パストコグニスト 〜過去鑑定人〜

みやこ385

第1話 契約

「水色とオレンジってさ、折り紙だったら絶対に選ばない組み合わせの色だよね。」

先ほどまで黙っていた加小里(かおり)が夕暮れの空を見上げて急に話し始めた。


「それなのにさ、どうして夕焼けのオレンジとその隙間に見える青空はこんなに美しく見えるんだろうね。」

そうつぶやく加小里の左目は少し疲れた表情を浮かべながらも、目の前の夕焼けの美しさと不思議さに魅了されていた。


確かに物事には一般的に考えたら調和しないが、ある一定の環境やある一定の条件に置かれると調和しないはずのものが恐ろしく調和し、それが人の心を突き刺すほどのインパクトを与えることがある。


「ふん。知らんな、そんなもの。興味はない。」

傍らに立っていたマサルがぶっきらぼうに答えた。

いつものビルの屋上で加小里が帰り支度を済ませるのを待っていたマサルは、立ち並ぶ室外機に上半身をもたれさせながら「早くしろ」と言わんばかりに腕を組んでいる。


「帰るぞ」

何か言おうとした加小里の言葉を遮るようにマサルが言った。


屋上には少し秋の氣配を感じさせる穏やかな風が吹いていた。

人々が行き交った街のホコリや人間の匂いを丁寧に掃き清めるような風は、加小里のスカートの裾をフワリと波打たせ、マサルの長い黒髪をなびかせた。


なんのヘンテツもない5階建の雑居ビル。

加小里はこのビルの4階の一室で「予言の部屋」という屋号で文字どおり未来を予言するセッションを営んでいる。

セッションは専用の電話番号で、翌日以降の3日間分の予約が自動応答メッセージでできる仕組みだ。

セッションは40分で1万円の料金設定だが、支払いは部屋の出入り口付近にあるポストへ紙幣を投函し、領収書が必要な者はポストの上に置かれた無記名の領収書を勝手に持ち帰ることができるようになっている。

なんとも簡素というか雑な会計スタイルだ。

加小里自身も事務作業には執着もこだわりもない様子で、むしろ煩わしいからこのようなスタイルをとっているようだ。


特に何の飾りもない部屋。来客用のソファーと自分が座る椅子、二つに挟まれたテーブル。

その他には、ドアが開いた時に部屋の中が丸見えにならないようにと置かれたパーテーションだけが入り口付近に置かれている。


この部屋に加小里は週に2日ほど通っている。


「行くぞ」

マサルがしびれを切らしたように言った。

加小里は水色とオレンジの空を横目に見ながら、マサルに近づいた。

サッサと行動しない加小里に少し苛立ちを見せるマサルだったが、それは日常茶飯事のようで加小里は全く氣にする様子はなかった。


夕焼けはだんだんと夜の闇の色に近づいてきていた。

マサルは右腕を真横に伸ばし、近づいてきた加小里の肩へその腕を回した。

すると、大きな羽音と共に黒い羽が2〜3枚舞ったかのように見えた。

その途端、二人の姿は消えた。


二人が消えた後には何も残されていなかった。

落ちたように見えた黒い羽ですらどこにもなかった。

加小里が魅了された水色とオレンジ色の空もほとんど夜の闇に飲み込まれようとしていた。


暑い夏が終わり、秋の涼しさを運んできそうな夕暮れの風だけがビルの屋上に立ち並ぶ室外機の間を静かに通り抜けていた。



「着いたぞ」

マサルは加小里の肩に回した手を放した。

二人が着いたところは山の谷間にある小さな集落だった。

築40年以上は経っていそうな二階建て家屋が10軒程度散らばって建っている小さな集落だ。

しかしよく見るとほとんどの家が空き家で、集落には住人の姿は見えない。

もう日はとっくに暮れた時間帯なのに、家々には灯り一つ点いていない。


「デンキ、点けてよ」

加小里が短く言った。

マサルは言葉には出さないが確実に心の中で「チッ」と舌打ちをしたような顔で、右手を軽く上げ、野球ボールを持つような仕草を見せた。

するとまるで手品を見せるようにボゥッとオレンジ色の炎のような光が右手の中に現れた。

マサルは軽く手首を振る動作で、その炎を1軒の家に向かって投げた。

二人の目の前でポッ…ポポッ…ポッ…という小さな瞬き音と共に、次々と玄関・居間・2階部分の部屋に灯りが灯った。

加小里はやっと家に帰れた…、という安堵のような小さなため息をついた。


「お前、こんなことばかりをして、そのうち人間に見つかるぞ」

マサルは灯りの点いた家に入ろうとする加小里の後ろ姿を見下すように眺めながら言った。

その言葉と態度には「このバカが」と言いたげな様子がありありと見えていた。


「人間は愚かだ」

マサルは緩くウエーブがかった美しい黒い髪の先を指先でくるくるといじりながら、

「ビルの屋上から消えたり、家に光を灯したり、そういうことを面白がってネットとやらに書き散らすバカな連中が大勢いるぞ」

まるで「そうなれば加小里が困っていい氣味だ」と言わんばかりの意地悪そうな含み笑いを浮かべながら言った。


加小里はマサルの言葉に無関心の様子で、さっさと家の中に入って行ってしまった。

玄関を開けると左手に古びた鏡がある。カビかサビが点々とこびりつき、全体的に汚れて曇った鏡だ。

鏡の並びに小さな下駄箱もある。こちらもホコリかカビか?白いうすいわた状の汚れが溜まっている。


加小里は玄関でポイポイと靴を脱ぎ、出かける時に玄関ラグに脱ぎ捨てておいたスリッパに履き替え、スタスタと廊下を歩いて12畳ほどのダイニングリビングへ入って行った。

帰ってきたらまずこの部屋に入るのが加小里のルーティンなのだろう。そのまま窓際の黄色いソファーにドサッと倒れ込んだ。


加小里は部屋の天井を仰いだ。

「は〜〜〜、やっぱりここは落ち着く…」

誰に向かって話すわけでもなく、加小里はつぶやいた。


居間には茶色のアップライトのピアノが置いてあった。この家の家主の持ち物だろう。

ピアノの上部にはオレンジと金色の柄の上品なカバーが被せられていて、加小里が座っているソファーとコーティネイトされているようだった。


加小里がピアノの方に目を向けると、そこにマサルが座っていた。

鍵盤部分に腰掛けて上半身をピアノにもたれさせていた。


「おい、聞いてるのか?」

マサルは腕組みをしてまるで侮蔑の眼差しで加小里を見下ろしていた。

加小里は答える様子もなく、再び天井を仰いだ。


「わたしはお前以外の人間には姿を認識されることはないが、お前は普通の人間だ」

いいのか?とマサルは言いたげだったが言葉を飲み込んだ。これ以上喋ると言いたいことが次々と湧いてきて長々と説教をしそうな氣がしていた。それもめんどうだ。


「何よ、心配してくれるの?」

ずっと黙っていた加小里が口を開いた。

ソファーに寝転んだ顔は天井に向けたまま、視線だけをマサルの方へ向けている。

その口元はうっすらと笑いを浮かべていて、その少し他人をバカにしたような表情がマサルを余計に苛立たせる。

加小里はさらにイライラし始めたマサルの表情を見て、フフ…と乾いた笑いを漏らした。

「いいじゃない、別に」

何がいいのか?別にとはどういうことか?マサルの言葉の意味を真剣に捉えていない加小里の態度にマサルはイライラを飛び越して、大きなため息とともに落胆のため息をついてしまった。


「お前がこんな契約を持ちかけるとは…」

マサルは目を閉じて両手を上げて「お手上げ」のポーズをしながら軽く首を左右に振った。

「わたしは愚かな人間たちを大勢見てきたが、お前のような異色の愚かさを持ち合わせた人間は久しぶりだ」

そう話しながら、呆れた表情を浮かべるマサルはどこか懐かしさを感じているようにも見えた。


「へー、わたしのようなバカと契約したことあったんだ?」

ニヤニヤと笑いながら興味あり氣に加小里が尋ねた。

マサルがこれまでどんな人間と契約を交わしてきたのか?については、加小里は今まで一度も聞いたことがなかった。

「あんた、すごい長生きなんでしょ?どれくらい生きてるの?」

マサルが何も答えないうちに加小里が質問を続けた。

加小里はソファーから身体を起こした。


街の雑踏や雑居ビルにセッションに来る人間、同じ年頃の女の子たちだけでなくその他多くの人間には全く興味のない加小里だったが、この美しく奇妙な存在の男には興味があった。

おそらく彼は人間ではない。おそらく、どころかほぼ間違いなく、彼は人間以外の「何か」だ。

そうでなければ、あの都会の中の雑居ビルから一瞬で山奥の廃墟集落へ移動したり、手の中から炎を出したりすることはできない。

そして何より、加小里が興味を覚えるのがマサルの「無機質性」だ。

無機質というか、生命感がないというか…。

マサルには加小里が普段セッションで靈視をしている人間たちのようなエネルギー(氣)の流れが全く感じられないのだ。

それなのに、瞬間移動や手品のように炎を操ったり…、にわかには信じ難い所業をいくつもやってのける。

この生命エネルギーが全くない美しき異形の力を持つ男は…?


「いいじゃん、契約なんてどんなふうだって」

加小里がソファーから立ち上がり、くるりとマサルに背を向けながら言った。

その背中には「どうでもいい」という表情がありありと浮かんでいた。


「確かに契約内容は人間の自由だ」

マサルの声には先ほどまでの苛立ちの様子はなかった。どうやら加小里のつかみどころの無さに本当に呆れて議論する氣持ちも失せているようだった。

「だが普通の愚民は富や権力、容姿、地位などを求めるものだ。それに比べてお前の契約はなんというか…」

マサルは本当に心底呆れているような表情を浮かべて言葉を止めた。


「だって、遠いんだもの」

加小里はさも「当然」のように口を開いた。

「だってサロンには行かなくちゃならないけど、都会は嫌いなんだもの」

都会?サロン?先ほどの雑居ビルのことだろうか?

行かなくちゃならない、とはどういうことなのか?

「それにあれこれめんどうなことを誰かがやってくれたらいいなって思っただけよ」

ふん、と言わんばかりに加小里はマサルに背中を向けたまま答えた。


「だからと言って『手足になってくれ』という願いは初めて聞いたぞ」

「まったく信じられん」という呆れた表情を隠そうとしないマサルは、加小里と初めて出会った時のことを思い出していた。



加小里がマサルと出会ったのはもう数年前のことだ。

仕事に疲れて帰宅途中に夜の公園の砂場に座り込んだ。まだ砂には昼間の氣温が残って温かかった。

遊んでいた子どもが忘れて行った赤いスコップが転がっていた。

加小里はそのスコップを無造作に手に取って、砂をサクサクと掘り始めた。

掘っては埋め、山を作っては崩し、無心で砂遊びをした。スコップからサラサラと落ちる無数の砂の粒が加小里の中の心を捉えて離さなかった。


小一時間くらい砂を触っていただろうか、ふと加小里が作った砂山の1メートルほど先に人の足のようなものが見えた。誰かが立ってこちらを見ているようだ。

しかしその足はよく見ると裸足で、足の指の爪が異様に長かった。大きさも大人の男性くらいの大きさの足だ。そして暗くてよく見えないが、おそらく昼間に見たとしても、その足は濃い緑色と灰色の間のような色をしているように見えた。

加小里は砂遊びの手を止め、ゆっくりとその足の先から足首、膝、太もも、上半身…と、視線を上げた。

そこには背の高い20代後半くらいの容姿の男が立っていた。

長いウエーブのかかった黒い髪、切れ長の目、鼻筋がスラリと通っていて、薄くも厚くも無いバランスの良い唇は不適な笑いを浮かべていた。

顔の作りは一般的に言えば「美形」だ。

ただし、肌の色が深緑と灰色の間のような見たことのない色合いであることと、長く美しい形の手足の指先に黒い長い爪が10本ずつ生えていることを除けば…。


「誰?」

加小里は少しかすれた声で尋ねた。

この異様な姿の青年を前にしても不思議と加小里の心に恐怖は湧いてこなかった。

むしろなぜか、コイツに喰われて死ぬのも悪くない、と思ってしまった。


「ほお、わたしが怖くないのか?人間よ」

異形の青年はその端正な顔立ちでうっすらと笑顔を浮かべながら言った。

何度見てもなかなかの美形だ。ただし、その深緑とも灰色とも分からない皮膚の色が氣になるが…。


「わたしはお前を食ったりはしない」

加小里の考えていることを見透かしているのか?青年は続けた。

「わたしはお前と賭けをしにやってきた。わたしと契約しろ」


青年の言葉に加小里は露骨に「????」という顔をした。

夜の公園で砂遊びをしていた女の前に突然、異形の美青年が現れて「賭けと契約」を持ちかけてきたのだ。恐怖や驚きという感情を一瞬で通り越して「無」に近い心境になってしまうのも無理はない。


「は?何言ってんの?」

加小里は異形の美青年に無愛想に尋ねた。


「分からんか?そのままの意味だ。わたしと契約をしろ」

さっきは「賭け」と言ったぞ?賭けの話はどこに言った?何かの契約をすると賭けがスタートするのか?それともこの異形の美青年の住む世界では、賭けも契約も同じ意味なのか?

加小里はぐるぐると考えが頭を駆け巡ったが、どうにもこの状況を正しく理解することができなかった。

そもそもこの男は誰だ?


「あんた誰?名前は?」

とりあえず少しでもこの場を理解するために情報が欲しい加小里だった。

名前を聞いたところで「ああ!○○さんね!」と思い当たる節があるとは到底思えなかったが。

26歳になる大人の自分が公園の砂場で小一時間も砂を掘り返していることも普通ではないが、この深緑灰色の男が見知らぬ自分に何かしらの契約を持ちかけてくることもかなり普通ではない。

どうにかして、目の前で起こっている事象を「なるほど、そういうことか」と理解したい加小里だった。


「名前か、名前などお前が勝手に決めろ」

異形の美青年は興味なさそうに答えた。

相手の名前を自分が勝手に決める?!なんだそれ?大丈夫かこの兄さん?!

加小里は頭を抱えて走り去りたい氣分に襲われた。


だがなぜか…


「じゃぁ、マサル」

と、口からこの異様な美青年の命名を呟いてしまった。

はっ!と氣がついた時には遅く、自分でも何を口走ってしまったのか?自分で発言しながらますますこの場の状況が分からなくなってしまった加小里だった。本当に全力で走って逃げ出したい氣分だ。


すると深緑灰色の美青年は、切れ長の目を一瞬ギラリと輝かせた。


「はははっ!さすがだな。マサルか、なるほど。いいな。」

と言いながらとても愉快そうに、それでもかなり乾いた声でハハハと笑った。


「いいだろう、わたしは『マサル』だ」

ひとしきり笑い終えると、マサルは言った。


「初めまして、加小里。わたしはマサルだ。お前と契約がしたい」


「何笑ってんのよ、氣持ち悪い」

加小里はピアノにもたれて腕を組みながら目を閉じて薄ら笑いを浮かべているマサルを見て「うげー」という顔をしながら言った。

部屋の時は20時半を回ろうとしていた。

もうこんな時間か…、お腹が空いてきた。


「別に、なんでもない」

そう言いながらマサルはピアノにもたれかかっていた身体を起こした。スラリとした姿。

身長は人間に例えたら190cmはあるだろうか、スタイルの良い身体、長い足、黒い長い爪のせいか手足は人間のサイズより少し大きめに見えた。

片手を腰あたりに当て、まるでモデルのポーズのように立っていると美しい顔立ちと合わさって本当に美形に見える。


「あんた、緑色じゃなかったら本当にいいのにね」

加小里は思わず「うげー」という顔でさも残念そうに思ったことを口にしてしまった。

「黙れ、人間」

マサルは特に怒った様子はないが被せるように答えた。


「じゃぁな、わたしは行くぞ」

マサルはそう言って部屋を出ようと加小里の前を通り過ぎた。


「待ってよ」

加小里は通り過ぎようとするマサルの長い爪を生やした緑色の手を掴んで歩みを静止した。

日常のほとんどのことに無関心でいつもどこか上の空な加小里がいつになく積極的に語りかけてきたことにマサルは少し驚いて立ち止まった。

加小里から手を握ってくることも珍しい。人間にしては感情の抑揚があまりない加小里がたまに見せる人間らしさがマサルは嫌いではなかった。

この後、この女は何を言うのか?マサルは興味があった。


加小里はマサルの左手を両手で挟むように握った。

そして言葉を選んでいるのか?ゆっくり顔を上げてマサルの顔を見つめて2〜3秒黙った後…

「買い物するの忘れちゃった。ふもとのコンビニまで連れてって」


このクソ人間め!と言わんばかりの無言の圧が部屋の中の空気を伝ってピシりと走り、食器棚の端のガラス戸にわずかな亀裂が入った。

加小里はそんなマサルの表情を見て「てへっ」と小さく笑った。


廃墟集落は満月の夜を迎えていた。主人のいない家々の輪郭は月の光に照らされて静かに夜の闇に浮かび上がっている。

深緑灰色の美青年と異形に無関心な女の奇妙な共同生活はこの集落の中で、謎の「契約」とともに営まれている。

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