黒
宝力黎
第1話 はじまり
〈高速道路を逆走してきた乗用車が正面衝突事故を起こした〉
そのニュースに反応する客はいない。だれもが自分のラーメンを啜り、終えればただ店を出て行く。拘りのない町のラーメン店なので列も出来ず、気楽な空気が好まれて昼時の勤め人に人気だ。
昔ながらにテレビもつけてあるが、事故だろうと政治だろうと観る者は殆ど無い。大事なのは短い昼食時間で効果的に満足を得ること、その一点だ。
テロップに〈激突された乗用車側で運転していた父親と助手席に乗っていた小学一年生が死亡〉と毒々しい文字で書かれていても誰も見ない。
アナウンサーが映り、続いての話題は新宿で行われた田舎飯フェスについて……と笑ったが、それも誰も観てはいなかった。
【はじまり】
「澤田さーん、お願いしますよ。お話聞かせてもらえませんか?加害者に対してどう思います?何か一言、なんでもいいんですよ」
若い男は近所に聞こえる声でそう言った。応答が無いと分かると「ちっ!」と舌打ちをした。衿子は震える手でカーテンをそっと閉じた。
見えたのは男が数人、家の前で話している様子だった。インターホンはすでに衿子自身が引きちぎり、床に投げつけたので繋がっていない。反応が無いとみて報道陣は声を上げているのだ。
葬儀場でもマスコミはカメラを向けてきた。さすがに放送では顔を映さなかったが、それでマナーを守っているつもりなのだ。他人の悲しみを撮し、見せ、それを生業にする。悔しさで噛んだ唇から血が流れたが、それすらも放送では〈妻は悲しみのあまり噛んだ唇が切れるほど――〉と言われた。事故から一週間が過ぎても涙は涸れない。その涙が、夫・弘文と一人息子の翼を失った悲しみなのはいうまでも無いが、その後に受けたあまりにも理不尽な〈社会の反応〉にも衝撃を受けた。
警察からその後どうなっているか逐一連絡など無かった。テレビ報道など見る気にもなれない衿子は〈文字ならば〉の思いでネットニュースを見た。何か進展が無かったか、それを知りたい一心だった。だが、そこで目にしたコメントの数々に驚愕した。その多くが、加害者への非難より被害者側への〈意見〉だったのだ。
〈俺なら避けられたな。結局は運転技能なんだよ。身を守るのは自分〉
〈奥さんまだ若いんだろ?じゃあこれからまだまだ……おっと、余計なこと書いて削除されてもつまんないな〉
〈私なら子供とは離れないなぁ。どういうの?母親の本能って言うか?そこの差?〉
信じられなかった。何故自分はこんなことを言われているのだろう――そう思うと血の気も引き、倒れてしまいそうになった。なぜこうも何度も何度も、会ったことのない者たちは他人の傷口に手を突っ込み、中を覗き込んで想像でものを言うのだろう?そう思うと衿子は恐怖すら感じた。リビング脇の和室に飾り置かれた段飾りの前に頽れ、衿子は身体を震わせ泣いた。泣いても慰めてくれる夫の優しい手はもうない。抱きついてくれる幼子もいない。何故居ないのかが理解出来ない。事故だというのは頭ではわかるが、衿子の人生から二人が消えたという現実が理解不能だった。自分自身を失ったのと同じだった。何故自分はこうしているのだろう?なぜ三人一緒じゃないんだろう?
視線を上げると遺影がある。笑っている。そうだ、あの日、私だけ仕事の都合で義父の家に行かなかったのだ――と思い出し、自分を悔いた。
加害者へ思うこと――とレポーターは言うが、恨み言を言って欲しいのか。そう思うはずですよねと言いたいのか。自分だけ生き残った事への寂しさや罪悪感を吐いて欲しいのか。それを観てなにを感じたいのか。
――なんで?ママ……なんで?
――衿子……衿子……。
衿子には声が聞こえた。なぜ、どうして一緒じゃないの?と言う翼の声だ。
「よくクン……翼……翼ぅ……あなたぁ……」
この感情をどうすればいいのか衿子にはわからない。なぜと問いたいのは自分も同じだと思った。何故一緒に逝けなかったんだろう。それを思うと人生で味わったことのない孤独感が身体に満ちてくる。自分は欠けたのだと衿子は思う。もう自分は欠けた自分だ。不完全な自分だ。でも、何故欠けたのか。ぼんやりと思い返した。
加害者・野瀬村の名を知ったのはどこでだったかさえ思い出せない。会社経営者で、年齢は七十代後半だという情報も衿子の頭にはある。それらを知ったあとも、奇妙なほど怒りは湧かなかった。勿論普通では居られない。目もくらむほど興奮した。だが、怒りとは違った。思ったことはただ一点。
「なんで……この人なんで生きてるの?なんで舌を噛んででも死なないの?なんで家族は生きてるの?なんで?平気に生きていられるのってなんで?」
それは純然たる疑問だった。人を殺したのだ。罪悪感で生きていられるはずがない。それでも生きていられるというなら、つまりは殺した相手のそれよりも自分の命の方が大事だと言っているのも同然だ。
「なぜ、生きていられるのよ」
本人に尋ねてみたかった。何故生きていられるの?と。
遺影は笑っている。もっと見ていたかったのに、もう見ることは出来ない。野瀬村が服役するかは衿子にはわからないが、死刑でないことはわかっている。交通事案に死刑はない。生きていて良いと法は言う。だが――。
「誰が決めたのよ……自分は何も無くさないくせに」
日は傾き、いつの間にか家の中は暗い。這うように窓まで行き、外を見た。衿子が出てこないと知り、報道の人間も姿が見えない。帰れば家族がるだろうと思うと怒りが煮えたぎった。
「自分は何も無くさないのに」
他人の傷には遠慮も何もない生き物だ。それを〈真実を伝える〉と言って番組にする。自分に不幸があっても報道するだろうかと思うと、衿子は野瀬村に対するものと同じ疑問を感じた。
「何故他人の傷なら平気なの?なにが楽しいのよ」
闇を振り返る。遺影も闇の中にぼんやりとしか見えない。その口元の笑みだけが微かにわかる。黒いものが部屋に充満するのを衿子は感じた。それは衿子の心の中にまで染みこんでいく。
闇の中で、衿子は微かに笑った。
黒 宝力黎 @yamineko_kuro
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