうですか、わかりました」


 もっと早く、言って欲しかった。

 希望なんか無いんだと、もっと早くに知りたかった。

 下手に希望なんか持ってしまったせいで、俺は無駄な努力を続けていたのだ。もうすぐ高校入試が始まるのに。


 俺を三年間にわたっていじめ続けてきたこいつ等に、俺ができる最後の復讐。それは自らの命を懸けた、呪いしかない。


 そう心に決めて、俺は今こうして、フェンスの向こう側に立っている。

 冷たい風が俺の背中を押す。それと同時に、恐怖が込み上げて来た。視界に映るのは真っ白な都会の街並み。足元を見れば、小さな人々の陰。


「さよなら、父さん、母さん」


 俺は再び、どんよりとした雲に言葉を投げかけた。先生は言う、自殺は悪い事だと。両親は言う、生まれてきてくれてありがとうと。でも俺は限界だった。もう無理だったんだ。だから俺は、手を放す。体が重力に従って落下する。それでいいんだ。

 一瞬の浮遊感が全身を包み、内臓が握られたかのような不快感に吐き気を覚えた。たった一瞬のことなのに、酷く長い時間が流れるように感じる。

 次第に近づいてくる地面が、突如として真っ赤に染まった。体は不自然にバウンドしたようで、世界が一周する。俺の視界は赤から黒の空に切り替わった。痛みはない。ただ、全身が猛烈に熱かった。冬とは思えないほどの灼熱に、咳が込み上げる。口から吐き出された真っ赤な痰を見て、俺は心が少し軽くなった気がした。これでようやく解放されるんだ。


 ホッとしたのも束の間、突如全身が悲鳴を挙げた。


 熱い、熱い熱い熱い熱い。灼熱が俺の全身を焦がし、それが痛みによる錯覚だと気づいたとき、俺は激痛に悶えた。両脚は確実に折れている。痛みで呼吸ができない。無理に息を吸うと、胸の方からゴボゴボと血が噴き出た。どうやら肺に穴が開いたらしい。痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い。あまりの苦しさに、全身が強張る。頭が痛い。かろうじて動く左手でそっと頭に触れた。打ちどころが悪かったらしい。頭からはブヨブヨとした塊が零れだしていた。それを押すと、視界が一気に暗くなる。あぁ、これが脳味噌なのか、なんて冷静な感想が頭をよぎる。押す度吐き気が込み上げ、視界が歪む。頭蓋骨の中に納まってはくれないみたいだ。脳には痛覚がないと聞いたことがあるが、なるほど確かにそうだ。でも、酷い吐き気と頭痛はする。


 ふと、すぐ近くから悲鳴が聞こえた気がした。朦朧とする意識の中、片目を開く。俺の目の前には、俺を今まで散々虐めてきた奴らの恐怖に歪んだ表情が映った。あぁ、最高の気分だ。ようやく俺は彼らに復讐することができた。ざまあみろ、これでお前らの進学も終わりだ。全員の名前は手紙にしっかりと書いてある。虐めを揉み消した校長の名前も、虐めに加担した担任の名前も。全員まとめて、地獄に堕ちろ。


 俺一人の命でこいつら全員の未来が潰れるなら安いもんだ。俺は精いっぱいの笑みを浮かべて、喝采してやった。お前らに俺からのとっておきのクリスマスプレゼントだ。これから先、俺を殺したことを一生背負って生きていけ。


 でも、きっとこれは痩せ我慢だ。本当は死に向かいつつある自らの肉体が怖くてたまらなかった。恐怖で体は強張り、今にも叫びだしたくなる。死にたくない、死にたくない。今すぐ家に帰って、両親に謝罪したい。でも、もう遅い。ははは、もう遅いんだ。


 俺を見て絶句する糞野郎共を睨みつけながら、俺は恐怖を押し殺した。

 きっと折れているであろう両腕を無理やり動かして、手と手を合わせようとする。幸せなら手を叩こうって、歌があるもんな。俺は幸せなんだ。そう自分に言い聞かせて。だってそうだろう、俺のことを散々コケにしてくれた奴らに、最後の最後痛い目見せてやれたんだからさ。俺の祝福を受け取れ、そして一生のトラウマになっちまえ。


 ――パン。


 直後、俺の視界はどんよりとした雲と、真っ白に染まる街並みに切り替わった。


「……は?」


 理解できなかった。


 俺はついさっき落下して、確かに死を確信したはずだった。でも、実際俺はまだ屋上に居て、恐怖に震えている。先ほど見たのは夢だったのだろうか。いいや違う。全身を打ち付けた衝撃を、痛みを覚えている。間違いなく俺は地面にたたきつけられたはずだ。

 おかしい。何が起きたのか理解できない。だが、一つ分かったことがある。俺はもう、飛び込めない。死ぬのが怖い。あの痛みを、あの恐怖を、あの絶望を、もう二度と味わいたくない。


 その日、俺は自殺を諦めた。素直に帰ることにした。死の恐怖は、しっかりと俺の魂に焼き印として刻まれた。

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